渋沢敬三の伝記

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父・渋沢敬三 〔2〕 / 渋沢雅英

渋沢雅英著『父・渋沢敬三』(実業之日本社, 1966.10) p.24-46掲載
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第二章 栄一のうしろ姿

 父は渋沢篤二の長男として、明治二十九年八月二十五日、東京深川で生れた。篤二は渋沢栄一の長男。母敦子は橋本実梁という公卿の娘であった。実梁は幕末、有栖川宮の東征に幕僚として参加した人である。

 父の生家は、深川区福住町四番地(今の永代町)にあり、明治九年に近江屋喜左衛門の寮であったのを、栄一が買い受けて本宅としたものであった。大島川に面した川岸の道から門を入ると両側に三三の倉(三間に三間の意)が立ち並んで、その奥に玄関があったという。この倉はのちに渋沢倉庫部となり、渋沢倉庫会社に引き継がれ、現在も深川営業所の一部として使用されている。

 庭には大きい池があって、子供のころ(明治三十七年)、父がすべり落ちてあやうく死にそこなったことがある。この池は、前の大島川と暗渠でつながっていて、多少塩分もあり干満の差もあって、ぼらやうなぎなどがいた由である。父が七、八歳ごろまでは電気や水道もなく「裸火のガス灯と行灯が並存し、飲み水は大島川へ売りにくる水舟から買っていた。」ということである。

 明治三十六年、父は東京高師附属小学校に入学したが、当時神田一ツ橋にあった同校まで深川から毎日歩いて往復したという。当時の写真から見ると、父は丸顔で利口そうな子供であった。深川の生れだけに、なかなかの江戸っ子で、年を取っても言葉つきや言いまわしに、歯切れのいいべらんめぇ口調が残っていた。

 明治三十九年、深川の倉庫にインド綿が入庫し、そこからペストが発生した。東京市は大あわてで、永代橋をはじめ各所にバリケードを設け、附近は一時交通が杜絶してしまったという。当時は荒川放水路もまだできていないころで、父の家のあたりはとかく水はけが悪く出水が多かったという事情もあって、父の家族はこの年、三田綱町にあった仁礼海軍大将の屋敷を買受け、一家をあげて移転することになった。麻布二ノ橋の坂上で、父が最後まで住んでいた家である。明治九年深川に新築した二階建の表座敷は、その時三田にそのまま移転し、今では政府の第一公邸の一部として、会議その他の用に使われている。

 栄一は埼玉県の農村の出身だったが、若い時から時勢を憂い、家を出て京都で勤王浪士の仲間入りをしていた。その後不思議な因縁で一橋慶喜に仕えたり、慶喜の弟徳川昭武に従ってフランスに行ったり、さらに三転して明治政府に仕えたりしたが、明治六年、野に下って第一銀行を創立、いよいよ実業に乗り出すことになった。

 父が生れたころには第一銀行頭取を始め、数多くの仕事を兼務し、すでに実業界の第一人者として各方面に忙しく活躍していた。明治三十二年には男爵を授けられ、明治三十七年肺炎で一時危篤に陥った時など、宮中から勅使をもってお見舞を賜ったほどであった。女婿の阪谷芳郎も三十九年には大蔵大臣になるなど、北埼玉の農村青年の運命は、ようやく大きく展開しようとしていた。

 長男の篤二は十歳ぐらいの時に母を失い、年上の姉たちに育てられ、学習院を経て熊本の第五高等学校(当時はまだ第五高等中学と言った。第三期生)に入ったが、身体を悪くして中途退学した。栄一の長男ではあったが、身体も弱く、実業にはあまり興味もなかったとみえて、その方ではとくに名を成さなかったけれど、生れつき多才で趣味の豊かな人だったという。狂歌をよんだり、義太夫も素人の域を脱していた。一時、写真に凝って、その作品集を後に『瞬間の累積』と題して父が出版したが、ルポルタージュ写真としては、日本の草分けともいうべきすぐれた感覚と技術をもっていた。『瞬間の累積』のあとがきの中で、父は篤二について次のように述べている。

