渋沢敬三の伝記

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父・渋沢敬三 〔4〕 / 渋沢雅英

渋沢雅英著『父・渋沢敬三』(実業之日本社, 1966.10) p.68-86掲載
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第四章 成長

 昭和七年、篤二が亡くなった。篤二は長く白金三光町で閑居の生活をしていたが、癌のため十月六日亡くなった。遺骸は直ちに三田に運ばれ、そこで葬儀が行なわれた。

 渋沢秀雄氏によれば「万事にゆきとどいた上にユーモラスで粋な人だった。」という。愛犬家としても相当なもので、当時三田の家にツナマルとヒノマルという二頭の犬がいたが、たしか三光町の祖父が私にくれたものであったと思う。土佐犬まがいの犬でよく喧嘩をしていたのをおぼろげに覚えている。

 明けて昭和八年七月には次女黎子が生れた。私の二番目の妹である。双葉女学校を卒業し、東北大学に進み生物学を専攻していたが、同じ研究室の服部勉君と結婚し、今では夫妻揃って同じ研究をしている。学問に情熱を燃した父のあとを、本当の意味で継いだのは結局この妹だけだった。父はこの控え目な妹を大へん愛して、東北大学に受験、入学の折などわざわざ自分でついて行ったり、何くれとなく世話をしていた。

 昭和七年には、第一銀行常務取締役に就任しているから、仕事もだいぶ忙しくなったと思われるが、暇をみてはさかんに旅行に出かけている。八年には、正月の三河にはじまって越後三面、松本、秋田県の角館、田沢湖などに旅行をしている。このころから釣にかわって学問の旅行が急激に多くなってきた。昭和九年の五月には、三週間にわたる薩南十島の視察、またこれにつづいて隠岐島前島後の旅行など、その後の学問の方針をきめるような本格的な調査旅行を企てている。

 昭和十年には、銀行の関係で満鉄および満州シンジケート団の招待により、四月から五月にかけて満州、朝鮮を視察した。しかし、この年にはその他に三河、能登、紀州、越後桑取谷、二十村、岩手岩泉、黒部、近江安曇川など十回余りの調査旅行が、父の旅譜を飾っている。

 研究所の仕事も次第に本格的な軌道に乗りつつあった。昭和十一年十二月、同人雑誌「アチック・マンスリー」に、父は次のように書いている。

「(只今年は)アチック全体としてはなかなか活動もし、忙しかった。しかしそれは穫り入れの忙しさではなく、種蒔の繁忙であったと思う。全くここ二、三年は種蒔きであった。後二三年も同様であろう。中には芽らしいものが出ているものもある。また中にはほんのモヤシの状態のもある。ただ嬉しいのは、そのどれもが大体に於いて素性のいい種で、しかも間引く必要を認めない点だ。これが皆スクスクと成長したらさぞかし美事だろうと思う。」

 希望と喜びに満ちた成長期のアチックの雰囲気を彷彿とさせる文章である。そのころ育ちつつあった種は、のちに山口和雄さんの『九十九里浜地引網漁業』とか、伊豆川浅吉さんの『土佐捕鯨史』とか、桜田勝徳さんその他の方がたの各地の民俗誌の編集とか、各地方の共同調査、また父自身の『魚名の研究』などとなって確実に育って行った。

 当時アチックに行くと足半《あしなか》という履物の研究が盛んであった。ワラで作ったサイズの小さい草履のようなもので、昭和十年ごろのアチックの民具研究の中心をなしていたらしい。当時アチックの壁や机の上には、この小さな丸いワラ草履が所狭しと並べてあった。何のためにこんな不思譏なものを研究しているのか、私には全くわからなかったが、父はよくその小さい草履の写真を撮ったり、測定をしたり、時にはガン研究所をわずらわして、レントゲン写真を撮ったりしていたようである。この研究が後に絵巻物の研究、さらに絵引の編纂などの事業にもつながって行くことになるのである。

