文化人として | 渋沢敬三について

渋沢敬三 文化人として

写真出典:『柏葉拾遺』(柏窓会, 1956.08)p.43,49

 渋沢敬三は、大正・昭和期の政財界で活躍する一方、学問に強い関心を持ち、いきいきと活動した。大学生の時に自宅の物置小屋の屋根裏に「アチック・ミューゼアム(屋根裏の博物館)」と称する小さな博物館を設け、仲間と集めた郷土玩具や化石などを展示していた。アチック・ミューゼアムは、やがて若手研究者の集う場となり、人々の暮らしを明らかにするために民具や漁民資料などを収集したり、地域の総合的な調査・研究を行うようになった。その成果は多くの報告書、資料集として刊行されており、現在でも貴重な学術資料として高い評価を受けている。

 敬三は自らを「学者ではなく、一実業人」と位置づけ、「資料を学界に紹介・提供すること、そのために努力する研究者の仕事を援助・実現する」ことを使命とした。その姿勢は、特定の資料を選びだすのではなく、可能な限り資料のすべてを印刷に付すという方針ともなり、その後も多くの資料集を刊行した。同時に、敬三は、収集した資料や研究成果を、博物館などを通して公開することに着目し、晩年に至るまで、博物館に対して強い思いを持ち続けていた。史料保存・文化財保護への尽力ばかりでなく、九学会(人類・民俗・地理・宗教・考古・心理・言語・社会・民族)連合会会長を務め、日本民族学会設立に際し多大の財政的援助を行うなど、学術世界の支援者であり、よき理解者であった。

 敬三の事績は、アチック・ミューゼアムでの調査・研究活動は神奈川大学日本常民文化研究所で、多くの民具をはじめとしたアチックでのコレクションは国立民族学博物館で、収集に関わった水産資料などは国文学研究資料館や水産総合研究センター中央水産研究所で、そして彼の蔵書は流通経済大学図書館でというように諸機関で受け継がれ、活用されている。そして今、さらに将来にむけても役立てられようとしており、文化面における敬三の志向性は今日でも生かされている。

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