「父には、穂積、阪谷、尾高などの重要な親類がありましたが、なかなかこの間に、今の言葉でいうと、父の争奪戦が、ごく明らさまでなしに行なわれておったらしいので、父はそれを嫌ってついに逃避をしてしまいました。明治四十一、二年からは、前からやっていた義太夫にも凝っておりました。写真の方は四十三年まででプッツリ切れて、それ以後のアルバムはありません。そんなわけで、余り実業界で働くことも大してしないで閑居の生活に移ってしまいました。」

 婦人問題もあったのだろう。私が物心ついた昭和の始めには、祖父は芝白金に別宅を構えて住み、祖母は父や私たちと一緒に三田綱町の家に住んでいたものである。そんなことがたたって篤二が廃嫡になるということになった。今では廃嫡などは問題にもならないが、家族主義の強かった当時はかなりの事件だったようである。ことに財界でも売り出しの渋沢栄一の家庭の出来事であり、一種の御家騒動めいた扱い方で新聞、雑誌などにもかなり騒がれたという。

「私が中学二、三年の時分、私の母はそういうふうになった状態をたいへん申し訳なく思い、かつ大きな家に住むのを済まぬとして東京都内の諸所方々(本郷西片町、高輪車町、駒込神明町など)を転々と移りながら、一意、私たち兄弟三人の成長を見守っておりました。私は中学三年の時に病気をして落第をしたのですが、これは母にとって一つのショックだったと思います。しかしそれがまた逆にいい結果を生んだのかもしれません。

 大正四年に第二高等学校を受けてみたら幸い入学しました。……」

 この事件によって父は篤二を差しおいて、渋沢栄一の直接の後継者としてかなり特殊な立場に立たされることになった。このことは、父と六十近くも年の違う偉大な祖父との間に、普通の状態ではできなかったような深い精神的なつながりをつくることになった。

 当時の父は健康でかなり創意に富み、なかなか指導力もある面白い少年だったように思われる。深川にいたころには近所の子供たちを集めて「腕白倶楽部」という会を組織し、雑誌を発行した。「ワンパク雑誌」とか「腕白世界」という表題で、年に数回ずつ刊行し、四年近くつづいたようである。その間に父一家は、三田に移ってしまったが、深川の子供たちがたいへん淋しがるので、移転後もたびたび会合したということである。

 明治四十三年には、穂積、阪谷など年上のイトコたちに伴なわれて北海道旅行をしたり、四十五年には附属中学の山岳会に入会し、手始めに上高地に入り、前穂高、焼岳などに登った。夏山を堪能して下山してみると、明治天皇が危篤、やがて崩御のニュースが入って驚いたということである。

 水泳はかなり得意であったとみえて、中学を卒業した大正四年八月には、附属中学の選手として東洋オリンピック水泳大会の四人リレーに出場している。場所は大森ガス会社のプールで、試合の相手は安房中学だった。先方はすでにクロールを用いていたのに、附属中学はまだそういう近代泳法を知らず、チンバ抜手で争って惜敗したということである。

 動物学に対する興味は中学時代すでにひじょうに旺盛だったようである。中学から高校、大学をずっと同級であった中山正則氏は、次のように書いておられる。

「渋沢さんは、中学四年のとき箱根双子山だの武州雲取山で蛙を採集したり、諏訪湖でプランクトンを採集したりしている。水泳部のあった富浦で猫鮫に寄生する海蛭なんてのを採集して、それを丘浅次郎博士に贈って珍らしいと褒められたりしている。そんなわけで中学のころから、『蛭四種について』とか『金魚の音に関する知覚の一観察』とか『ダフネ』(みじんこの一種)とか『日本における自然保護と記念物』とか『諏訪湖について』とか、『蟻の社会性』といったような論文を書いて、動物学に深い興味を持っていることを示しているばかりでなく、大正三年にはイングランド銀行の頭取か何かでしかも一流の考古学者でもあったジョン・ラボックという人について、『わが尊敬するエーベリー卿の略伝』なんてものを書いている。」

 後年大蔵大臣を勤めていた当時、政務奏上のために天皇陛下に拝謁したが、たまたまヒドラや海牛の話となり、財政の政務はそっちのけで二時間近くも話しこんでしまい、後で陛下が、「渋沢はいったい何の大臣であったか」とお聞きになったという話が残っている。

