渋沢敬三について

1896(明治29)年生まれ。東京帝国大学経済学部卒業。横浜正金銀行、第一銀行を経て日本銀行総裁、大蔵大臣をつとめる。一方で民俗学や漁業史を研究、学術団体を支援するなど、文化活動にも注力した。号は「祭魚洞(さいぎょどう)」。1963(昭和38)年没。

経済人として

若くして祖父渋沢栄一からその後継者に懇請され、実業界に入る。東京帝国大学経済学部卒業後すぐに横浜正金銀行へ入行。第一銀行を経て第二次世界大戦終了前後に日本銀行総裁、大蔵大臣を務め、転換期の日本経済において重責を担う。

公職追放解除後、国際電信電話(KDD)初代社長、文化放送会長などを歴任。国際商業会議所総会の東京開催(1955年)に尽力するなど財界でも国際的に活躍。金融制度調査会をはじめとする政府の各種審議会委員も務めた。

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文化人として

自邸で立ち上げた「アチック・ミューゼアム」には多くの同人が集まり、研究者が輩出される。1932(昭和7)年に静岡県内浦で大川家文書を発見・整理し、のち『豆州内浦漁民史料』を刊行。保谷に民族学協会附属博物館を開設しアチック収蔵民具をすべて寄贈、庶民資料館や水産資料館の設置を推進するなど、資料保存・文化財保護にも尽力。九学会(人類・民俗・地理・宗教・考古・心理・言語・社会・民族)連合会会長を務め、文化の実地的・総合的見方を説いた。

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歴史の立会人として

「一見つまらぬ様な事でも、ありのまゝに出来得る限り集めて置かねばならぬ。そして後に伝記を書く人に自由に使用させねばならぬ」として『渋沢栄一伝記資料』の編纂を指揮。また「渋沢青淵翁記念室」「近世経済史展観室」「肖像室」からなる「青淵翁記念日本実業博物館」構想を竜門社に提唱、設立準備室を組織して資料収集にあたった。

この二大プロジェクトで栄一を、歴史の文脈の中におくと同時に、同時代の幅広い資料の中で捉える視点を提供しようとした。

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