渋沢敬三の伝記

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父・渋沢敬三 〔7〕 / 渋沢雅英

渋沢雅英著『父・渋沢敬三』(実業之日本社, 1966.10) p.131-149掲載
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第七章 家庭

 父はなかなかの旅行家であった。アフリカと南極をのぞく全大陸にまたがる世界旅行の経歴は相当のもので、国内でも行ったことのない県はなかった。「僕には日本中に第五部隊がいるんだ。」と言うのが得意で、たしかにありとあらゆる村や町に、父を親身になって歓迎してくれる友人があった。土地の名士や旧家の人々もあったし、また篤農家、漁民、学校の先生など付合いはきわめて多岐にわたっていた。

『柏葉拾遺』や『犬歩当棒録』に旅譜として記載してあるものだけを拾っても、明治四十二年中学一年のとき、銚子に修学旅行に行ったのを始め、昭和三十五年八月まで五十二年間に四百八十回の旅行の記事が見える。その間大正十年はノートが紛失して記載もれになっているので、毎年少なくとも十回は旅行していることになる。純然たる会社の用のこともあったが、多くの場合は学問的興味をも含めての旅行が多い。ずらりと並んだ旅譜を見ていると、旺盛な向学心とそれを裏づける体力が、身に迫ってくるような感じがする。

 たいていは会社の人や学問の仲間との同行が多かったが、たまには私たち家族も連れて行ってもらったことがあった。私がおぼえている限りで一番始めは、小学校一年か二年の頃、静岡の三津浜で静養している父を見舞ったときだった。春休みのころだったか二、三日滞在した。父はよく私を釣に連れて行ってくれた。

 まだ雪をかぶって美しい富士山が影を落している鏡のような海面に船をとめて、父も母も私も黙って糸をたれる。船頭のやるのを見よう見真似で、私はアオリイカを二匹釣りあげた。その手つきがいいと言って父にほめられた。「だから漁師は七つか八つの時から修業しなければだめだ。小学校などに行っていてはいい漁師はできない。教育も大切だがそういうことをよく考えてやらなければ…」などと父が同行の人たちに話していたのをおぼえている。

 小学校を卒業すると、いっこうにできがよくなかった私が、どうしたはずみか、当時入学試験が難しいと言われた武蔵高校の尋常科に合格した。父はたいへん喜んで母と私を連れて京都見物に出かけて行った。

 超特急「つばめ」号の展望車から見る東海道の景色は美しかった。関ケ原から西はすべて始めてで珍らしかった。車中で一緒になった正金銀行の大久保頭取に、「子供孝行ですよ」と父が言っていた。京都ホテル、金閣寺、苔寺などの名所も、学校の休みを利用して行ったのだから休日だったに違いないのだが、今思うとおかしいほど人が少なく静かでゆっくりと見られた。

 戦後になってから、宮城県の鮎川という町に鯨の博物館ができたというので見学に行った。石巻から渡波という入江を左に見て牡鹿半島をドライヴした。昔、伊達政宗の家臣で支倉常長という青年武士が、ローマに使いするために船出した月ノ浦という浜を通った。鮎川は町中が鯨の油の臭いがしていた。鯨博物館の開館式には、たしか父が挨拶をしたと思う。午後船を出して金華山へ行った。島の近くでブリ網を上げていた。ひじょうな大漁で魚を運搬する船が満船になり、文字通り魚の重さで沈みそうになっているのを見て驚いた。

 妹たちと一緒に関西に行ったこともある。とくに上の妹が嫁いでいる佐々木繁弥君が第一銀行の大阪支店にいて、阪神地区に住んでいたときなど一緒に京都に行って、祗園のお茶屋で有名な地唄舞を見せてもらったこともあった。父はことがあるとよく子供たちや私の家内などを連れて、柳橋や新橋の料理屋に行くこともあった。そんなときほろ酔いの父は、得意の踊りを披露して見せた。「枯すすき」「権兵衛の種まき」など、六代目菊五郎が感心したとかしないとかいう話が伝わっているが、素人目にもなかなか堂に入ってうまかった。べつに家で練習しているわけでもないのに、妙に器用でしかも雰囲気と独特の風格をもった立派な芸だった。

 志摩の多徳島に御木本幸吉翁をたづねたのは父と私では時が多少前後していた。昭和二十三年、私がうかがったときは御木本さんは九十一歳だったが、私に会うなり袂から小さい掛軸を出してひろげられた。それは渋沢栄一の九十二歳のときの書であった。

