渋沢敬三の伝記

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父・渋沢敬三 〔9〕 / 渋沢雅英

渋沢雅英著『父・渋沢敬三』(実業之日本社, 1966.10) p.165-184掲載
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第九章 最後のエリート

 日研化学の奥村社長さんがこんな話をして下さった。

 奥村さんは前に国際電電会社の役員をしておられたが、ああいう特殊会社の例で郵政省との間にごたごたが起きて、何人かの役員が辞任しなければいけないことになった。奥村さんもその一人に入っておられた。そこで父は奥村さんの退職金を持ってお宅に伺うと言い出したそうである。何もそんなにしてくれなくても、と一応辞退されたが、父はきかないでとうとう奥村さんの自宅に伺った。奥さんにお目にかかると、

「どうしてもあなたにお目にかかってお話ししたかった。今度ご主人が退職されたのは決してご主人の咎ではない。官庁との関係上やむなくこうなったのだから、どうかご主人を責めないでいただきたい。それが申し上げたくてやってきました。」と言ったそうである。

 なかなかいい話だと思う。人情の機微をわきまえ、誠実味があって、たくまない自然さがある。日本人はこういうことが好きだし、またその中に含まれた精神性をよく理解する国民である。天衣無縫とこまかい心づかい、それが一緒になったとき達人ができる。こういう人をなくして、私はいったいこれから誰を友として生きて行こうかと思っています、と奥村さんはしんみりと言われた。

 父はしばしば全く相反する二つの面を兼ね備えていた。学者であるかと思えば財界人であった。古いかと思えば新しく、洒脱であるかと思うとひどく現実的である。無限の空間に遊ぶこともできれば、一方きわめてよく限度を知っていた。お金がなくても平然としているし、あればあったで喜んで使っている。無欲でありながらきわめて意欲的である。

 ポール・ヴァレリーに「真理は常に両面を持つ。」という言葉があったが、真理というものは、元来われわれの人生に対する基本的な態度の中にあるのであって、言動となって外に現われた形は、状況や相手によって千差万別の姿をとるのが本来であるのかもしれない。孔子様は、仁とは何かという質問に対し、相手によって殆ど相反すると思われるような、いくつもの違った答え方をしている。人生をありのままに受け入れれば、そういうことになるのかもしれない。その辺の消息を巧まずに自然に表現したのが父の人生だったようである。

 隔世遺伝ということもあるのだろうか、子供の篤二は風貌も性格も父の栄一にあまり似ていなかったが、孫の敬三は、恰幅、顔形、起居ふるまいから字の書き方に至るまでなかなかよく似ていた。栄一の死後「いいお跡取りだ」と多くの人に言われたというが、たしかに血縁でなければ考えられない、いろいろな類似性があったようである。栄一は九十二歳という長命だったから、それによく似ている以上、父もきっと長生きをするだろうという感じを皆がもっていた。たしかに父は丈夫で、ろくに病気をしたこともなかったから、これならきっと相当の長生きは間違いないと、人も思い、本人もなんの気なしにそう考えていた形跡がある。そのことが日ごろ慎重な父にしては意外な不注意を招き、早逝の原因ともなったように思われる。

 父と栄一を比べる人がよくあった。特に父が日銀総裁、大蔵大臣などと社会的地位が高くなるにつれ、父のいわゆる「ファン」の人たちは、二人を同列に考え、大きく期待することに喜びをもつようになった。私も中学生の頃、「要するに(父と栄一とは)どこが違うんですか?」などというつまらない質問をしたことを覚えている。

「てんでキタエが違うよ。青淵先生は真剣勝負をした人だ。似ても似つかない。」父はそう答えた。

 栄一は青年時代京都で勤皇浪士の仲間入りをして、剣を取って実際に戦ったこともある。その後転身して一橋家に仕え、水戸の藩主民部公子のお供をして維新直前にフランスに渡航、帰国後は再び転じて明治政府に出仕し、わが国で始めての近代的な財政、税制の基礎づくりに奔走する。数年後にはさらに三転して野に下り、銀行や会社の設立経営に当った。それはたしかに波瀾万丈、革命的な人生であり、父の場合とは基本的に違ったものであることは、容易に納得できた。しかし「真剣勝負」というのは何を意味しているのか、その時の私にはよくわからなかった。