 あまり学問ばかりやっていて家庭を省みないと、母がそのころ、よく不平を言っていたが、父も気がさしたとみえて昭和十一年の正月には、私たちと一緒に新潟県の赤倉にスキーに行った。当時、母が小学上級生の私を連れて、夏は北アルプスに山歩きに行き、冬はスキーに熱中していたので、父もやむなくこれに付合ったものと思われる。服装や道具なども全部買い整えたのだが、すでに少し肥りすぎていたためもあって、一回きりでおしまいになってしまった。この時私は父のお相伴で、はじめて寝台車というものに乗って、物珍らしく嬉しかったのを覚えている。

 銀行でも、「学問ばかりやっている」と非難めいた苦情を言われたそうである。「皆は碁を打ったり、ゴルフをしたりして結構時間を使っているんだから、文句はないじゃないか」と、父はよく言っていた。しかし銀行の側から見れば、必ずしも時間の配分の問題だけでなく、常務取締役兼業務部長というような、銀行の中枢にいる父の生活の重点のおき方に疑問を持ったのだろう。その時としてはそれも無理からぬことであったのかもしれない。父は多少困ってはいたが、しかしこれに影響されるようなことはなかった。

 吉田三郎氏が秋田県の牡鹿半島寒風山麓で、開拓後間もない荒地と戦いながら、毎日の農業活動の合間に克明な日記をつけておられたのもこのころであった。

「農民、漁民の体験的記録……事実に即した人間の汗の記録」(昭和十六年十一月二日社会経済史学会第十一回大会に於ける父の所感より)を出版したいという父の希望に協力して、吉田氏は、昭和十年三月十三日から翌年の三月十二日まで、三百六十五日の間、一日も欠かさずに毎日の記録を書きつづけた。それも単なる心覚えだけではなく、他人が読んでもよくわかるように、毎日の煩瑣な作業工程の説明や日日の収入、支出、食事の献立にいたるまで克明に書き綴った驚くべき日記である。昭和十三年五月、この記録は『牡鹿寒風山麓農民日録』として、アチック・ミュージアムから出版された。

 学問的興味だけではこういう日記をつくることはできない。人に頼まれたというだけでも、これだけ一貫した熱意が生れるとは思えない。吉田さんと父の間に、野心を越えて心と生活に密着した関係があったから、こういうきわめて特殊な業績が生れたのだと思う。父は自分の学問的野心から、吉田さんにこんなことを頼んだのではなく、やはり相手の魂にふれ、その人格を心から尊重し、その生命のすべてを引き出して世の中のために役立てようと、無私な気持で努力をしたに違いない。吉田さんも父のそういった態度を理解し、共感されてこのような異常な努力をつづけられることとなったのだと思う。それは父の、人に対する態度の基本であったし、研究所は、父を中心としたそういう人間関係の上にようやく本格的な成長をしようとしていた。

 父自身の学問の内容については、私は全くわからない。しかし昔から父の話を聞いていて、その基本となるアイディアは、きわめて常識的な、誰にでも理解できるものであることを感じていた。専門家でなければ解らないようなむづかしい話はむしろ少なかった。

「(自分は)何でも問題に取り上げるたちであった。」と、父は後になって言っているが、(東洋大学学位号答辞)その取り上げ方がまことに自然でけれんがなかった。そう言われて見ればごく当り前でありながら、しかもたくさんの人が気ずかずにいたことを取り上げる。そして誠実な態度でこれを追求するというやり方だった。

 たとえば魚名の研究である。このごろでは金魚や錦鯉をアメリカに輸出したり、熱帯魚を生きたまま飛行機で南米やアフリカから日本に輸入するというようなことがあたり前になったが、昔は生きた魚を他国から日本に運ぶなどということは、まずできない相談であった。したがって魚だけは日本の物産のうちで、もっとも純粋に日本的であり、魚の名前には外来語というものがきわめて少ない。言葉という意味でも、もっとも古い形をそのまま伝えている。だからこれを徹底的に研究すれば、言語学的にも、魚の流通という面でも面白いに違いないという話だったと思うが、その意味は、中学生の私にもほぼわかって、「それは大きに面白かろう」と考えたものである。

 父は、昭和十二年一月元旦にこの魚名の整理研究を始めて、それから二年間、朝六時半から八時半に至る二時間のあいだ、毎日欠かさず勉強をつづけた。きわめて煩瑣な資料の収集、検討を終って、この資料は昭和十七年から十八年にかけ『魚名集覧』として発表された。戦後この本は、『魚名の研究』として再刊された。