「あんたのおじいさんは九十二まで生きた。ワシは九十二になるまでこの軸を肌身はなさずもっているのだ。」

といって翁は哄笑された。

 この後、昭和二十七年に石黒忠篤夫妻等と一緒に父が多徳島をおとづれたときには、御木本さんは「もうあの軸はいらなくなったからしまってしまった。」といわれたそうである。

 九十四歳の老齢でかくしゃくたる御木本さんはレコードに合わせて炭坑節などをおどったり大変な元気で、父をつかまえて、「あなたが日本銀行総裁になるまではまだがまんができたが大蔵大臣になった時はとんでもない勘ちがいだと思った、もっと考えにゃいかん」とがみがみ叱ったということである。父も「本当にそう思っていたので」大いに同感の意を表したということである。

 外国を一緒に旅行したこともある。昭和三十一年の秋、ミュンヘンの国際商工会議所の会議に出席した父は、帰りにロンドンで働いていた私を訪ねて英国にやってきた。私は心を尽して父をもてなした。一緒にスコットランドに二泊三日の旅行をした。エジンバラの町も美しかったが、北海沿岸のうら淋しい漁村を見学し、ホワイトフィシュの漁業協同組合を訪ねたり、炭鉱を訪問して地下一千メートルの竪坑を降りてみたりもした。漁夫も炭鉱夫もいい人たちだったが、東北弁のような訛りの強い英語で、父も私もほとんどわからなかった。スターリングの古城やロッホローモンドの湖水が、秋晴れの空に美しかったのを今でもよく憶えている。

 昭和三十四年の春、国際商工会議所の総会がワシントンで開かれたので、父はアメリカに行った。私はちょうどその頃、アリゾナのフランク・ブックマン博士の邸宅に世話になっていたので、博士に願って父をアリゾナに迎えることにした。サンフランシスコまで迎えに行って、同じ飛行機でアリゾナのトウソンに行った。アメリカ西部の沙漠の中にあるこの町は、空軍基地ができたり、大きな工場が移ってきたりして最近爆発的な発展をつづけているが、ブックマン博士の家のあるカタリナ山麓地帯は、昔ながらの沙漠のままで、不思議な形をしたサボテンがにょきにょきと立って、この世のものならぬ静けさであった。

 私が会社をやめてMRAの仕事をするようになって三年目のころだった。それは決してやさしい道ではなかった。ブックマン博士やピーター・ハワード氏のような先輩に訓練を受けながら、人生について、世界についていろいろなことを学ぶにつれ、自分の力のなさ、いたらなさがますますはっきりしてきて、絶望に呻吟することもあった。しかし何も頼るもののない未知の道を歩き出したことによって、多少の勇気も生れ心も熟しはじめていた。ブックマン博士は、そういう私や私の友人たちをさらに大きな大海に押し出そうとでもするかのように、「いったい日本の問題は何か。またそれを君たちはどうするつもりか。」とたたみかけてきた。それは禅の公案のようなもので、考えて答えられる質問ではなかった。心で答え、情熱と決心で表現しなければならなかった。

 アリゾナの沙漠は面白い。「緑の木《グリン・ウツド》」といって葉が一枚もなく、濃い緑色をした幹と枝だけで、そこから養分を取って生きている木がある。沙漠には葉を維持する水がないから、こんな木やこれに似た植物がたくさん生えている。「走り鳥」といって羽がなく飛ぶことができない鳥がいた。肉食の鳥であまり人を恐れず、朝早いころは、窓の外を虫やトカゲなどの獲物を求めてさかんに走るのが見えた。そんな動物を眺めながらあれこれと考えているうちに、ふと一つの劇の構想が浮んできた。

 私は演劇は好きではあるが、自分で書いたことなどはなかったので、ブックマン博士に激励され、三日間で四幕ものの短かい劇に仕上げた。博士はこれに「光の矢」という題をつけてくれた。後にこの劇は都心の劇場で長期間上演されたり、テレビで何回も全国放送をされたり、予想外の大きな仕事をすることになった。

 父はこの劇を見てひじょうに驚いた。この二、三年の間、私の中で育ちつつあった新しい生き方や考え方、また日本にたいして世界にたいして、私がもち始めていた構想の全貌をいっぺんに摑んだようだった。父は私以上にそれをはっきりと感じ取ったのかもしれない。

