渋沢敬三の伝記

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父・渋沢敬三 〔6〕 / 渋沢雅英

渋沢雅英著『父・渋沢敬三』(実業之日本社, 1966.10) p.108-130掲載
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第六章 父と子

 戦後しばらくの間、私は何の目的もなく、まったく無軌道な生活をつづけていた。占領下の東京では見るもの聞くものすべてが癪にさわったし、新円切換え以後はお金もほとんどなくなり、すべてが投げやりでめんどうくさく、虚無的になって、人間の営みには結局何の意味もないとしか思えなかった。夕暮になると、街の灯が恋しく、ふらふらと出かけては大酒を飲んだ。お金がなくなると父の書斎に忍びこんでお金を盗み出したりもした。適当なところでこの世を去る算段をしようなどと、大まじめで考えていた。生れてきたことが心から悔まれた。頼みもしないのになぜ生んでくれたのかと、心の中ではいつも両親に食ってかかっていた。そのくせお金のことそのほかのことで父にはいつも迷惑をかけた。

 父もそうした私のことをずいぶん心配していた。しかし、父じしんも私に与えるべき心の余裕と糧をあまりもっていなかった。まだ五十そこそこだったが、それは父の人生でもっとも暗い日々だったのではなかったかと思う。追放とか貧乏とかいうものは苦にしなかったけれど、すさみきった世の中の風は、母のいない家の中に遠慮なく吹きこんでいた。家庭は崩壊し、将来の見通しは全くなかった。

 昭和二十三年、私はいまの妻に出会い、結婚しようかと思い始めた。それは自分でも思いがけない考えだった。大学もそっちのけにしてアルバイトをしたり、遊び歩いていた私にとって他人の一生に責任をもつなどということは縁のない話のようだった。父は何も言わなかった。反対もしなかったけれど、とくに積極的に応援するというのでもなかった。

 結婚をするためには生活を固めなければならない。私は至急大学を卒業して就職をすることにした。父に頼めばどこかに紹介してくれるかもしれなかったが、父はそういうことを喜ばないことがわかっていたので、友人や先輩の厚意にすがって、自分で或る貿易会社に入ることにした。始めのうちは様子がよくわからなかったが、やがて商売を面白いと思うようになった。会社員として社会との関係もでき、だんだんと気持も落着いてきた。もういいだろうということで昭和二十六年の四月に結婚した。

「俺に頼まないで就職してくれたのはまったく有難い。何よりの親孝行だ。」と父はよく言った。父がそういう気持でいることは知っていたが、私の方はむしろもっと干渉してもらいたいような気もしていた。「そっちはあまり子供孝行じゃありませんね。」というような言葉が口の端まで出かかることがあった。

 父と私との関係が一番冷たかったのはそのころだったと思う。物資はまだ不足していたし、占領軍は威張っていて、この国には楽しいこと、ということはなにひとつ望めないかのような索莫たる時代であった。もしあの頃に私たちの家庭生活が曲りなりにも存続していて、家の中だけにでも少しは暖かいものが残っていたならば、私の一生も、また妹たちの運命も変った方向をたどっていたかもしれない。父がそんな気持なら私も父の世話などにはならないといった意地で私は就職した。当時の父はドライで冷たい感じがした。妹たちも形は違っていたが同じようにそれを感じていたと思う。したがって当時のわれわれの心はどちらかと言えば母の側にあった。今にして思えば、父も人に言えない寂寥の中で生きていたのだろうと思う。


 私が結婚すると、父はもとの研究所を改造してそこに移った。生活はまだいっこう楽にはならなかったが「ニコボツ」の象徴だった崖下の茅屋から見れば、いくらか昇格したといってよい。私は住宅金融公庫から金を借りて、そのかたわらの空地に十七坪の家を建てて、新婚生活をはじめた。

 この年、追放が解除になると父の身辺もいくらかにぎやかになった。いくつかの会社の役員になったり、貯蓄増強中央委員会の委員長を引き受けたり、鉄道会館、文化放送などいくつかの会社とかなり深い関係ができたりした。轟夕起子さんと一緒に「ママの独り言」という映画に出演したのもこのころのことである。たしか貯蓄増強に関する映画だったと思う。