 栄一の演説や書き残したものを読むと、四十年、五十年の歳月を越えて、雄渾な気迫と情熱がひしひしと迫ってくる。八十、九十になってもまだ自分の青年時代の体験、自分がどういう経緯で、どんな決意をもって自分の道を選んだか、そのためにどんなにして戦って来たかを、烈々として語っている。得意になって自慢話をしているのではなく、何とかして聞き手である後輩の心に「偉大さ」のスパークを与えようとして、自分のもっているすべてを投げ出し、与えつくそうとするひたむきな熱意がそこに感じられる。自分を疑ったり、ためらったり、情熱的であることを気恥しく思ったりする「弱気」は、片鱗も見られない。

 これに比べたら父の一生はずっと複雑であり、内省的であった。全体の風むきに無理にさからったり、自分の能力以上のことを企てたりしない慎重な行き方の中には、体を張って世の中と対決するという趣きは少なかった。しかしだからと言って父は「真剣勝負」をしなかったのだろうか。父には父なりの真剣勝負、栄一の場合とその趣きは違っていても、同じように緊張した人生との対決があったことを、長ずるに従って私も感得するようになった。

 父は人や物のもっている生命を生かし、育てることにつきることのない興味をもち、責任を感じていたように思う。東京女子大の宇野教授が戦時中、坐して召集令状を待つか、それとも軍の研究所にでも入るか、決心をしなければならない立場になって父に相談をされたという。父は「ここ(アチック・ミユージアム――後の日本常民文化研究所)で勉強したらどうかね。僕は君の好きなことをさせたいと思っているが、何を一番やってみたいかね。」と言ったという。武蔵野美術大学の宮本常一教授に始めてお会いしたころ、父はさりげなく、「そのうちアチックへきて、知っていることをみんな吐き出してみるといいんだね。」と言ったということである。なにげない言い方ではあるが、こうした言葉は相手の中にある生命のすべてを引き出そうとする、かなり強い意欲と使命感がなければ出てこないものだと思う。

 父の周囲には多くの若い人がいたが、父は彼らが成長しすぎて枠をはみ出すことを恐れるようなことはなく、これを妨げるようなことは決してしなかった。父は嫉妬心や自分の立場を脅かされるという恐れをいっさいもたず、すべての人の成長と発展を心から喜ぶことができた。なぜなら父の枠は世界全体であり、父の目標は、人類の成長そのものにあったからである。成長は神のいとなみであることを父は知っており、神に仕えるような無私な心で、父はまわりの人の成長のためにすべてをかけた。従って父がこの世に恐れなければならないものは何一つなかった。だからほとんど無手勝流に近い姿で人生をわたり、その真諦をつかむことができたのだと思う。

 自分の利益のために人を利用しようとする根性は、父には全くなかった。相手の成長を心から喜ぶという、本格的な雅量を父はほとんど生れながらにして身につけていた。 一方、成長すべき生命が、因襲や世の中の無理解、事大主義、官僚主義などによって阻害されていることを決して許そうとしなかった。感情的になって正面から喧嘩をするようなことはなかった。例え相手が間違っていても、そこにはそれ相当の生命のいとなみがあり、それを無視して一方的にきめつけることは、かえって角を矯めて牛を殺すことになることを父はよく知っていた。しかし不当な圧迫を受けている生命に対しては、それがなんとかしてあるべき成長を遂げ、その結実が正しい評価を受けるように自分を捨てて、努力をした。

 学校時代私は勉強が嫌いで、「早く卒業して自由の身になりたいものだ。」と言ってこぼしたことがあった。それを聞いていた父は、「君はそんなことを言うが、僕は銀行では本当に心からぞっとするようないやな目に会うこともあるんだよ。」と言った。

 父はよく「いやなことを逃げては駄目だ。」と言っていた。例えば役員や社員の人に退職してもらわなければならないような場合、「引導を渡す役は皆いやがってやろうとしない。」と慨嘆し、自分は、自分だけがいい子になるようなことはしない決心をしていると言っていた。

 日銀の山際総裁が、父の仕事ぶりについて「渋沢さんは事業を育てるということについては随分興味を持っておられたし、誠心誠意つくされたように思う。」と言っておられた。「銀行の仕事は真面目に勤めはしたが、面白いとは思わなかった。」と言っていた父も、その事業の生命、そこで働く人たちの成長については、個人に対する場合と同じように、深い興味と関心を持っていたのだろう。

 父の死後、出光佐三さんにお目にかかったら「お父さんにはずいぶん世話になりました。」と云われた。戦前出光さんが中支で大きい仕事を始めようとされたが金融がつかず、困っておられた。父は当時第一銀行の常務をしていたが、出光さんのお話をきくと即座に「結構です。お貸ししましょう。」といって当時のお金で五百万円とか千万円とかいう、かなりの額のものを融資したのだそうである。