 ブックマン博士は心をつくして父を迎えてくれた。父は博士にたいしてきわめて謙虚な態度だった。父はかねてから博士をひじょうに尊敬していた。しかし卑屈ではなかった。博士のペースに巻きこまれることはなかった。博士もまた静かだった。「この世の中には一つの力がある。これを否定しようとしていくら議論しても否定することができない。それは光だ。そして希望だ。」博士はそのようなことを言った。緑の芝生が美しく、青い空にサボテンがにょきにょきと立っていた。

 私は父を案内してソノラ野外博物館に行った。アメリカ西部の沙漠に住むすべての動植物を集めた、博物館と動植物園の合の子のようなものであった。プレアリーマウス、ピューマ、山猫など興味ある動物から毒蛇、毒虫にいたるまで、「沙漠は生きている」という映画に出てきたような動物がたくさんいた。よく晴れてかなり暑い日だったが、父は喜んで何時間もかけて丹念に見てまわり、いつものように沢山の資料を買い求めた。


 父は心の暖かい人だった。私たちと一緒にいても文句を言ったり、怒ったりすることはめったになく、いつもていねいで節度があり、思いやりも深かった。あらゆる意味で頼りがいのある父だった。それなのにいったいどうして母と別居するようなことになったのか、わかっているようでいながら私にはそれがわからなかった。とくに大事件があったわけでも、大喧嘩をしたわけでもなかった。昭和二十二年に別居するまでに二十数年間をともに暮し、四人の子(私と二人の妹のほか夭折した弟があった。)までつくった仲でありながら、どうしてあんなことになったのか、いろいろな人がこれを疑問にした。

 母が悪いのだ、母が我儘なのだと考えた人も少なからずある。表面に現われた形だけをとらえてみれば、戦後一番ひどい時に、夫と子供を残して家を出て行った母が責められる面もあったに違いない。母にしても人間である以上、妻として完壁ではなかったかもしれない。しかしこれは母だけの問題ではなかった。どこまでも二人の問題であり、どちらか一方を責めることはできないと私は考えていた。

 別居後も父はべつに婦人問題を起すわけでもなかった。特定の婦人に心を寄せても、決して乱れるということがなく、はた目にはととのいすぎるほどととのっていた。いったいなぜそうなのか? 父は女が嫌いなのか? そんなはずがない。父は本来心の暖かい人だった。いったいどういうことなのか。父の本当の心はどこにあったのか、私はよく迷いよく考えた。

 今年の春、私は所用があってインドのボンベイに行った。郊外のアンデリという小さい町の、アラビア海に面した西洋風の小綺麗な別荘で一週間ほどすごした。庭の芝生には見上げるように背の高い椰子の木が立っていて月の夜などにはことのほか美しかった。アラビア海は見渡す限りどこまでもひろがって、たくさんの漁船が面白い形の帆をあげて浮んでいた。

 インドは暑いから毎日昼寝をしなければ身体がもたない。その昼寝のとき、私は山本周五郎氏の『樅の木は残った』という小説を読んだ。伊達藩の騒動を書いた立派な作品で、原田甲斐という人物が主人公である。原田甲斐は先祖代々伊達家の家老職で四千石の禄を食んでいるひじょうに興味深い人物である。『樅の木は残った』は、私の知る限りの時代小説でもっともすばらしいものの一つであるが、何の気もなく読み進んで行くうちに、原田甲斐について次のようなことが書いてあるところへきて、私は思わず目を疑った。私の父のことを書いてあるのではないかという錯覚におちいった。

「いつもみんなに見張られている。天井も壁も柱も襖も、みんな生きていて、その目で俺を見守り、その耳で俺の気息をうかがっているようだ。
 彼女たちはどんな時にも彼の女であり、妻であると同時に全く見知らぬ人であった。自分には男としての情熱がないのだろうか、性格が冷酷なのだろうか? いや、そうは思えない。自分は人よりも激しい情熱を持っている。人よりもはるかに激しく強い情熱を持っていることを知っている。
 また、決して自分は冷酷ではない。自分が誰よりも感じやすく、情に脆いことを自分はよく知っている。去った妻にも外の女にも不実な気持で接したことはないし、不実な真似をした例もない。そんな例の決してなかったことを自分は知っている。
 そうだ。
 自分はいつも誰かにどこからか見つめられていた。幼い時からそうだった。五歳で父に死なれてから、四千石の館主として周囲から見守られてきた。寝ても起きてもいつも誰かに見守られ、誰かにうるさく世話をやかれたり、忠言され意見されてきた。自由だったのは山籠りをしているときだけだった。そのときだけ自分は自由な人間らしい気持になることができた。
 これでは女に情を移すことなどできない………。」

