- 著作・記事を読むトップ
- 渋沢敬三の著作
- 渋沢敬三の伝記
- 語られた渋沢敬三
父・渋沢敬三 〔8〕 / 渋沢雅英
渋沢雅英著『父・渋沢敬三』(実業之日本社, 1966.10) p.150-164掲載
< 目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | あとがき >
第八章 明治百年
渋沢の家には同族会というものがあった。明治二十四年に始まっていらい毎月一回親類が会合し、父が亡くなった昭和三十八年までにおよそ八百回以上もつづいていた。たとえ親族の集りではあっても、一つのグループの会合がこんなに長つづきした例は珍らしいと思う。
私の母が嫁にきたころはまだ栄一も健在で、月に一度の同族会は、嫁としてはかなり気づまりな行事だった。しかも毎年の正月の会合では、同族会の成立の基盤となっていた「渋沢家家憲」というものの全文を読みあげることになっていて、居ならぶ親族は畳に両手をついて謹聴したという。何という妙なことをこの家はしているのかと若い母は思ったが、嫁の身ではあり、たくさんの親類が大真面目でやっていることだから、しかたなく黙って聞いていたということである。
栄一が亡くなって父の代になってもこの慣習はつづけられ、毎月一回、三田の家で同族会が開かれた。正月に家憲を読む習慣も戦争前までは守られていた。母の言うところによると、父はこれをものすごい早口で息もつかずに読んだそうである。
「もともとお口は早い方だし、それがいかにも面倒だと言わんばかりに、あらん限りの早口でお読みになるんだから、聞いている方は何が何んだかぜんぜんわかりませんでした。でもその方が早く終るから助かったわ。」
いかにも父らしく、また過渡期の日本らしくて面白い光景である。
家憲というのは明治二十四年の制定で、おそらくは栄一の女婿で明治時代の法律学の第一人者であった穂積陳重博士あたりと相談してつくられたものだと思う。
「予ハ予ガ子孫ノ協和ト其ノ家業ノ鞏固トヲ永遠ニ保持センコトヲ企画シ、ココニ、家法八十七箇条ヲ定メ明治二十四年七月一日ヨリコレヲ実施ス。現在及ビ将来予ガ子孫タル者ハ謹シンデ之ヲ遵守シ、敢テ違ウ事アルナカレ。
明治二十四年五月十七日 渋沢栄一」
こうした前書につづいて家法と家訓の二巻があり、本家および分家六家の間の財産の分配の方法から、その管理、同族会の式次第から子供の教育にいたるまで、ことこまかに書いてある。高等学校のころ私は母からこのことを聞かされ、栄一の直筆による和綴じの原文を読まされて、不思議な違和感をおぼえた。この家憲の目的とする「家の存続」という観念と、その作者である栄一の雰囲気が一致しなかったからである。あれだけ革命的な人生を送った栄一が、いかに家族主義の時代とはいえ、なぜこんな徳川幕府の亜流みたいなおかしなことをしなければならないのか、私にはまったく説明がつかなかった。
明治時代は世界の歴史にも珍らしい革命の時代である。明治二年、渋沢栄一は静岡で商法会所の事業を始めていたが、とつぜん明治政府に呼び出され、大蔵省租税正という役を命ぜられた。栄一には税の仕事の知識がないし、静岡には始めたばかりの事業があるし、旧主徳川慶喜への義理もあった。さっそく大蔵大輔、大隈重信を訪ねて、その旨を説明して断わろうとすると、大隈は「君はなんと小さな考えを持っているのか」と言って呵呵大笑したという。「君は何も知らないというが、知っているものが一人でもあると思うか。今はちょうど高天ガ原に八百よろずの神々が集まってこれから国づくりをしようという時だ。財政をどうしたらいいか、これからの国はどうなるべきかを知っている者は一人もいない。しかも皆でやらなければならないのだ。日本を新しい国にする、これは何千年に一回のチャンスだ。君は徳川家にたいする忠誠を云々するが、今こそ全部の日本人が心を一つにして前進しなければいけない時だ。そんな小さな考えを持っていては徳川家のためにもならん。ぜひ一緒に協力してもらいたい。」
ここには明治時代の基盤となった考え方の大きさと新鮮さが躍動している。未知の世界への前進は常に魅力的である。明治政府はその成り立ちからいえば一種の藩閥政府の性格を持っていたが、その仕事ぶりは国民の予想と違ってきわめて革命的であった。福沢諭吉のように本来藩閥政権に反対していた人たちも、「こりゃ面白い、この勢いに乗じて」政府の革新政策に協力して「大いに文明開化の実を上げよう」と考えるようになる。(小泉信三著『福沢諭吉』より)
本当に大きい目的を持つとすべての人が必要になってくる。落ぶれた武士も長年いじめられてきた町人も、いつの間にか力を合せて新政府に協力し挙国一致の前進が始まる。西南戦争のような派閥争いをやっても、それほど深い傷やあとくされを残さない。二十年もたつと西郷南洲も「朝敵」の汚名をのぞかれ、徳川慶喜も名誉を挽回して、公爵を授けられる。そこにはどの時代にも見られない明るさと大きさと豊かさがある。
ところがどういうわけか、明治時代はある時期からきわめて保守的な雰囲気を持ちはじめた。戦前、教育勅語とか軍人勅諭などというものがあって、私なども学生時代に覚えさせられたものだが、内容はともかくこれにつきまとう雰囲気にはたまらなく嫌なものがあった。あれが明治を代表するものであるならば、社会党が明治百年の行事に反対するのも無理のないところがある。いったいどうしてこういう超保守的なものが同じ明治時代から生れてくるのだろうか?