 そんなふうだから、高等学校は当然理科を選び、ゆくゆくは大学の理学部に進みたいと考えていた。ところが祖父栄一がこれに異議を唱えた。自分の後継者として銀行の仕事をぜひ受持ってほしいというのであった。栄一は強圧はしなかった。しかし誠心誠意若い孫に懇請した。

「とても悲しかったよ。悲しくてしょうがなかった。」と父は言った。自分の一番好きな道、もっとも生甲斐とあこがれを感ずる道に行くことができないのが淋しかった。今の世の中なら父の立場も違っていただろう。また、もし篤二が健在で、父が普通の意味での三代目だったら、自分の希望を通していたかもしれない。

「命令されたり、動物学はいかんと言われたりしたら僕も反撥したかもしれない。おじいさんはただ頭を下げて頼むと言うのだ。七十いくつの老人で、しかもあれだけの人に頼むと言われるとどうにも抵抗のしようがなかった。」

 大正五年の九月、父はこうして二高の英法科に入学して、仙台に旅立った。栄一は自分の自動車に父を乗せ、上野駅まで送りに行った。駅では栄一がどこかに旅行するのだと考え、駅長が先導したり大騒ぎをしたという話が残っている。

 大正六年の夏、学校が休みになると、父は折から湯河原の天野屋に滞在していた栄一を訪ねた。栄一は静養かたがた、当時ようやく完成に近づいていた『徳川慶喜公伝』の序文を書いていたが、やっとまとまりかけた原稿を父に渡し、声を上げて読んでほしいと頼んだ。

 栄一は幕末以来慶喜に仕えて、その人となりや見識を深く尊敬していた。西郷隆盛や木戸、大久保などいわゆる維新の功臣と言われる人々は多いが、大政奉還にさいして示された慶喜の英知と英断がなかったら、維新の大業はあのようにすらすらと運ばなかったに違いない。慶喜は朝廷に対してもまた徳川側に向ってもすべての責めを一身に負い、一言の弁明もせず、何一つ求めずひたすら国運に殉じたのである。

 ところが、勝てば官軍というように、この功労者も維新後は賊軍の張本人のような扱いを受けて逼塞していた。栄一はその事の不合理、不公正を心から嘆き、何とかして聰明な旧主の事跡を詳細に記録して後世に伝えるとともに、慶喜を再び世に出さしめなければならないと、かたく決意していた。財界で忙しく活動するようになってからも、この決心は年とともにますますかたく、長い年月苦心していろいろの手をうっていた。その一つが伝記の作成であった。

 始めは福地桜痴氏に編纂を委嘱して何年か努力したが、なかなか思うように行かず、後に東大の荻野由之博士を中心として多くの学徒を煩わし、二十年近い歳月を費してようやくこのころ、『徳川慶喜公伝』八巻が世に出ようとしていた。始めのうちは世をはばかって極度に遠慮をしておられた慶喜公ご自身も、世の中が変るにつれてこの企画に積極的に参加され、編纂のための会議などにも出席され、質問に答えたり、意見を述べたり、出版の日を心待ちにされるようになっていた。

 栄一は序文の中でこのような経緯を詳細に記録し、自分がどうして慶喜公の知遇を得るに至ったか、何故この伝記の編纂を思い立ち、どういう経緯で今日に至ったかをありのままに心をこめて書いている。それはなかなかの長文で、かつ情意をつくした力作であった。

 晴れた朝で箱根の山気がすがすがしかった。若い父は言われるままに、達者な筆で律義に書かれた原稿を手に取って読み始めた。始めは何のこともなく読み進んで行ったが、やがてこの文章に宿る栄一という人の気迫と、歴史とともに歩き育ってきたその人生のスケールの大きさが、父の心にぐいぐいと浸透し、魂をゆさぶり始めた。そこには日本の国の生きた歴史が躍動し、日本人の心が渦巻いていた。そして行間には、七十歳を越えなお火のように燃えている栄一の、国を思い、世を思い、主人を思いやる、正直で真摯な熱情が輝いていた。二、三十分も読み進んでいったが、ついに父は圧倒され、それ以上読むことができず、突然鳴咽と共に泣き伏してしまった。涙がとめどなく流れた。

「どうしたんだい。」栄一は驚いて若い孫の顔をのぞき込んだ。
「その時を境にして、おじいさんの僕を見る目が違ってきたようだ。若僧ではあるが、これは世の中の心がわかる奴だとでも思ったのだろう。」と父は言った。