 時代も違い、立場も違い、事件の成り行きもまったく違うが、山本周五郎氏の筆になる原田甲斐の人物像には、どこか父に似たところがあった。父もたしかにごく若いころから渋沢栄一の後継者として、「いつも周囲から見守られていた。寝ても起きてもいつも誰かに見守られ、誰かにうるさく世話をやかれたり、忠言され意見されてきた。」

 父篤二の廃嫡問題について、穂積、阪谷その他多くの親類はひじょうな心痛だった。若い父を摑えてはいろいろと愚痴をこぼしたり、お説教をしたらしい。彼らにとっては、若い敬三は渋沢家存続の唯一の希望であった。父はよく私に述懐して聞かせた。

「親類のところに行くとその度にいろいろなことを言われたものだ。お互同志の批判や陰口……。誰が何と言っていたとか、こんな噂があったとか、いや、うるさいのなんのって、僕がうっかりあそこでこんなことを言ってましたとか、あの人はこう考えているようですなどと、別のところでしゃべったりしようものなら、蜂の巣をつっついたようなさわぎになると思ったから、僕はそういう話は聞き役にまわるばかりで、自分ではいっさい何も言わないことにした。大人ってのは馬鹿なもんだと思ったよ。」

 一つのかなり大きい集団の中心人物としての期待と責任を押しつけられることは、それだけでもかなり気骨の折れることである。しかも父の場合はきわめて若く、それもはなはだしく変則な状況の下に、それを押しつけられたのであるから、その性格や性向にかなりの影響を残したのはむしろ当り前のことだっただろう。十六七の少年が「うっかりしゃべったりしようものなら蜂の巣をつっついたようになると思ったから……いっさい何も言わないことにした。」などと考えたのはよほどのことだったのだろう。そこには家長または家長候補者として、全体の平和と安定のためにきわめて慎重に行動しなければならない、つまり自分の一挙手一投足はつねに周囲から見守られているのだという意識がはっきりと育っていたように思われる。

 祖父の篤二が逃避する前に、父が逃避したかったかもしれない。原田甲斐の場合はこれは山籠りをし、鹿や熊を求めて山野を駆けめぐることであった。その時だけ「自由な人間らしい気持になることができた。」父の場合には、それは動物学の道であり、常民文化にかんする学問研究への情熱であった。

「僕は顕微鏡の中の明るさが好きだ。鏡に反射しプレパラートの上の生命を照し出すあの明るさが、何とも言えないほど好きなのだ。」

 父はよくそう言っていた。子供心にも一生をあげて学問に没頭すれば、家族や経済界の経緯からまったく離れてしまうことはできなくても、少なくともかなり自由な、自分じしんの生活を保つことができると考えたのかもしれない。だから栄一の懇望をうけて銀行業につくばかりでなく、家長としての立場を確認しなければならなくなったことは、父にとってよほど「悲しかった。ひどく悲しかった。」のだろうと思う。

 そういう心を持っていたのでは、たしかに「女に心を移すことなどできなかった。」のかもしれない。常に他人に見守られている中で生きてきて、いつかそれが習い性となってしまった父にとっては、妻を自分だけのものとして、二人だけの生活をつくるというようなことが、そもそも難しかったのではないかと思う。しかし母にとっては、それは我慢することのできない悲しいことであった。

「お父様が何を考えていらっしゃるのか、私にはついぞわかりませんでした。」と母はあるとき述懐した。女学生時分、乙女ごころに嫌いでなかった中学生のころの父とくらべると、大学を出て銀行に入った父は、あまりにも変ってしまっていて、取りつくしまもなかった。そしてその理由は、父が亡くなるまで母にはついに理解することができなかったのである。

 父は愛情のない人ではなかった。それは母もよく知っていた。情熱もある。常民の生活文化の探究に情熱をもやし、寸暇を惜しんで勉強し、学者の人たちと深更まで語りつづける父は、たしかに少年のような情熱に燃えていた。父はまた、まわりの人たちに対してもわけへだてなくあふれるような思い遣りをもっていた。父のこまやかな友情に感謝している人は尠くないようである。それが真実であることを母も私も知っている。しかし家庭となるとそれが素直に現われなかった。自分たちだけの部屋をつくるということが、父にはどうしてもできなかった。ところが女である母は、自分たちだけの部屋がなければどうしても生きられなかった。そこに父の人生の悲しみの一つがあった。