 昔の研究所の人たちはそれぞれ就職して、今では独立して学問の道を歩き始めていた。そのうちの多くの方がつぎつぎと学位をとられ、そのたびに父はひじょうに喜んだ。「人をつくり、本をつくった。有難いことだ。」と、父はよく言っていた。博士の数は十三人にものぼった。そのほかにも戦後、人類学、言語学など六つの学会が連合して共同研究をするというようなプランができ、父は長い間その会長を勤めた。六学会はやがて九学会になり、対馬や能登などの共同調査をしたり、ユニークな業績を残した。

 一方、漁業史の研究や古文書などの整理は、戦後、水産庁が積極的に推進するようになって、父の研究所から人も資料もそちらに移って仕事がつづけられることになった。不世出の天才南方熊楠氏の多岐にわたる業績に感動し、ミナカタ・ソサエティをつくり、全集の出版に努力したのもこのころであった。

 しかし、父じしんの経済的条件は昔とはまったく変ってしまったから、自分で人を集めて研究するということはもうできなかった。いきおい父の活動は、戦前やったことの整理を主とし、のちにはわずかながら出版もつづけられるようになり、人をおけぬ研究所をインビジブル・インスティテュートとよんだ。むろん人の世話はできるだけした。

 昭和二十七年の春、娘の田鶴子が生れた。父にとっては最初の孫だった。長い間、落莫たる生活をつづけてきた私たち家族もいくらか落着きを取りもどし始めた。その年の夏、父はMRA世界大会に出席するために、戦後初めて外遊した。五月二十九日に東京を発って、八月十二日に帰国するまで、二カ月余りにわたってアメリカ、ヨーロッパ、ギリシャから東南アジアを廻って、戦後の世界の姿をつぶさに見聞してきた。大正いらい初めての外遊であり、とくに戦争による長いブランクの後だけに、ずいぶんいろいろなものを見、学び、考えてきたようであった。

 マキノ島のMRA大会では、フランク・ブックマン博士に会った。握手をしたときのブックマン博士の手のやわらかさがとくに印象的で、昔会った汪兆銘さんの手を思い浮べたという。そして父は博士の中に「日本人」のあることを見つけた。おそらくドイツ人、フランス人、タイ人も、博士の中にそれぞれ自国の人のイメージを見つけているのだろうと考えた。「世界は広い。たいした人がいるものだ。」と感心していた。

 帰国してから、父はNHKの「人生手帳」というラジオ放送に出て、「忘れられた要素」という題で、MRA大会について話をしている。

「私自身まったくびっくりしたことが二つあります。その一つは私が日本人であるということを特に意識したり、力んだりする必要がないほど全体がなごやかで融和していたこと、すなわちこれは取りも直さず、私を日本人として特に心を配らないでもいられるほどの心的状態にあったことであります。もう一つは、こうした状態を現出せしめている心の持ち方が、ブックマン博士の唱えておられる考え方によって指導され、各人その変化の度合には深い、浅い、強い、弱いの差はあったにしても、皆、過去のものの考え方から見ると今まで気のつかなかった変化をきたしていることでした。

 MRAは宗教ではありません。MRAは次のことをわれわれに要求しているだけであります。十全な正直、十全な愛、十全な無私、十全な純潔。この四大基準で我と我身を照らし反省し、己の性情を変化させ、この四大基準に近づくよう努力することであります。私自身のことを申して恐縮ですが、以上の四つのスタンダード、いずれも落第でありますが、その中でわけて私の心臓を突いたのは純潔という言葉でした。長い戦争で心が荒み、すっかり忘れていた虚をつかれたような気がいたしたことを白状いたします。」


 昭和二十九年には私の長男雅明が生れ、翌年には佐々木の家で長女の由美子ができて、孫の数も三人にふえた。雅明という名前は父の命名である。

 昭和三十年の八月、吉田秀雄さんに招かれて電通主催の夏季大学で講演をした。「日本広告史小考」と題して、かなりよく勉強し、準備したユニークな論文である。その例証の広さ、深さ、それにもとずいた着想の面白さに、「広告の鬼」といわれた吉田さんも大へん驚かれ、いらいなにかにつけて父は広告業界の仕事に招かれることになった。広告電通賞の委員長になったのも、ABCの会長になったのもその縁故によるものである。

 昭和三十一年四月、私はロンドンの支店に転勤になった。貿易会社の社員にとって海外の店、とくにロンドン、ニューヨークなどという店は、出世街道としての階段であったから、私は勇躍して日本をあとにした。家族をおいて単身赴任しなければならないのは心残りであったが、一方ロンドンは私の生れたところでもあり、初めての外国旅行にもなにか期待するものがあった。