 栄一はこの孫を愛した。篤二が廃嫡になってからは、特に大切な跡取りであり、将来家の柱石ともなって行くべき大事な孫であった。それだけに、その父が、こういうように人生の本質を理解し得る感覚と素質を持っていることを知ったのは、栄一にとって嬉しい発見であったに違いない。公務で忙しい中を暇をみては父を誘って、昼食にビフテキや穴子の天ぷらを食べに行き、若い孫の健啖ぶりを見て喜んだという。


 大正十年大学を卒業すると、「他人の飯がくってみたく、祖父にたのんで正金銀行に入れてもらった。」(瞬間の累積)。そしてその年の五月、母登喜子と結婚した。母は木内重四郎の娘であった。父は母の兄と中学時代に同級で、その縁で知り合っていた母を嫁にもらうことになったのだった。母は岩崎弥太郎の孫に当っていたので、結婚式の写真には、岩崎家の縁故で当時の総理大臣加藤高明夫妻や幣原喜重郎夫妻の顔もみえている。後年その幣原氏の内閣で父が大蔵大臣を勤めるようになったのも不思議な因縁であった。

 新婚間もなく正金銀行のロンドン支店勤務となり、若い妻を伴って三年余りの海外生活を送った。その間欧州各地を旅行したり、美術、音楽などを組織的に勉強したりした。その時に得た芸術に対する知識と理解の程度はなかなかのものであった。本人はもっと海外生活をしたいと思い、特にアメリカで勤務したいと考えていたらしいが、栄一の健康もすぐれなくなったので内地に転任となり、やがて正金を退職して、父祖の業である第一銀行に入った。

 以来、第一銀行の常務、副頭取を経て日銀総裁、終戦後は大蔵大臣を勤めた。病気中、心してずい分辞退したにもかかわらず、亡くなったとき父が役員をしている会社が三十以上もあった。会社で死亡広告を出して下さったが、私たちがきまりが悪いほどずらりと並んで人目をひいた。たしかに父の社会的役割は財界であり、栄一の後継者として恥しくないキャリアでもあった。

 しかしそれにもかかわらず、実業は父の本意ではなかった。『瞬間の累積』の中で父は次のように書いている。

「私は実業に志してはいなかったので、銀行は大切だとは思いましたが、面白いと思ったことは余りありません。真面目につとめておりましたが、人をおしのけて働こうという意志もありませんでした。」

 希望書にも次のような記述が見える。

「自分は縁あって財界に身をおき、第一銀行、日銀、大蔵省、国際電電などいろいろな所に世話になったが、自分の一番の生命としたものは実業ではなく、やはり学問であった。」

 このことは、父の人生を複雑でかつユニークなものにすることとなった。「欲のない人」というのが父に対する通常の批評であったが、たしかに父は地位や名声に興味がなく、敵をつくらず、すべての人にたよられる一種独特の存在であった。渋沢栄一の後継者であるという立場が、始めから財界世話業への道を指向していたことも事実だったと思う。しかしそれにもまして、父の人格というか生活態度がこれを決定的なものとした。

 父は本当に欲がなかったようである。私が中学生のころ、父はよく「知足」ということを言った。「知足」とは足ることを知るということである。私はおよそ足ることを知らないわがままな少年だった。いい犬が飼いたくなったり、海に行けばヨットやスカールがほしくなったり、スキーに行けば外国製の道具を買いたくなったり、欲望には限りがなかった。それに対して父は、よく「足るを知りたまえ」と言って反対した。厳格と言うのでもなく、無理におしつけられるというのでもなかったが、そこには深く根をはった人生観が迫って来て、どうにも抵抗のしようがなかったことを今でもよく憶えている。

 年を取ってからも私は足るを知ることがきわめて少なかった。お金もほしかったし、人の好意、地位、権力などほしいものに限りがなかった。人間は元来限りない不安と、限りない支配欲をもって生れてきているようである。不安におびやかされれば、限りなくお金や物を求め、自分の支配力を確立したいために、地位や権力や富をほしがる。なかなかのことではこの欲望から自由になることはできない。だから、父が一体どうして「足るを知った」のか、私はよく疑問に思った。そんなはずはない。あれは処世術の外面にすぎないのではないかと、強いて否定的に考えようとしたこともあった。