「銀行は人に金を貸すんだ。この人ならと思ったら思い切り援助するべきものだ。近ごろは貸す方も借り方もお役所仕事みたいでつまらなくなったね。」と父はときどきそんなことを云ったが、そのときにはあまりあっさり返事をしたので、借りる出光さんの方が驚かれたほどであったという。

 父があまり好まなかったというか、どちらかというと顔をそむけたただ一つのものは政治であった。昭和三十八年一月、NHKの「昭和財政史」というテレビ放送で、東大の安藤良雄教授との間に次のような対談をしている。

安藤 ―― 政治につきましては……
父  ―― イヤ、もう大嫌い、私には政治はできません。
安藤 ―― (大蔵大臣時代が)政治の空気を直接お吸いになったほとんど唯一の……。
父  ―― ええ、もう驚きましたね、あの時分でも驚いたのだから、今ならもっと驚くでしょう。
安藤 ―― どうも政治は――日本の政治はまだちょっと低いということでしょうか。
父  ―― いや低いとか何とかより、趣味に合わんですね。

 終戦のどさくさではあったが、父自身が一度、進歩党の総裁に担ぎ出されそうになったことがある。冬の寒いころだったが、沢山の国会議員の人たちが、毎朝早くから三田の家につめかけてきて、膝詰め談判であった。父はむろん断わり通した。

 大蔵省その他で仲良くしていた方が政界に出られると、「あの人があんなになってしまった。政治はよくないんだね。」と慨嘆した。政治のやり方、選挙制度などの中に、何かいやな間違ったもの、人間の自然の成長を妨げ、歪めてしまう何かがあることが父には我慢できなかったのだろう。政治というものは本来「まつりごと」であり、神に仕える業であり、国民の心を育て、人類の生命をはぐくむべきものであるのに、政治に入るといつの間にか魂を売り渡してしまうようになるのは、いったいどういうことなのだろうか?

 渋沢栄一が長い一生を通じて持ちつづけた一つのテーマは、官尊民卑の打破ということであった。

 栄一は北埼玉の深谷に近い八基《やつもと》村というところに、名主の息子として生れたが、十七歳のときに父市郎右衛門の代理として、岡部の代官所に呼び出された。代官は栄一を始め三人の名主を呼びつけて、領主の姫君の婚礼の費用としてそれぞれ五百両ずつ賦課金を申しつける。有難くお受けしろと言った。二人の名主は平伏してお受けしたが、栄一はガンとして聞かなかった。自分は父の代理として出頭したのだから、父に聞かなければご返事はできませんと断った。十五歳にもなって何を言うか、子供の使いではあるまいし、そんなことですむかと代官は大いに怒ったが、栄一はついに我意を張り通した。

「陣屋を退出した栄一は、秋晴れの稲田も、遠い連山も目に入らなかった。彼の頭は代官の侮辱で一杯だった。領主は定期的に年貢を取立てていながら、なぜ農民から不時の金まで取上げるのだろう。それも貸した金を取戻すのよりも権柄づくなのはどういう訳だろう。あの代官の言動を見ると教養ある人物とも受け取れない。そんな男になぜああまで威張りちらされなければならないのだろう。

 そもそも人間の尊卑は、賢愚や徳、不徳によって生じる。それが理屈からいって当然だ。ところがあんな男が横柄に構えているのは、彼がただ侍だからである。武士と百姓になぜこう身分の差別があるのだろう。事の理非曲直を度外視して、武士だから威張り、農民だから平伏する。そんな階級制度は間違っている。それというのも幕政が悪いからだ。」

 これは渋沢秀雄氏著『渋沢栄一伝』の一節である。秀雄氏はこの話につけ加えて「晩年の父はこの話がでると、『親がなければ代官を張り飛ばして出奔してしまったかもしれないよ。あんな腹の立ったことはなかったね。』と笑っていた。」と書いておられる。

 このことは栄一にとって一生を通じての信念となった。家を出て浪士となり、倒幕運動に参加したのも、また後に明治政府を退いて、一国民として実業人の地位の向上のために献身的に努力しつづけたのも、すべてその表現であった。

 父の一生にはそういう反発による情熱といったようなものはなかった。しかし父は父なりに自分の道を、常に変らぬ情熱と一貫性をもって進んで行った。人に対する愛情、かくれた人の善意、努力といったものに対する尊敬と愛情が、数ある随筆、序文などの中に終始一貫して流れている。

「常民文化」という言葉をつくったのも父である。とかく貴族の行動や文化だけが歴史として書き残され、実際に国の運命を背負い、これをおしすすめてきた国民一般の生活が忘れられてしまうことを嘆いていた父は、支配者の文化と違った国民全体という意味で、常民という言葉をつくった。庶民とか民衆とかいえばやや見下した感じがするし、人民とか大衆とかいえばまた別の階級的な色合をもってくる。

