渋沢敬三の伝記

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父・渋沢敬三 あとがき / 渋沢雅英

渋沢雅英著『父・渋沢敬三』(実業之日本社, 1966.10) p.202-204掲載
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あとがき

 父が亡くなってからこの十月で三年になる。伝記を出そうかという話は死後いろいろあったが、ひとつも実現しなかった。れいれいしい「渋沢敬三伝」などをほしがる父ではなかったが、何かひとつぐらいあってもいいような気がしていた。しかし、まさか私が書こうとは全然思っていなかった。

 今年の正月、もと実業之日本社におられた尾崎さんにお目にかかったとき、「お父さんのことを書きませんか。」と言われた。その瞬間、これは書くべきだとすぐ、強く思った。しかし自信はなかった。

 ひとつは、私には父の本当の姿はわかっていないという確信に似たものがあったこと、もうひとつは、父は珍らしく間口と幅のひろい人で、おつき合いのあった方々が、それぞれの立場で、違ったイメージをもっておられることを知っていたからである。何を書いてもそれは違う、お前はお父さんをわかっていない、と言われそうな気がした。お前はお父さんを過少評価しているという非難もうけそうな気がした。

 しかし一方、これを書くことによって、父や祖父についての私自身のイメージを確認してみたい気持も起ってきた。

 三月の末、少し体をこわして静養をすすめられた。たまたま相馬恵胤さん、雪香さんご夫妻が軽井沢のお家を十日ほど貸して下さった。雪香さんは父が亡くなる前、数カ月、ほとんど毎日のようにお見舞をいただいて、父もとても感謝していた。そこでこの機会に、とにかく当ってくだけろと考えて、静かな軽井沢の雪景色の中でこの本を書き始めた。

 案の定ずいぶん苦労をした。考えれば考えるほど、書けば書くほど、父は遠くへ逃げてしまうような気がした。父は私のような未熟な者に、自分のことを書かせたくないのかもしれないとひがんだこともあった。書き終った今でも父が喜んでくれるかどうか半信半疑である。

 この本にはきっと間違いが多いに違いない。父は多分許してくれそうな気がするが、父をご存じだった方々のご叱正をいただきたいと願っている。

 私は父を愛していた。父を知ることは日本を知ることであり、人間を知ることであった。そしてこれからの人生に、父のもっていた精神を生きぬく決心をすることでもあった。

 尾崎さん、相馬さんご夫妻、原稿の整理や写真の選択などを手伝って下さった河岡さん、宮本恵子さんにお礼を申上げたい。

  昭和四十一年六月
  渋沢雅英


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