 いつそんな決心をしたんですかと、直接父に聞いてみたこともあった。

「さあ、知らないね。どうしてそう考えるようになったんだか。」父は本当にわからないような、またあまり興味もないような顔をしていた。

 欲望から自由になるためには、人生に対して違った態度を持つことが必要である。大きい目的を持って、そのために自分の人生を賭けようと考えたとき、人はそういった欲望に煩わされなくなる。「大欲は無欲に似たり」などという言葉もある。また自分は人生から何一つ求めない。他人に与えることが自分の人生の目的である、という道義的な決心をすることによっても、人間は煩悩から解放されることができる。

 いずれの場合でも、しかし理屈だけではうまく行かない。理屈だけでは煩悩の谷間を飛び越せるものではない。生きたお手本が必要である。自分の目の前に偉大な人物がおり、そこに煩悩を超越した人生がある場合にはそれを頼りに見よう見真似と手さぐりで、いつか新しい態度を自分のものにして行くこともできる。父にとって栄一はそういうお手本だったのではないかと思われる。

 栄一の要請を入れて実業の道に進むことは、自分の人生を好き勝手に生きる権利を放棄し、以後の生涯の全部を世の中に対する一つの義務として受入れることであった。それはかなり容易ならぬ決心である。父自身もって生れた性格もあったのだろうが、そういう決心をさせたものは、やはり栄一という人の人格の大きさ、そしてさらにつきつめて言うならば、そういう栄一をつくり出した原動力、天の命というか、神の力というか、そういうものへの信頼がこれを可能にしたのだろうと思われる。

 栄一もこの孫を愛したが、父も栄一を愛し理解した。栄一が亡くなって間もないころ、父は「祖父のうしろ姿」という短かい文章の中で、父の見た栄一を感動的な筆で綴っている。父の人生の基盤ともなった考え方、感じ方がよく出ているのでその大半をここに引用したい。