「(常民とは)貴族、武家、僧侶階層などを除くコモンピープルの意として用いだせるもの、農山漁村のみならず市街地を合せ、農工商一般を含むものとして小生作出にかかる。」(柏葉拾遺)

 身分や地位にこだわり、一般の国民を見下すようなスノビズムには父は全く縁がなかった。しかし同時に労働者や勤労大衆だけが偉くて、貴族、資本家などはすべて抹殺してしまうというような態度にも、同調しなかった。父はすべての人間を、人間として同様に相対した。人間はすべて同じ人間であり、その全体を捕えて行かなければ本質は失われてしまうことを父はよく知っていたようである。

 多くの人は、父をきわめて幸福な人生を送ったと考えているように見える。かなりの資産もあり、若くして銀行の重役となり、長じては日銀総裁、大蔵大臣など、経済人としては一応位人臣をきわめた。だれの目にも羨しいようなキャリアである。しかし実際には、私は父の人生は、人が考えるほど幸福なものではなかったと思う。

 自著『犬歩当棒録』の中で、父は自分の人生を次のようにわけている。

 一、中学時代       明治四二年――大正四年
 二、二高・東大時代    大正四年――大正十年
 三、正金銀行時代     大正十年――大正十四年
 四、同族会社時代     大正十五年一月――七月
 五、第一銀行時代     大正十五年――昭和十七年
 六、日銀・大蔵省時代   昭和十七年――昭和二一年
 七、パージ・ニコボツ時代 昭和二一年――昭和二八年
 八、KDD社長時代     昭和二八年――昭和三一年
 九、諸会長・非常勤時代  昭和三一年――

 クロノロジカルにはたしかにこの通りだと思うが、この本を書きながら、私はふとこんなわけ方もできるのではないかと思った。

 一、子供時代       出生より中学上級まで
 二、修業時代       高校から栄一の死まで
 三、発展時代       栄一の死から戦争まで
 四、戦後時代       戦争末期から発病まで
 五、病気時代       発病から死の時まで

 第一の子供時代であるが、初期のうちはいいとしても、中学時代にはすでに家庭争議に巻込まれ、数々のいやな思いをしている。そしてそれが理由の一つになって、好きな動物学から引きはなされ、無理に産業人への道を歩かされることになる。次の修業時代は、栄一の後継者として正金銀行、第一銀行などで実務を勉強しながら人間学を学んでいた時代である。とくに悪い時代というのではないが、自分の好きなことはほとんどできなかっただろうと思う。

 第三の発展時代は、栄一の後継者としての重荷から解放され、独立して人生を送り始めた時代である。三津浜で漁民史料を発見し、これを軸としてアチック・ミュージアムが年を追って発展して行く。かたわらに銀行業というものを抱えてではあったが、それでも自分の好きなことを精一杯、心のすべてをこめてやることのできた時代である。そのころは文章にも張りがあり、いかにも若々しく、油の乗りきった意欲を感じさせる。しかし、この時代はあまりにも短かかった。ようやく準備時代が終って、人もでき、研究の土台もできたと思うと、不幸な戦争が始まり、資材の不足から旅行や出版も意にまかせず、研究者はぞくぞくと出征し、研究そのものが困難となり、ついには防空のために書庫、研究所も壊さなければならないという有様になった。

 第四の戦争から発病までの間は、幸い追放を受けていたので、あまり面倒なことには巻き込まれないですますことができたと思う。しかし何分にも日本中の心が荒れはてて、自分も金がなくなり、そのうえ家庭には母の別居があり、気は焦りながらも、何一つまとまって本気でことを起すことができなかった時代である。しかも第五の発病は、きわめてあいにくの時に始まったものである。時代も次第によくなり、父の学問的方法論も世の中に大きく認められ始めて、これからという時であった。しかも猿も木から落ちるというが、医学や健康のことにあれほど詳しかった父が、自覚症状がないままに、これだけは全く予期していなかったのだから、そのショックはきわめて大きかった。

 つまりどの時代を取って見ても、また全体としてみても、父の人生は常に未完成のまま外力によって、そのもっとも貴重な芽をむしり取られてしまっているのである。ただ、父の特長と言えるのは、そのどれについても一言の文句らしい文句も言わず、すべてを受け入れ、与えられた環境の中で、常に最善を願って努力をつづけていたことである。これは、やむを得ないから肯定するというのではなく、人生の真価を成功、不成功におかず、生命そのものの生長の中におくことから生れた、人生の全面的肯定であった。

