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写真出典:『柏葉拾遺』(柏窓会, 1956.08)p.62,80
渋沢敬三は、1921(大正10)年の東京帝国大学卒業後、尊敬する祖父・渋沢栄一の意を受け、栄一と同じ銀行家の道を歩んだ。まずは横浜正金銀行(後の東京銀行、現在の三菱東京UFJ銀行)に入り、その大半をロンドン支店で勤務した。東京で外国電報を読むのと違い、直に世界の出来事に触れ、出来事の一つ一つにとても敏感になったと本人が述べるように、国際的な経済人となるべく良きスタートがきれた。1926(大正15)年に第一銀行(現在のみずほ銀行)、ほか数社の取締役に就任し、日本の経済人として主要な地位を築きはじめた。第一銀行においては1941(昭和16)年に副頭取に就任した。敬三は、頭取以下重役全員が同じ一部屋で執務する「大部屋制」を採り入れ、より一層の意思の疎通をはかり、執務の合理化をはかっている。
日米開戦直後、日本銀行の副総裁に推され、1944(昭和19)年に総裁となった。敬三が副総裁に就任した時は、年齢も比較的若く、性格も闊達で、庶民的であったので、それまでの日本銀行内の空気に多少とも新風を吹き込むことになったようである。副総裁に就任した直後から、日銀各支店の視察を精力的に行ったのもその一つである。これは従来なかったことで、本店と支店との意思疎通がおおいにはかられた。
終戦直後の幣原喜重郎内閣では大蔵大臣をつとめ、新円切替え、財産税導入など経済的混乱の収拾にあたるなど、転換期の日本経済において重要な役割を果した。
その後公職追放の身となるが、1951(昭和26)年の追放解除後は、国際電信電話株式会社初代社長に就任したほか、日本経営者団体連合会常務理事、金融制度調査会会長、国際商業会議所日本国内委員会会長などを務めたが、これは当時の財界における敬三に対する信頼の厚さの表れであった。さらに外務省顧問・移動大使として中南米諸国を歴訪するなど、国際的な経済人として尽力したのであった。
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