渋沢敬三の伝記

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父・渋沢敬三 〔10〕 / 渋沢雅英

渋沢雅英著『父・渋沢敬三』(実業之日本社, 1966.10) p.185-201掲載
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第十章 知来者之可追

 死を準備するということをよく言われる。日ごろ付合いのなかった人のところに、それとなく別れを述べに出かけたり、本人も無意識にすることだろうが、後になって生残ったものが、それに気がついて驚いた、という話をよく聞かされることがある。十月中旬、父は青森県の杉本行雄さんに速達を出して、東京にきていただいた。杉本さんは栄一の時代から、渋沢事務所におられて、戦中、戦後、父の秘書のようにして、町会長とかその他こまかい仕事の手伝いをしておられた方である。今は十和田観光の社長として青森県で活躍しておられる。

 杉本さんが見えると待ちかねたように病室に来ていただいて、十一月十一日は、祖父栄一の三十三回忌に当るが、自分では何もできないから、取り仕切って手配をお願いしたいと言った。今までは毎回自分がやってきたが、今度ばかりは身体が悪くて………と言って涙をこぼした。

 父の意識にはそんなことはなかったのだろうが、かたわらにいた私には、父が自分の葬式の手伝いをお願いしているとしか思えなかった。杉本さんもそれを感じられたと思う。結果的に、杉本さんや多くの方々の、親身で手厚いお世話で、立派なお葬式を出すことができた。

『瞬間の累積』の出版も同様である。本来あの本は篤二の三十三回忌、すなわち父の亡くなった翌年出すべく計画していたものだったが、どういうわけかその年の始めごろから準備にかかり、九月には、絶筆となった「あとがき」を書き、出版社のご厚意や尽力もあって、十月二十二日、死の寸前に本ができ上った。もう半ば昏睡に近く、眠っては覚め、覚めては眠るという病状だったが、その本を見せ、私があとがきを読んで聞かせると、「よかったねー、よかった。できてよかった。」と子供のように喜んで、安心したようにまた眠りに入った。

 この本は、もし翌年まわしにしていたら決してできなかったに違いない。父の意志による『日本常民生活絵引』や『魚体解剖図』など、学者の方々のご厚意によって、私たち兄妹が今だに引きつづいて出版しているが、本というものは、やはり出す人がいないとなかなかうまく行かないことを痛感させられている。まして『瞬間の累積』のようなものは、父がいなければ、私たちにたとえその意志があったとしても、出すことは難しかったと思う。篤二のために親孝行をしようという父の心が、不思議な力に導かれて、一年も早く出版にこぎつけたのだとしか考えられない。

『瞬間の累積』の「あとがき」に戒名のことが書いてある。戒名というものは自分はあまり好まないが、「閑林自照」という篤二の戒名だけは気に入っているというのである。そういわれてみるとやはり父の戒名には、父の好きそうなものをつけなければ、と私は思った。

 虎ノ門病院から遺体をもって三田の家に帰ってくると、政府のご厚意で、もと住んでいた第一公邸を開放していただき、その日本座敷に安置した。この座敷は明治九年、深川に建てられたものを三田に移したもので、父が三田を改造したときもそのままに残した部屋であった。夭折した私の弟の紀美、祖父篤二、祖母敦子と、沢山の人の葬儀がここで行なわれたし、また法事もいつもこの部屋を使っていた。戦争中は家族の食堂兼居間ともなっていた。だから私は父を連れて、懐しいわが家に帰ってきたような気がした。

 朝早かったが、寛永寺のお坊さんがこられて、戒名を見せられた。私には全くわからなかったが、なんとなく字の配分が気に入らなかったので、わがままを言ってところどころ入れ換え

   謙徳院殿慈岳敬道大居士

というのをこしらえ、中山さんや皆さんにご相談の上これにきめた。お坊さんの達筆で、さっそく白木の位牌に書かれてお棺の前におかれた。

「お気に入らないかもしれないけれど、僕が選んだんだから勘弁して下さい。」という気持でお線香をたてた。

 亡くなった翌朝から、葬儀が終って谷中の墓地の納骨堂に納骨が終るまで、雨が降りつづいていた。父は生前よく「渋沢日和《びより》」ということを言っていた。自分が旅行するときはいつも晴れるというのが得意だった。むろん例外もあったが、たしかに天気運のいい人だった。それが最後のときにかぎって、十月末という季節からいっても、珍らしいほどの大雨が降ったのは異様だった。

 その雨の中を沢山の方々が、お通夜や青山斎場での告別式にきて下さった。三田の家は自動車のパーキングが悪いので、車が流れず、三田通りから芝公園のあたりまで詰まってしまって、たくさんの方にご迷惑をかけた。