 祖父栄一の一生について『棒ほど願って、柱ほど働いて、針ほど叶った』というのが量的に見た栄一の一生だった。」(「祖父のうしろ姿」)と父は書いているが、父の人生もまた『棒ほど願って.針ほども叶わなかった』ものであったかもしれない。しかし針の大きさは父にとって必ずしも問題でなかった。オリンピック以来、「参加することに意義がある。」という言葉がはやっているが、父の人生も、真面目に心をこめて生き、願い、努力することの中に本当の意義があった。そうした父の姿が、実は周囲の人や、先輩後輩の方々の人生の中に希望と共感を呼び起し、その人たちの人生を支えるエネルギーとなって、今なお脈々と生きているのである。

 何かにつけて世を恨み、人を憎み、何でもかでも責任者を見つけて、これを糾弾して溜飲を下げないと気がすまない、というとげとげしい世相の中で、父の生き方はきわめて清新なものをもっている。それは栄一の後継者として得たものではない。栄一の人生のあり方から、大きい意味での影響は受けたかもしれないが、本質的には、あくまでも父自身の決心と生活態度の中から生れてきたものである。常民文化の研究も、父のそういった態度の上に、実は築かれていたのであり、奥村さんが「あの人には本当に世話になった。いなくなって淋しい。」と言われるのも実は、そこにあると思うのである。

「誰も僕をわかってくれない。」と父はときどき言った。「どうも人には僕のことはわからないらしい。」父の立場の特殊性もあって、人は父をとかく特別視してしまって、あまりわかろうと努めない傾向があった。過小評価されたこともあったと思う。若いころは栄一の影があまりにも大きくて、人は父の心の中に何があるのかを、立止って見ようとしない場合が多かった。逆に過大評価されたことも多かったと思う。自分のもっていない地位やお金をもっている父に対して、焼餅半分の過大な要求を突きつけるものもあった。人間はとかく、自分の心の投影だけを他人の中に見ようとするものである。だから大抵の場合、見当はずれのことを相手の中に想像し、要求し、期待する。

 もし人がもっと父をわかったらよかったと思う。父の本質と願いをわかる人が多かったら、父のもっていたものを、日本のためにもっともっと使うことができたのに違いない。父の残した仕事の後始末をしていて思うのは、父の死とともに、しばしばその仕事を動かしていた心の力も止ってしまったことである。今まで父から放射されていた心の力によって動いていた人々が、自分からはもう他の人に心の力を与えようとしないのは淋しい。仕事がそれで止ってしまうだけではない。その人たちが結局父をわかっていなかったことになってしまう。

 一方、もし父のような受取り方で人生を受取ろうとする人がもっと沢山いたら、日本の心はもっと豊かになるだろう。なぜならその人の業績によって潤うだけではなく、その人を通して、人間を動かしている力の源泉に、日本人はもっと多くふれる機会をもつことができるからである。結局のところ、そういう力だけが、政治を正しくし、経済を立て直し、国の生命を輝かすことができるのである。

 父が亡くなったとき、大宅壮一氏は「最後のエリートが死んでしまった。」と言われた。

「ああいう人はもう出ない。」「かけがえのない人だった。」なぜ人はこういう表現をするのだろうか? もちろん父はきわめて特殊な環境に生れ、特殊な人生のえらび方をした人であったことは間違いない。しかし、父が最後のエリートであっては情けない。新しい日本の、最初のエリートであってほしい。

 父の死後、多くの方が父への尽きぬ感謝の言葉を述べて下さった。遺族にとって文字通り身に余る光栄である。しかし私はそういう言葉をうかがう度に、父はこの方々に何を与えたのだろうかと思う。

 私も仕事の関係でよくいろいろな方に相談に行ったり、ものをお願いに行ったりする。聞いて下さることもあるし、聞いてもらえないこともある。生意気な言い方であるが、たとえ聞いてもらっても、本当に何かを与えてもらったという気持のすることは少ない。父はきっとそういった何かを人に与えていたに違いないと思う。親身な心、無私の心、いたわりの心、相手の心に踏みこんでその心を感じ、その人と共に苦しみ、努力し、ともに楽しもうとする心、そしていつもその人の心が一番必要としているものを与えようとする心、そういう開いた大きな心を、人は父の中に感じたのだろうと思う。せちがらく、メタリックな現代の世界で、そういった態度は、それにふれた多くの人々にとって命の水のようなものであったことは想像にかたくない。旱天の慈雨というか、日本はそういう心をもった国にならなければいけない。そして飢えに苦しみ、渇きに泣く何億のアジアの人々に、命の泉を与えなければならないと思う。


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