歴史の立会人として | 渋沢敬三について

渋沢敬三 歴史の立会人として

写真出典:『柏葉拾遺』(柏窓会, 1956.08)p.40

 渋沢敬三は17歳の年に実業家である祖父・渋沢栄一の継嗣となった。その後、旧制第二高等学校へ進学したが、当初は動物学への興味から大学では理科への進学を希望していた。ところが1915(大正4)年の秋、実業家になってほしいとの栄一の懇請を受け入れ、東京帝国大学では経済学を学ぶことになった。この時の気持ちを「動物学は死んだ子のようになってしまった」と敬三は語っている。

 栄一古稀の頃から晩年まで、敬三は、すでに実業界を引退し社会公共事業に尽力していた栄一に随伴し、あるいは名代として栄一を助け、その仕事ぶりを間近で観察し、体験した。伝記執筆ではなく伝記のための資料を集めておくのが身近な者の使命と考え、全68巻にもわたる『渋沢栄一伝記資料』の編纂を進めたのは敬三であった。また、栄一を歴史的・社会的な文脈の中でとらえる「日本実業史博物館」を祖父の記念事業として構想したのも敬三であった。そこには、動物観察の自然科学を目指した敬三が、歴史の開拓者であった栄一を観察し、その証人として記録を残すと共に誰もが利用出来るようにしようとした姿勢が表れている、といえる。

 敬三自身、とりわけ経済界における敬三は自発の意図による開拓者というより、巡り合わせでその役割を与えられた、という側面があったことは否めないかもしれない。しかし、かといって傍観者では決してなく、実業の分野においても学術研究においても、オーラルヒストリー、資料収集による博物館やアーカイブズの設立など、記録を残し、整理し、利用に供する様々な仕事を通して、過ぎゆく歴史の実相を後世の役に立てようとした。その点でも「歴史の立会人」とよぶに相応しい役割を果たしたといえよう。

 なお、『渋沢栄一伝記資料』のための収集資料は渋沢史料館に、日本実業史博物館のために収集された資料は国文学資料館に所蔵され、現在も歴史を紐解くよすがとなっている。

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