 延喜式の研究などというものもあった。神饌その他として延喜式に出てくる魚名を調べているうちに、父は、当時の給与の実体とか、道具のつくり方、流通機構の説明など、延喜式に現われた記述の正確さに驚き、ひじょうな興味を持つようになった。

「紫式部も清少納言もきれいな十二単衣を着ていたかもしれないが、食べ物は塩鮭ばかり食べていたに違いない。」

 ちょうどそのころ私の母は、親類や友だちの奥さんたちと一緒に小林栄子さんという女流国文学者にきていただいて、毎週「源氏物語」や「枕草紙」などを研究していた。だから父はよく食卓で、延喜式から察せられる平安朝の生活の実体について話してくれた。

 延喜式博物館をつくりたいというのが父の希望だった。延喜式の記録に基ずいて、当時の儀式や生活の用具などを再現しようというのである。

「馬の鞍をつくるにはどれほどの鉄と木と人員が要る。紅をつくる為には紅花、灰、薪木等の調合と入用見積りがある。鉄の値段が距離に従って異っている。農作物のこと、肥料のこと、それから繊維製品のこと、焼物のこと、運輸のことなど皆くわしく書いてあり、しかも数量的に相当わかるように書いてある。それが実際行なわれているかどうか知りませぬが千年も前にあれだけ細かく書いたものが日本にあるということはひじょうな驚異ではないかというふうに私は最近感じたのであります。」(昭和十六年十一月二日社会経済史学会第十一回大会に於ける「所感」より)

 延喜式について父は、
「式内魚名の研究」
「式内水産物需給試考」
「延喜式内水産神饌に関する考察若干」
「延喜式内技術史的資料若干例について」

 などかなりの労作を発表し、いずれも戦中戦後を通じて刊行されている。

 昭和六年の冬、糖尿病になって入院した時にも、父は各地の知己にアンケートを発して、塩についての民俗習慣などを調査している。塩というものの持つ特殊性に、父はかなり前から興味を持っていたらしい。昭和十八年に「塩」と題する論文を発表した。私は高校生だったが、ひじょうな興味を持ってそれを読んだのを記憶している。

 人は塩がなければ生きられない。したがって塩の到達しえないところには、人の住む村を作ることができない。岩塩のない日本では、塩の生産と流通は、人間の生活のパターンを決定する大きな要素となるものだった。塩の補給、運搬の方法や慣習は、経済学的にも、社会民俗学的にもきわめて興味ある研究の対象であった。この論文は、豊富なアイディアとあらゆる可能性に満ちた興味あるものであった。

 そのころの父の勉強ぶりを、宮本常一先生は次のように書いておられる。

「先生(父)は会社や銀行から帰ってこられると、たいてい九時ごろでございますが、それから先生の勉強がすみ、その後私は先生に呼ばれて論争になります。先生がやっと納得して下さるか、また問題を明日に残し、あるいは課題を与えられて、それではこれから寝ようかというのは早い時は一時、遅いときは三時であったのでございます。そしてしかもそれが毎晩つづくので、私などはしまいにはへとへとになったのでありますが、私の記憶しておりますところでは、そういうような議論が二十日ぐらいつづいたことがございます。如何に学問に対する深い情熱をもっておられたかということがわかるのであります。そしてそういう中で、私は失礼なことを先生に申し上げました。たとえば、六国史はひじょうにだいじなものだし六国史を一通り読んでおかないと、日本の上代史はわからないのではなかろうか、というようなことを申しますと、先生は、それでは俺も書物を読もうと、すぐ六国史をとりよせさせまして、私なんかろくに読んでいないうちに、先生の方が読み上げてしまって、それを問題にせられる。むしろ私は先生のそういうご態度に教えられるところが多かったのでございます。」(昭和三十八年十一月二十八日東洋大学に於ける追悼講演会より)


 父はまれに見るアイディアの豊富な人であった。それも単なる思いつきではなく、体系と基盤にもとづいて、ひとつひとつのアイディアが無限の可能性を持っているように見えた。