 ところが思いがけないことに、ロンドンで私はブックマン博士に出会った。四年前に父から話を聞いたころは、とくに心にとめるというほどではなかったが、実際に博士に接してみると、その人格のひじょうな力と考えの雄大さに圧倒されてしまった。ロンドンの生活はいつのまにか私にとって、新しい人生の始まりのような意義をもつようになった。

 戦後、骨の髄にまでくいこんでいた絶望と虚無感が、少しずつうすれていき、深い傷あとに時とともに肉がもり上ってくるように、心の中に拡がっていた冷たい空洞が、新しい力でじょじょにみたされてゆくような感じであった。

 その年の秋、国際商工会議所の所用でヨーロッパを訪れた父は、私に会うためにロンドンまできてくれた。私の中に起った変化を見て父は心から驚いたようであった。べつに人間がよくなったわけでも何でもないが、昔と違って私の心は外に向って開きはじめ、十分ではないにしても自分のことよりも先に他人のことを考えようとしていた。「息子の目の色が変った。」と言って、父はひじょうに喜んで、同行の佐島さんに報告したそうである。


 昭和三十二年の三月に、前から願いを出していた東京転任の話がきまった。ロンドン支店にきてたった一年で帰国するのは、会社に申し訳ないことであったが、私としては自分の人生にたいする考え方、価値の観念がすっかり変ってしまったので、ぜひ東京に帰って家族とも相談の上でこれからの行くべき道をきめたかった。転任がきまって、後任の人もきたころ、フィリッピンのバギオでMRAのアジア大会が開かれることがわかった。私はふたたび会社に願って転任の帰途、二週間の休暇をとり、これに出席することにきめた。

 ロンドンを出発するまえに私は東京の父に電信をうった。フィリッピンに行くようになった事情を説明し、もしできうるならば、妻がフィリッピンにきて、私に会うことができるようにしてもらえたら有難いと頼んだ。妻にはロンドンから何回も手紙を書いて、私の考え方はたびたび伝えてあったし、妻からの返書によると、彼女もそれをかなり理解しているようではあったが、やはり一万マイルを隔てていては、重要な問題になると意志の疎通ははかりにくかった。とくに自分のこれからの人生行路にかんして重大な決意を迫られていたときであったから、東京に帰るまえにたとえ二週間でも妻といっしょに過ごしてよく話し合いたかった。妻にもむろんこの旨を書き送り、また出発前には電信も打った。

 ところがロンドンでも、またアメリカに渡ってからも、父からも妻からもぜんぜん返事をうけとることができなかった。私にはそれがいいことなのか悪いことなのかわからなかった。やむなく予定通り、アメリカ経由フィリッピンへの旅をつづけるほかはなかった。

 ジェット機のなかった当時のこととて太平洋の横断は二晩と丸一日かかった。サンフランシスコを夜出発して翌朝ハワイに着き、さらにウェイク島を経由、グワムで二晩目の夜を迎え、三日目の朝、マニラに着くという段取りであった。南太平洋の空は青くてほとんど黒ずんで見え、いかにも南の空を思わせる入道雲が白く輝いて目にしみた。東に向って太陽を追って行くのでなかなか日が暮れず、金色に輝く太平洋の夕暮の中をあきるほど飛んだ。

 グワム島に到着するころようやく日が落ちた。ここは米国海軍の基地であり、飛行場には軍用機が並んでいた。墨を流したように澄みきった南太平洋の夜空はまさしく満天の星で、遠く南の地平線には、生れてはじめて見る南十字星があかるく輝いていた。

 同じころ、東京の三田の家では珍らしく早く帰宅した父が、居間で一人トランプをしていた。戦後父はふと一人トランプをやり始めて以来、病気がかなり悪くなるまで、暇な時にはあきずにくり返していた。あまり使うのでカードがすり切れて汚なくなったので、妹が新しいのを買って贈ったことがあったが、やはり古くて小さいのが使いやすいらしく、同じトランプを使って同じ遊びを何百回、何千回とくり返していた。時にはお客がこられても気のおけない方の場合には、用談中でもトランプの手を休めないこともあった。精神を集中するのにいいということもあるいはあったかもしれないが、私には、やはりそれは戦後の父の生活の中に根ざしていた淋しさ、退屈、挫折感、手持ちぶさたなどの一つの表現であるように思われた。