栄一が家憲を制定した目的は、「子孫ノ協和ト家業ノ鞏固トヲ永遠ニ保持セン」とするにあった。ということは栄一の心の中に、自分の子孫は将来協和を破り家業を放棄するかもしれないという恐れがあったに違いない。今のうちに箍《たが》をはめておこうという考えだったかもしれない。山県有朋その他明治末期の指導者が、統帥権や皇室の尊厳などという言葉に名をかりて体制の維持を企てたのも同じ心理だと思う。こういうやり方は、受け取る側にとってはひどく反動的な感じを与えずにはいない。
いったい革命政権のアキレス腱は青年にあると言われている。ソ連や東欧諸国では革命後に生れ育ってきた世代が、父親たちの持っていた情熱や信念を持っていないことが最大の頭痛のたねとなっている。共産中国の最近の大整風運動も、幹部の勢力の交代だけではなく、今のうちに青少年にたいして毛沢東思想を徹底的に吹き込んでおこうというのが、本当の狙いであるという観測もある。文化大革命などと言ってはいるが、はたから見ると超保守の臭いがする。革命家が自分の作った体制の維持に狂奔しはじめると、超反動的な政策を取るようになることは、洋の東西を通じて共通の現象である。明治の保守化の本当の原因もそこにあったのではないかと思う。
父が栄一の懇望によってやむなく動物学への道を諦らめ、経済学部に進んだことは前に述べた。栄一の末子であり父の叔父に当る渋沢秀雄も、学生時代、文科に行ってフランス文学を専攻したいと考えていた。ところが栄一はこれにも干渉して、文学は趣味ということにし、「家業」を継いでくれ、「わしが頼むから」ということになる。
「父にうまく拝み倒され母に泣きつかれて」秀雄は法科を卒業し実業界に入った。
「私は青年時代から父を尊敬していた。そしてその一生を立派だと思った。……しかしああいう実業家的生活を羨しいと思ったことは、ほとんど一度もなかった。」(渋沢秀雄著『渋沢栄一』)
私の母の兄に木内信胤という人がいる。この人は経済学者として身を立てたいと考えていた。ところが大学を卒業する前、そのことで父(私の祖父)の木内重四郎と大論争になった。祖父は学者をよして実業界に入ってくれと言って、これまた「懇請」した。しばらく対峠 [対峙] していたが、伯父は折れて正金銀行に入った。
なぜ大正は明治にそんなに反発したのだろうか。そのへんに日本の近代史を解く一つの手がかりがあるような気がする。「革命的」明治時代の手の平を返したような反動ぶりは、たいていの若い人を辟易させたに違いない。「酔いては伏す美人の膝、さめては握る天下の権」などと景気のいいことを言っていた人たちが、年老いてくるとその醜悪さの方が目立って、次の世代から批難と侮蔑を受けるようになったことも想像される。明治の道を型どおりに生きるのでなく、もっと本質的な仕事がしたいという若者の心には、多分の真実があっただろうと思う。
しかし明治はまだ力があった。年とともにますます矛盾に満ちてはいたが、それでも明治の功績は疑いもなかった。明治は日本を外敵の脅威から救い、その国際的地位を一変させた。それまでの白人優先の世界の流れを変えてしまった明治の功績は、長く世界歴史に残るに違いない。このような明治にたいして本気で反旗を翻すためには、明治以上の情熱と、団結と、そしてより大きい国づくりのアイディアが必要だったであろう。
一方また良識のある人間にとっては、ただ過去に反抗するだけでは意味のないことだったに違いない。明治の遺産の中には守らなければならないものも沢山あったのである。そこで大正は明治の後を継ぐことを承諾した。そして「面白いと思ったことはなかった」が「真面目に勤めること」になった。日本のおかれた矛盾を解決するためには、大正の人たちが「明治以来のすべてを引っくり返し、床を踏みぬき、天井を破り、全部をつくり直すような改革が必要だったんではないですか、これからでもどうですか。」というようなことを、戦後、私は父に言ったことがあった。父は笑って「いや僕にはそれはできない。そういう立場ではなかった。それは君たちの時代の仕事だ。」と言った。
そういう父や伯父たちを私は尊敬する。この人たちの人生には、それなりの真面目さと偉大さがあった。しかし一方このように誠実ではあったが、いやいや職についた指導者たちに指導された大正、昭和という時代はいいツラの皮だという気がしないでもない。明治が持っていたギラギラした執着、徹底的な責任感というようなものが、大正、昭和には欠けていたと思われる。