 しかしアイディアだけでは学問にならないことを父は知っていた。アイディアが正しく育つような土壌をつくり、適当な環境を整えることが必要である。それだけではない。自分のアイディアだけではなく、他の人のアイディアも一緒に育って行くような配慮が必要である。一匹狼では本当の仕事はできない。正しい意味での共同作業の中に学問の最も大きな可能性があると父は考えていた。

 父が「アチック」に求めていたものは、単なる学問的業績を製造する工場ではなかった。父が目ざしたものはいわば新しい社会の建設であった。新しい人間関係、そして新しい社会をつくらなければ、新しい学問は育つことができないと父は信じていた。

「何を自分はアチックに見出さんとしつつあるか、人格的に平等にしてしかも職業に、専攻に、性格に相異った人たちの力が仲良き一群として働く時、その総和が数学的以上の価値を示す喜びを皆で共に味わいたい。チームワークのハーモニアス・デヴェロープメントだ。自分の待望は実にこれであった。アチックを研究所のみにしないのも、また単なる座談会にしないのも、また更にテクノクラシー的な効果のみを追わないのも畢竟その所以はここにある。」(アチック・マンスリー昭和十年七月二十日号)

 人が仲良く一緒に仕事をすることができなければ、本当の仕事、とくに新しい仕事は決して成長させることはできない。父は学問を考えるとき、その内容と同じくらい研究者間の人の和ということを大切に考えていた。

「アチックに自惚《うぬぼれ》は禁物だ。独善と自尊、妥協と協調、謙譲と卑屈、これらの混同は、アチック社会には見出せないはずである。………アチック同人は、アチック社会を各自が生態学的見地において批判することを要する。自己反省は正しき成長の決定的ホルモンである。」(アチック・マンスリー昭和十一年十二月号)

 既成の学問の場にとかく人の和のないことを、父はよく悲しんでいた。そしてアチックがそういった新しい融合の秘訣を備えた、新しい形の学問の集団であることを父は期待していた。それはいわば前人未踏の道であった。今まで父が試みたような形で、学問をしようとしたものはなかった。それだけに父は責任の重さを常に感じていた。

「民具の蒐集も悪いことではない。漁業史の研究も良いことだ。文献索引、其他の出版も不都合なことではない。しかし自分は時どき思う。有為の若い人びとにこんなに集まっていただいて、しかも自分自身が暗中模索的態度しか取り得なくて果してよいのだろうか。人を一緒にして却って一人一人の力を弱めてはいないだろうか。アチックの存在がたとえそれ自身が独自であるとしても、しかも自分の意志が多分の力を加えていることは否めない。これを想い、かつこの意志が多くの人びとの運命をして、不当な歪みさえ受けしめているのではなかろうかと考える時、慄然たらざるを得ない。」(アチック・マンスリー昭和十年七月二十日号)

 当時父が書き残した文章を見ると、新しいアイディアが止まるところなくつぎつぎと浮んできているのを見ることができる。自分独自の考え方やプランが、心の中でどんどんと育って行く。自分はたしかに正しい鉱脈を掘り当てたというはっきりした自覚が躍動している。しかしその反面、常に不安を感じている。責任者として未知の道を歩くものの常に持つ不安である。

 大学の研究室や会社に入って専任教授や上役の責任において仕事を進めるのとは、その性質が違っている。未知の道を切り拓いて行くためには、全人格が必要である。そこでは自分がファイナルである。自分の仕事の成否が、ひいては自分を信じてついてくる人たちの運命を左右し、さらに自分が任せられている仕事の成否をもきめてしまうことになる。

 こうした反省は、父の人生をより深いものにした。自分の全責任で人を引張って動いてみると、今まで知らなかった人生の深い姿が見えてくる。そのことは、父の銀行業にも直接役に立つことであったに違いない。銀行は前にも述べたように、父の本当の興味ではなかった。しかし父の人間的成長は、そのまま銀行のプラスになった。また銀行業を通して得る実社会、経済社会の知識、感覚は、そのまま学問の面で有形無形に役に立った。