 お葬式には田中大蔵大臣、東都知事、山際日銀総裁、そして東大の茅総長が皆さんを代表して弔辞を読んで下さった。どれもこれも通り一遍のものでなく、心がこもっていて有難い弔辞だった。告別式には池田総理大臣を始め五千人近い方が、ひどい雨をおかして来て下さった。銀行、会社関係の方も多かったが、学問の関係の方がた、そして農村や漁村の方々も、遠いところからたくさんきて下さったのは、父もさぞ嬉しかっただろうと思う。

 悲しかったけれど賑かだった葬儀が終ると、急に淋しくなった。第一公邸から引きあげて、本がいっぱい詰まった父の書斎にお位牌を飾った。広くもない部屋は菊の花でいっぱいになったけれど、家の中にも、心の中にも、大きな空白ができてしまったような感じがした。

 十一月に入るとベトナムでクーデターが起って、ゴ・デン・ディエム大統領が殺された。ディエム氏には、前に私もお目にかかったことがあるが、立派な人だった。政策の当否はわからないが、命がけで国を愛している人だという感じがした。そういう人、しかも大統領の地位にある人を、一部の軍人が、米国との暗黙の了解のもとに暗殺してしまうということは、当のベトナムはもちろん、米国にとってもアジア全体にとっても、長く消えることのない傷を残すことになると思われた。

 ディエム大統領と踵を接するように、二週間後、ケネディ大統領が凶弾に倒れた。ケネディ氏がディエム暗殺について、自分でどこまで手を下したのかはわからないけれど、「人への呪いは必ず自分に帰ってくる。」そんな運命を感じさせる死に方だった。

 そのニュースが発表された日、私は短かい旅行でインドのニューデリーに行っていた。同じ日にインドでは、陸軍、空軍の優秀な将軍たちが、飛行機事故で五名も一度に亡くなった。インドではこれはケネディ暗殺以上の大事件で、五人とも国葬になることになった。たまたまご一緒していた元陸上幕僚長の杉田陸将のお供をして、私もその葬列に参加した。

 デリーの町はずれにある火葬場に、薪を山のように積み上げて、その上に国旗でまいただけの遺骸をのせて、露天で火葬が行なわれていた。ネール首相、ラダクリシュナン大統領などの姿も見えた。ヒンズー教の読経の声が流れ、泣き女の悲痛な泣き声が聞えてくると、亡くなった将軍の遺族たちが、そこここで泣きくずれた。いかにもインドらしい、むき出しで大袈裟な行事だったが、そこにこめられた感情の深さは、私にも人ごとではなかった。

 翌日は早ばやと用事をすませてから、朝早い飛行機に乗り込んだ。東京には父の三十五日の法事が待っていた。デリーを出ると間もなく、左手にヒマラヤが朝日に輝いていた。あれがエベレスト、こちらがアンナプルナ連峰とステュワーデスが教えてくれた。雪と氷と岩壁につつまれた美しい山脈を見ながら、私はディエム大統領、ケネディ大統領、そしてインドの将軍たちの家族のことを考えていた。悲喜こもごもの人の心をつつんで、世界は大きく変ろうとしていた。

 ケネディ大統領との間に、天下をわけるかと取沙汰されたフルシチョフ首相は、翌年の秋に失脚した。前の日火葬場で見かけたネール首相も、またその後を継いだシャストリ首相も亡くなった。父の告別式に来て下さった池田総理も亡くなられたし、心の友として相許していた小泉信三先生も最近この世を去られた。

 諸行は無常であり、生者は必滅するに違いないが、私としては父に生きていてもらいたかったと思うことが多い。父がいればあれも見せたかったし、これも報告したかった。昭和三十九年のオリンピックなどは、たとえテレビだけでもぜひ見せたかった。戦後の日本の苦難を、真正直に生きてきた父に、日本人が力を合せて、とにかくあれだけの演出をやった姿を見せたかった。昭和三十年、父が主催して、東京で国際商工会議所の総会をやったときと、どんなにすべてが違っていたことか。あれは日本の国際会議のハシリだった。あのときは物もなく、人もまだ慣れていないので、すべてがやりにくかった。それでも父を始め、たくさんの方の誠心誠意から出た国民的努力は、全世界の実業家の共感と愛情をかった。そのとき生れた日本人の心の芽は立派に育って、オリンピックには大輪の花を咲かせた。