「八十歳までの祖父は随分とも人問的でありました。すべての方面に物欲が残っていました。昼食に私と二人でよく穴子の天ぷらを平げた祖父でありました。注意すると云った程度の小言を云っても、一面ユーモラスな点があると同時に、他面ロジカルに相手へ迫ると云うようなところがありました。自からの意志を他人に伝える肉迫力とか、積極的なものの指導とかを、あの靉靆たる春霞のような老人の笑顔のうちから、ひしひしと感じていました。それは如何に驚くべき程でき上っていたにせよ、人間としての匂いは随分強く感じていました。然るに八十ごろから後に至って、先に述べた指導力とか肉迫力とか云った圧力が、何時の間にか消え失せてしまったにも拘らず、傍に接していると、祖父から云い付けられたり、求められたりするのではなくて、何だか、こちらから云ったり行なったりしなければならないような気持に、無理ではなく、無言のうちにさせられてしまうことを感じ出しました。そしてそれがすこぶる自然ににじみ出て、事が進行して行くのでありました。人間でありながら人間的ではなく、つまり肉的でなくなった気がしました。聖とか霊とかいう字はあまり私としては用いたくありません。云い換えれば透き通ったような感じとでも云えましょうか。しかし、それと同時に私には次第に祖父から発散されていたグレアーと云おうか世間的と云おうか、そうしたものが消え失せて、却って本当の人間と云う感じが深く起ってきました。
 殊に私は多くの場合、祖父の後に従って歩いて行くことが多かった為か、この感じをそのうしろ姿にはっきりと見出したのであります。ほんの僅かばかり首を左に傾けて、子供の後頭部にも似た、いかにも柔かそうな年の割に黒い髪の毛を白いカラーの上に房々とかかげ、どういう訳か右と左とに高低のある足音を立てながら歩いて行く。その祖父のうしろ姿には自分などには想像し得ない、永い年月の閲歴を経、経験を深く蔵した、しっかりした偉人と云うよりは、むしろわびしい一個の郷里血洗島の農夫の姿を見るような気がしました。また、そこには同時に、あの顔の正面から仰いではちょっと見出し難くかった、詩の世界と、無心な幼な児にも見るような、無垢な魂とを強く印象させられたのでした。青年のころ、故郷を棄てた為、郷里の人として働き得なかったことに対して極めて律義に申訳なさ、相済まなさを感じていた祖父のこのうしろ姿に、その昔ささらの獅子を冠って、御諏訪様の前で踊った一村民としての姿をありありと見て、私は何とも云えない懐しい、また心の底からすがりつきたいような頼もしさをしみじみ感じたことが、幾度かあったのであります。祖父のうしろ姿は、私にとっては正面から見た顔よりも、もっともっと大切にしたいような、心の底に秘蔵したいような、有難い姿でもあり、また力でもあるのであります。
  中略
 有島武郎氏の言葉だったと思いますが、『惜しみなく愛は奪う』というのがありましたが、それとこれとは違っても気持は相似た意味で、祖父には精力の倹約とか尽力を惜しむとかいうようなことが少しもなかったように思います。このことは人との応対にのみ例をとっても充分窺われます。私どもとしては、どうかして祖父の過労を少なくしたいとか、重要な御用と思われる方の訪問以外は、避けしめたいとか、言わば多すぎる訪客の制限に苦心したのに反し、祖父はどんな訪客でも断わるなどとは思いもよらず、あの方とは未だ会見が不充分だ、この方にはまだ申上げ足りぬことがあると、常にこれ足らざるを憂い、どうかして少しでも自分の持っているものは、たとえつまらぬものにせよ、これを如何にしてそれ等の方々にお与えできるだろうかとのみ考えていたようであります。祖父には叱られそうですが、先の有島さんの言葉に似せて『惜しみなく徳は与う』と云った気持がありました。しかも、幾ら惜しみなく与えても、その全力を傾けつくしても仕事の成果そのものには、所謂『棒ほど願って針ほど叶う』ことが随分多かったに違いないと思います。それが蓋し実相でもありましょうし、そこに量よりも質の問題としての、仕事に対する祖父の態度が窺われる気がします。私は世間でよく『実業界の大御所』と祖父を一言に云うのを何となく的はずれな批評に思っていました。と云うのは祖父は仕事と人々の人格との相関関係を確把して、しかもそれ以外には何物も考えなかったような気がしていたからであります。云い換えれば祖父は仕事と人格との関係のみに絶大の注意と努力を払って、量や力はきわめて軽く見ていたといえますし、大御所の響きの裡に聞える力は、即ち祖父の一生を通じて懸命に念じたこの人格の高貴とは全く相反する極に在るものと思うからであります。これを要するに『棒ほど願って柱ほど働いて針ほど叶った』のが量的に見た祖父の一生かも知れません。」

 栄一の死後、父はその伝記資料の刊行を思い立ち、竜門社の協力によって土屋喬雄博士を始め多くの方々を煩わし、三十年の長きにわたってその事業を推進した。

 幕末から昭和に至るまで七十年以上にわたって、各方面に活躍した栄一の生涯に関する資料は、そのまま近代日本の発展の姿であり、将来の研究のために貴重な資料である。伝記などを書いていろいろと栄一について意見を述べるよりも、この資料の全部を刊行して後世の文化に寄与する方がいいというのが父の確信であった。

 やり始めてみるときわめて大部な資料で、始めの予定をオーバーして本文五十八巻に別冊十巻という尨大なものになった。間に戦争があって、用紙、印刷なども思うに任せないことが多かった。幸い資料は空襲を免れ、戦後事業が再開され、昨年ようやく本文五十八巻は完成し、引つづき別巻の刊行が行なわれている。個人の伝記資料としてこれだけ大部のものが刊行されたことは世界にも類がなく、外国の大学、図書館などからもひじょうに注目されている。

 昭和三十八年は、栄一の三十三回忌に当たっていた。これを記念するため、父は『青淵詩歌集』という本を出した。十一月十一日の命日を前に、自分も重病の床にありながら私たちにいろいろと指図をし、法事や供養の手配をした。死を前にして祖父や父の面影が、ひとしお心によみがえってきているようだった。

 残念なことに、栄一の命日を前に、父は十月二十五日に亡くなった。そのため三十三回忌の法要は、私が主催しなければならないことになった。

 秋晴れに菊も盛りの美しい日だった。上野の寛永寺の本堂で、緋の毛氈に座って、多くのお坊さんに唱される荘厳な読経の声を聞きながら、私は父の人生の上にひろがっていた栄一の命の大きさと深さをしみじみと感じていた。


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