 銀行も学問もともに人間の営みである。「学問と実業とを二つに分けて考えることがむしろ間違いで、人間はもとは一つだと思う。ですから学者だとか実業家だとか新聞人だとか言って、概念的に固定さして人を見る方が間違っているんじゃないですか」(NHKテレビ『昭和財政史』より)

 全人格を投入して行けば何をやっても畢竟は同じである。そしてこれからの社会は、そういう意味での綜合をひじょうに必要としているし、その方向に向って発展して行くに違いない。父はその人生を通じて、身をもってそういった新しい社会生活の可能性を示そうとしたと言っても間違いではないと思う。


 昭和十七年三月、父は日銀副総裁に任命されることになった。前年の十二月、大東亜戦争開戦の直後、第一銀行の副頭取に就任したばかりの父にとっては、寝耳に水の交渉だった。

 当時、臨戦体勢の確立のため、各業界に統制会がつくられ、経済界の統制、併合がさかんに行なわれていた。金融界でも第一銀行と三井銀行を合併したり、三菱銀行が第百銀行を吸収したり、その他いろいろの計画があった。その折衝を円滑に行なわせる目的で、民間人から日銀副総裁を起用するという方針が立てられた。ちょうど当時の山内副総裁の病気退任を機会に、父に白羽の矢が立ったものである。賀屋大蔵大臣の懇請があり、その背後には故池田成彬氏の推薦があったということである。

 父はもちろんお断わりしたし、「跡取り息子を養子に取られる」ような形となる第一銀行も猛烈に反対したが、何分にも軍国主義華やかな時代のこととて、「サーベルをガチャガチャいわされた」結果三月十日ついに受諾と決定した。

 父にとってこれは全く「已むを得ざる」仕儀であった。栄一との縁もあり、住み慣れた第一銀行を去ることも気に染まなかった。日銀などに行く野心はもちろんさらになかった。しかしこの時を境にして、父の運命は否応なしに変って行く。一銀行業者としての父ではなく、好むと好まざるとにかかわらず、金融界の代表者としての立場に立たされることとなった。それはある意味では戦争の犠牲であったかもしれない。しかし一度これを受け入れてからは、父は無益な抵抗をしようとはしなかった。与えられた運命を甘受し、「面白くは思わなかったが」誠実な気持で新しい環境に順応し、その義務を果そうと努力した。


 父はその学問的業績に対して三回表彰されている。第一回は、昭和十六年、日本農学会から農学賞をいただいた時である。これは『豆州内浦漁民史料』の編纂に対して与えられたものであった。私はちょうど高等学校に入ったころだったと思うが、日ごろ外部のことは家庭ではほとんどしゃべらない父が、そのことはたいへん喜んで、しばしば食卓の話題にしたのを覚えている。

 第二回は、もう死期も迫った昭和三十八年一月、朝日賞をいただいた時であった。この時は私も同行して表彰式に出かけて行った。押しいただくようにして村山社長から表彰状を受取った父の姿、そして、ほんの一、二分にしてほしいという新聞社の要望に対して、本当に正直に一分間だけ述べたその答辞を、私はきのうのことのように覚えている。

「この栄誉は私がいただくべきものではなく、私どもと一緒に学問をされた多くの方がた、そして全国の農民や漁民の方がたのご努力を代表して、私に下さったものだと心得ております。」

 父は目に涙をいっぱいためて、しかし強い口調で言った。父は本当に嬉しかったのだ。そして手ばなしに喜んでいる父を見て私も涙が出た。死んで行く父には何よりのはなむけを下さったと思って、私は朝日新聞社のご厚意に心から感謝している。

 第三回は、東洋大学から名誉博士の称号をいただいた時だった。昭和三十八年六月、この日も私がついて行った。もう一人では立っているのも危いほどの容態だったが、東洋大学のご厚意を子供のように喜んでいるのを、私は傍らで感じていた。

 朝日賞の時はほかに受賞者も多くて、少し晴れがましすぎる気配もあったが、この日は父だけの受賞であり、病状を斟酌して、大学側もとくに非公式に運んで下さったので、父も楽な気持で祝賀会に出て、長年お世話になったみな様と時間をすごすことができ、本当に嬉しそうだった。

 この日が父の最後の外出になったのである。


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