 高速道路や新幹線、物質的なことに、ただ驚く父でもなかったが、新しいもの、珍らしいものを、国民の一人として喜ぶ新鮮なこころを、父は最後までもっていた。

 『私の夢』という短文がある。

「輓近わが国の文運は隆昌といえる。現下の政府予算、各種の補助、経済界寄与の研究費を合計すると、おそらく絶対額も、総経費への割合も、明治始まって以来の最高を示すであろう。……学問分野の拡大と細分化を考えるとその業績刊行の多岐多量に目をみはるが、(しかし学者研究者の人口増加もめざましく)おそらくこれは氷山の一角で、学者の筐底に埋もれ、日の目を見ないものはさらに驚くべきものがあろう。中には一生の労作を空しく抱いて他界された方も多いと思う。また中には尊敬重視すべき好著にもかかわらず、常民研究者の手になるがために、世に問わずして他を益する機を失った原稿もあろう。……一億円もあったら上記のごときものはひとまず一掃できるだろう。さすれば文運燦然。こんな岩戸開きの手力男命になって文化日本誕生の産婆役をつとめて見たいのが私のささやかな夢である。」

 こんな夢もぜひ実現させたかった。

 しかしそれだけではない。これから展開して行く日本の運命の先達になってほしかった。アジア閣僚会議、経済協力会議などを通して、日本の対外関係のあり方は大きく変ろうとしている。その変化はきわめて本質的である。それは世界全体のバランスの上で、アジアが全く新しい立場を占めようとしていることの象徴である。長い間、あいつぐ不幸な事態のために閉ざされていたアジア人相互の心の交流が、今ようやく始まろうとしている。

 韓国にしても中国にしても、日本人は昔からこれらの国をよく知っているように思っているが、本当のつき合いの仕方については実はあまり知らない。これからこれらの国と正しくつき合って行くためには、お互の文化や人間性についての、公平で広い認識の上に、新しい心の交流を拓いて行かなければならない。それは前人未踏の道であり、国内の人間関係の場合より、もっと成熟した、もっと大きく、深いものの考え方が必要である。そういう点で、父のもっていた知恵や心がどんなに大きく使われるかわからないと思う。昭和十一年、父は、韓国の蔚山邑達里の農村に、医学や民俗学、言語学などを専攻する若い学生を派遣して、総合調査を試みた。その時の感想を「アチック・マンスリー」に次のように述べている。

「いつか崔麟先生がこんなことを言っておられた。『内地の人は桜が好きで、朝鮮の人びとは左ほど感興をひかない桜を沢山植えて、自分等と同じように愛好するものときめてかかっているようですが、朝鮮の人々は李の方が好きのようです。これは理屈ではないですが。』

 人数も少ない。仕事も大して大きなものではない。しかし今度の旅で内地の優れた若人が朝鮮の人びとの心の扉を少しでも押し開いてこれに触れ、また先方もこちらの心持ちにふれ合ってくれたことを知って、自分は真に有難いことだと思った。これは永遠に無駄にはならない。自分としても大正五年の秋を振り出しに五回渡鮮したが、今回初めて朝鮮にふれたような気がした。新亭里を去るに臨んで、姜君の御祖母さんが門まで送り出て、両手で自分の手を握りながら、眼に涙を浮べて『長生きはしたいものです。これで二度貴君に会えた。どうかもう一度会わして下さい。』と云っておられた時の老顔は今だに忘れられない。汽車が蔚山を出ると新亭里附近の踏切りに、お祖母さんはじめ一族の人びとが出て来てまた見送って下さった。その時、自分は、愛に飢えた孤児の感じにも似たものを朝鮮の農民は心のどこかに持っているな、と感じて淋しい気がしたのであった。」

 父は、韓国の人と人間同志のつき合いをすることのできる心を持っていた。またそれを望んでいた。しかし当時の状態では、そういった本当の心は育つことができなかった。両国の関係にはあまりにも間違いが多すぎて、誰も手を出すことができなかった。

 戦後、鈴木一さんが尽力された日韓親和会に、父は副会長として参加し、後に船田中氏の後を受けて会長になった。この会について私が何か質問したのに対して、父は、

「今は何かやろうとしてもできない。何をやっても逆手を取られるような日韓の関係なのだ。だからここ当分は、雑誌の出版一本ヤリで行こうと思っている。長い間には、いつかそれが大きく役立つこともあるさ。」と言っていた。

 日韓関係にまつわる問題の根は広くて深い。しかし条約もできたし、これからは、たとえむづかしくても、なんとかして正しい心の関係をつくるために、両国民が努力しなければならない時代となった。父が生きていればきっといろいろなアイディアを持っていただろう。そして将来のために、きわめて有効な布石をおくことを心がけたに違いない。