父が編集した『柏葉拾遺』の中に日露戦争の最中、旅順陥落を祝って深川の家で家族や子供たちが祝賀会を開いている写真がある。祖父篤二の作品で、万国旗を張りめぐらした座敷で子供たちが万歳を唱えている。幼い父は軍艦旗のような旗を高くかかげている。二っか三つの幼い子までいたいけな両腕を上げている。画面から今にも万歳の声が聞えてきそうな躍動的な写真である。
日露戦争は名実ともに国民全体の戦争であった。国の運命をかけた危険なバクチであることは全国民が知っていた。明治天皇をはじめ政府や軍の指導者は文字通り決死の覚悟で、和戦の決定や重要な作戦の遂行にあたった。国民もその意気に感じて国をあげて協力した。
大東亜戦争の場合にも国民は協力したし、軍人や官吏や産業人もそれぞれに有能だった。しかし、いつ戦いを始めるか、いつ、どういうふうにして媾和に持ち込むかというような一番肝心の決定については、だれ一人本当に責任を持っている人がいなかった。行きがかりや騎虎の勢いで、恐しいほど重要な決定が行なわれた。だから九千万国民の、あれだけ長期にわたる努力にもかかわらず、敗戦への段取りはきわめてみじめであった。
戦争に敗けたことはたしかに悲惨だった。しかし社会的には、「オコリが落ちた。」というような感じがあったことも事実である。明治時代いらい無理に押しつけられていた殻が破れて、急に自由になったという感じである。 終戦とともに正金銀行をやめた伯父の木内信胤は、経済評論家、文明批評家としての未知の世界に踏みこんで、精いっぱいの活動を開始した。渋沢秀雄も産業界との関係は事実上絶って、随筆家として筆一本に生涯を托し、自分自身の人生を歩きはじめた。結局二人とも初志を貫徹したのである。父の場合は、すでに戦前から「自分の一生の仕事は学問である。」と宣言して自分の道を歩いていた。
父がよく言っていたことであるが、西洋には一部の例外をのぞいて水産業があまり盛んでない。そのために水産経済学とか、水産史とかいう学問があまり成長しなかった。日本は反対に蛋白資源の大半から塩、肥料など生活の万般にわたって水産に依存してきた国である。それなのに西洋にそういう学問がないという理由で、明治いらい長い間水産に関する学問はほとんど発達しなかった。農業も同じことで、明治以来の学問はとかく西洋で発達した理論を、土壌の違う日本に無理に当てはめるという傾向があった。
それは西洋文明との急激な接触をめぐって、明治時代という時代が持つ宿命的な矛盾の表現であった。そのような間違いを是正し、日本人の生活をありのままの姿でとらえ、評価し、史料の実体の中から本当の日本を発見しようというのが、父の学問の一つの基盤であった。
こんなことを言ったら不敬にあたると言って叱られるかも知れないが、私は今の天皇陛下と父とがいろいろな点で似ているような気がしてならない。おかれた立場にも性格にもどこか共通のものがあるように思えるのである。
たとえば、きわめて大型の祖父を持っていた。これまた比較するのは恐れ多いが、明治天皇も渋沢栄一も、明治というきわめて特別の時代のフォーカスとなる運命を持って生れた人たちだった。彼らは歴史の流れの先端に立って、身をもって国を引っ張って行こうとした。その業績には、個人の能力を越えて、時を得た革命家のみの持つ無限大の広がりがあった。
これにくらべて祖父篤二の世代は、対象的に小型であった。そのため実際問題として孫たちが、直接明治という時代の栄光と重荷を背負わされる運命になった。
そういった特殊なプロセスをへたためもあろうか、人生への基本的態度の中にも似かよったものが感じられる。つまり祖父の残した偉大さは忠実にこれを受入れ、守るべきものは誠実にこれを守り、自分をいっさい無にして心のすべてを周囲の人に与えるという決心である。
父はアウトゴーイングな革命的性格ではなかったが、耐えることの強さはひじょうなものであった。「人に『ノー』ということはなかなか難しい。『イエス』と言う方が楽だ。しかし僕は『ノー』と言わなければならない場合の方が、『イエス』と言う時よりもずっと多いんだよ。」と父はあるとき言った。私はそれが本当であることを知っている。人に対して「ノー」と言うばかりでなく、父は自分に対して「ノー」と言うことを知っていた。父は自分の生活については不思議なほどの規律と潔癖さを持った人だった。今の陛下の持っておられる一種特別な無私な姿、たくまずしてあふれ出てくる美しさの中に、何か父と共通のものを感ずると言ったら不敬に当るだろうか?