「希望書」の一節に父は次のように書いている。

「登喜子には長い間、変な運命から気の毒をかけてすまなかったと思っている。離婚という話もたびたびあったし、良胤君(木内良胤氏・母の兄)からそういう意味のお勧めもあったが、離婚は私よりも子供たちのためによくないと考えて同意しなかった。生活の援助はまがりなりにもしてきたが、今となってみればもっと何かしてやるべきだったかもしれない。」


 私は会社をやめて自分のリスクで歩きはじめてから、生れて始めて父との間に本当の心のふれ合いをもったような気がした。それまでの私は、父を利用することばかり考えている欲の深い、意地の汚ない子供だった。父の持っているものは何でもほしかった。お金、地位、権力、……父だけがそういうものを持っていて、私が持っていないのをいつも心の底で嫉妬していた。だからいつも父を利用しようとした。そして断わられるとひどく憤慨した。その裏には、馬鹿な戦争をやって日本をこんなにしたのは大人たちだったのだとか、母がいないからこうなるのだとかいった、父の心を刺すような理屈が用意されていた。

 こんな息子を父はどうにもしょうがなかったに違いない。しかし父は決して怒らなかった。淋しそうな顔はしても、荒い声を出すようなことはなかった。しかし同時にいっさい妥協しようともしなかった。買収、脅迫、馴合いなどというものは、父には縁がなかった。その潔癖さと自分を投げ出した勇気ある態度が、今になって私にはわかる。そしてそういう父を心から誇りに思う。

 しかし私が自分を捨てて、正しいと信ずる仕事をしようと決心したとき、父と私との関係は一変した。アリゾナから帰ってから、私は父に何でも相談するようになった。父もまた何でも教えてくれた。ものの見方、考え方、あの人はどういう人だ、この人にはこうしたらいい、といった具体的なものの運び方など、私はあらゆることを父から教えられた。そして口に出してはあまり言わなかったけれど、自分にいっさいを求めず、つねに世の中のこと、人のことを先に考えるという基本的な態度を、父は何かにつけて私に見せてくれた。

 小田原にあるMRAアジア・センターという建物は、父の決心と清水建設会社のご厚意がなければ決してできなかった建物である。もちろん父のほかにも国鉄の十河総裁を始め、多くの方がたが真剣になって建設に努力された。しかし最後の決心は父が下すような形になった。アリゾナに旅行をしたころから、父はいろいろと考えていたが、あるとき決心して本気で建てることになった。そうなると父は勇敢だった。地下二階、地上五階、延べ二千坪を越える建物が着工後わずか十カ月で完成した。

 昭和三十七年十月、松の緑も美しい秋の日に、池田総理以下内外から二千五百名の人が集まって開所式が行なわれた。もう体が悪くて小田原に行かれなかった父は、東京で遅くまでテレビのニュースを見て心から喜んでいた。しかしあれはオレが建てたのだというような気振り素振りは微塵もなかった。迷惑をかけられたという顔もいっさいしなかった。建築資金の後始末についても、父は最後まで誠実に心配し、自分の力でできるだけのことは全部していった。

 最後の数日前、そのことに関連して遺言書をつくるというので専門家をわずらわし、大急ぎで準備をした。公証人の方にも病室まできていただいた。そのときはもう字も書けなくなっていたので、公証人の見ている前で、父の手に私の手を添えて「敬三」とサインした。

「よく早くできたね。手回しが良くてよかった。ありがとう。」と言って父は再び昏睡状態に入った。

 葬儀が終ってから一週間ぐらいたったころ、私はある朝、父の夢を見た。黒い和服を着て白い足袋に草履をはいて、杖をつきながら父は一人で第一銀行の方から東京駅に向ってゆっくりと歩いていた。私は駈けよって父の手を取った。嬉しさがこみ上げて来て、
「ご旅行ですか?」と聞くと
「うん、ちょっと出かけてくる。君もくるか。」
「ええ、もちろん行きます。」声がはずんでいるのが自分でもわかった。東京駅の中央口の方に近づいて行くと、足もとの安全地帯にチューリップの花が目にしみるように赤く咲いていた。父と一緒に旅行に行くということが、ひどくうれしかった。支えている父の身体がばかに柔かい感じだった。やっぱりまだ生きていてくれたのか、と思ったら目がさめた。薄暗い朝の光の中で涙がながれた。

 父は今でも好きだった旅行をつづけているに違いない。父があんなに愛し、尊敬していた栄一もいて、父のその後の報告を聞いているに違いない。私も父の足跡を求めて旅をつづけようと思う。そしていつの日か、父や祖父たちとまた一緒に旅行する日を楽しみに待っているつもりである。


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