 中国についても同様である。大正十五年、父は『南島見聞録』と題して台湾、沖縄の紀行文

を発表している。若いときのものらしく、元気いっぱいの文章だが、行間には、中国民族の風俗文化を通して、中国人の心を知りたいという素直な熱意があふれている。のち昭和十年には満州に、十八年には日銀副総裁として中支、北支を旅行しているが、軍国主義日本の枠の中での行動であったために、たいした芽もふかないで終ってしまったようである。

 渋沢栄一は孫文氏とも親交があったし、蔣介石総統とも面識があった。昭和二年十月、蔣介石氏来日に際しては、王子飛鳥山の家に迎えて、論語の「己の欲せざるところを人に施すなかれ。」という言葉を引用して、日中関係についての所信を披瀝したそうである。蒋介石氏は深い印象を受けられたものと見え、しばしばこのことを演説の中に引用しておられるし、また昭和六年に栄一が亡くなったことを聞くと、折から開会中だった閣議を中止して、しばらく黙とうされたということである。父は昭和三十一年の夏、台北草山の私邸で総統にお会いしている。

 佐島敬愛さんは「思い出」の中で、父のものの判断や運び方について、次のように書いておられる。

「先生は、…………ある意味では、帝王学的な教育を、若い時から受けられていた。それが果たしてご本人に幸か不幸かということは別としても、それだけに物ごとの考え方が常に、広い基盤で考えられたようであり、ことの正否を見る時に、広い基盤から判断されて、やはり、ある意味からいったら理解を超越したような決定をされる場合がひじょうに多かった。そういうふうなものの見方なり、ことの運び方をする人が、もうなかなかこれからは得られないのではないか。それはやっぱりお人柄自体にもよるだろうけれども、子供の時から育ってきた環境なり、そういうふうな教育なりというものが違うんじゃないかという気がする。たとえば、ナポリへ行った時、ナポリに魚の世界的な研究所があるが、それに先生は私費で、ちゃんとお金を出しておいて、日本の学者があそこへ行って勉強できるような穴をつくったりした。………………気をくばるというのじゃなしに、自然にそういう考え方が出てくるというところが、まあ今申し上げたような小さい時からの環境のせいではないかというふうに僕は感じるのである。」

 こういった広い考え方や心づかいが、これからの日本の活動のあらゆる面で必要とされるときがきているように思われる。学問にも、実業にも、外交にも、そしてこれからの大陸づくり、世界づくりの基盤としても、このような生き方や考え方が求められていると思う。

 父の死後、もし父がいたらこうもするだろう、ああもするだろうと考えながら、あれこれと死後の処理をしていると、父の気持を、今までとは違った意味で、ずっと身近かに感ずるようになった。そして父の持っていた無私の心の広さが、あらためて羨ましく、自分の心の小ささ、浅さ、煩悩の深さに泣いた。しかし、泣いても笑っても父はもう帰ってこない。これからの日本や世界の将来は、私たちの肩にかかっている。

 昭和六年、栄一がなくなったときのことである。谷中の墓地に埋葬をすませた父は、故人が歩んできた波瀾万丈の運命を考えて、自分たち以後の世代は二度とふたたびこのような驚天動地の体験をすることはないだろう。有難いことだ、としみじみ感じたそうである。

 ところがそれから十年後には、日本はすでに対米戦争に突入していた。大東亜共栄圏という名のもとに、明治の人たちが夢に見たこともないような、広大な地域を占領した。しかし数年後には急転直下、敗戦となり、明治いらい、国民が営々として築いてきた国の基盤のあらかたが失われてしまった。世界歴史のペースは、父の想像よりもずっと早く、その振幅もきわめて大きくなっていたのである。

 父の運命も大きく変転した。「考えてみると夢のようだ。驚いたものだねェ。」と病床で昔をかえりみながら、父は感に堪えたような言い方をした。

 そして世界はさらに大きく変ろうとしている。共産世界も、自由世界も、ともに壁につき当っている。すべてのものの考え方、やり方が全面的に再検討されなければならない時がきている。明治時代が江戸時代とまったく違っていたように、二十年後の世界は現在とはぜんぜん違ったものになるだろう。過去のどの世代にもまして、われわれの世代は大きな転変を経験することになるだろう。そして好むと好まざるとにかかわらず、日本は、世界の将来に大きな影響を与えることになるだろう。人種的にも、地理的にも、経済的にも、それはこれからの日本が背負ってゆかなければならない宿命である。私たちがこれをどのように受けとめて、これからの日本やアジアの運命をきり拓いて行くか、栄一も、父も、地下でひたぶるに見守り、祈っているに違いない。


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