生物学に対する興味の深さも共通である。「顕微鏡の中の明るさ、プレパラートの上の生命を照らし出すあの明るさが、何とも言えず好きだ。」という気持にはどこか相通ずる運命が感じられる。
終戦後、父は全国を旅行した。何か見えない力に引きずられるようにあの混んだ汽車に乗り、米なども持参して全国津々浦々を訪ねた。同じ時に陛下も何回となく旅行をされた。「人間天皇」として初めて国民の前に立たれるのだというような話であったが、本当のお気持はそんなことではあるまい。何かあの時点でとにかく全国を廻り、国民の姿に接し、誠実にその労苦をねぎらうとともに、将来への手がかりを求めたいと思われたのではないかと思う。その発想の底には、政治やかけ引きとはまったく縁のない、人生そのものの中から出てくる欲求があったのではないかと思う。
人間宣言は天皇陛下にとって、明治から受け継がされていた余計な枠を取除くようなお気持ではなかったかと思う。あんな変則な環境でそれが行なわれなければならなかったのは苦痛であったが、失われて行くものにたいして残り惜しいなどという感じは多分お持ちにならなかっただろうと思う。国民全体が感じたように、陛下も「オコリ」が落ちて、新しい自由がよみがえるのをお感じになったかも知れない。父はニコボツと称して終戦後の「没落」を心から喜んでいた。現実生活の不自由や不便は正直に感じていたし、国民のために敗戦を悲しみ,その責任を感じていたが、過去の体制への執着というものは、私は父からほとんどまったく感じたことがなかった。
父は皇太子さまとはあまりご縁もなかったが、正田さんとの関係で、ご結婚の時なども何かと自分にできるお世話は申し上げるようにしていた。病気が悪くなってから皇太子さまが、海外でお求めになった色刷りで美しい魚の本に、ご家族の写真を添えて、正田さんを通じてお見舞いに下さったことがある。父は嬉しかったと見えて註書きをつけて大切に仕舞っていたのを死後発見した。
皇太子さまは日本の新しい世代である。明治から大正、昭和を経て受けつがれてきた文化や社会のあり方が、これからどうなって行くのか、それは国民一人一人の決意にかかっている。皇太子さまはそのお立場が象徴であるか、権力であるか、などという相違のいかんにかかわらず、その運命を代表されることになるだろうと思う。
敗戦、戦後を経て日本もいろいろな意味で成長したように思う。戦後は苦しかったけれど、それはそれなりに、日本人にとってはまたとない成長の時期でもあった。今までの行きがかりや事大主義にまどわされることなく、自由な目と心を持って世界を見ることができた。
父は日本の運命を信じていた。いろいろな困難な問題はあるが、その底に流れている建設的な力を、父はかなり信頼していたようである。ただ統一のないことを嘆いていた。すばらしい楽器の揃ったオーケストラだけれど、指揮者のいいのがまだいない。
「ときどき不協和音はあってもかまわない。――それはかまいませんけれど、上手に大きなテーマで――誰かまとめてほしいと本当に思います。」
と父は、最後のテレビ対談で述べている。
「実力はありますよ。日本は――大丈夫、私はもう将来をひじょうに楽しんでいます。」
明治百年も近い。大きいテーマを打ち出し、大きくまとまった国をつくるという父の夢を実現させなければならないと、私は心から願っている。