 戦前は外でどんなに忙しくしていても、帰ってくればすぐ書斎の人となって時間をすごしていた。日曜など私が隣りの部屋でレコードなどかけていても、ぜんぜんおかまいなく調べものをしたり、本を書いたり、学問をつづけて余念がなかったものである。ところが戦後は昔のような研究所もなくなり、まとまった勉強をするための環境がなくなった。昭和二十八年には国際電電の社長に就任し、外での仕事は日を追って忙しくなってゆくのに、うちでは不思議な無聊を持てあましているようにみえた。

 母がいないことも原因のひとつであった。主婦のいない家は、物理的にも殺風景になるものであるが、それ以上に妻に背かれたという事実が、父の心にだんだんと深く沈んでいくおもりのような効果をもたらしていた。

「やっぱりあれから勇気が出なくなったね。ついためらってしまって、一歩を踏み出そうとする押しがなくなった。」

 病気もまだそれほど悪くなかったころ、ときどき父はこんなふうに述懐した。文句を言ったり、母を憎んだり、荒れ狂って道楽をしたりすることはなかったが、それだけに淋しさは深いようだった。

 ちょうど私がグワム島で南十字星を見ていたころ、一人トランプをしている父のところへ、私の妻が入ってきた。

「お話があるんですけど……」用向きを察した父は、トランプの手を止めず「なんだ」と聞いた。

「フィリッピンに行こうと思いますので、後のことをお願いしたいと思って……」

 妻は単刀直入に切り出した。「行かして下さい」とか「行ってもいいでしょうか」とは聞かず、「行きますからよろしく」と言ったのは、妻も考えたあげくのことだったに違いない。

 ロンドンでMRAに会っていらい、私の生活に大きな変化が起ったことを妻は強く感じていたし、日本に帰る前にフィリッピンで会いたいという私の気持もそのまま理解することができた。しかしはじめのうちはとても行けるはずがないとあきらめていた。当時五つになったばかりの女の子と二つの男の子を放っておいて出かけて行く訳にはどうしてもいかなかった。まだ海外旅行が一般化していなかった日本で、女一人フィリッピンなどに行くと言えば、まわりの人に何と言われるかわからない。げんに私の妹にそれとなく相談してみると、「駄目よそんなの、お父さまがいいっておっしゃるはずがないわ。」と取りあってくれなかった。

 しかし、だからと言ってただそれだけで諦めてしまうのは、心のどこかで許さぬものがあった。周囲の事情が難しいから、お金がないからといって、思い立ったことをいちいち取止めにしていたのでは、大事なことは何一つできない。夫が人生の岐路に立っているというときに、ただみんなが不賛成だから行かれないというだけでは、何か妻の責任がはたされないような気がした。思案をかさねていると、ある朝ふとつぎのような考えが浮んできた。

「きっと私は子供をおいてもフィリッピンに行くことになるだろうと思う。ただ父はむろん反対するだろう。誰にも何も言わず準備だけをしておくこと、いずれ話すべき時がくるだろうから、それまで心と荷物の用意をおこたらないように……。」

 人間には第六感というものがある。ジャンヌ・ダークのような女性は、勇敢にそれにしたがってフランスを救い、歴史を変えた。頭に浮んでくる考えが全部正しいとは限らないかもしれないが、はじめから駄目ときめてかかるのも同じように間違っているかもしれない。妻は行けるものと仮定して旅券を取ったり、予防注射をしたり、衣類その他持って行くものを整えはじめた。二年まえ男の子のお産のとき頼んだ看護婦さんがちょうど暇で、妻の留守には三週間ほど泊り込んでくれることになった。十日ほどのあいだ妻はただ黙々として準備をすすめた。

 やがて日本からフィリッピンの大会に出かける人びとが、明日出発するという日がきた。その朝、きわめてはっきりと「今夜こそ父に話をすべきだ…。」という確信に似たものが浮んできた。恐れと不安に一日が暮れて夜に入ると、当時連日のように宴会で遅くなる父が、その日に限って九時前に帰宅した。車の音を聞きつけると妻は父の家に出かけて行った。

 案の定、父は反対した。今どき夫婦でフィリッピンに行くなどということはわがままである、と父は言った。

「雅英も雅英だ。せっかくロンドンに転任しながら一年で帰してもらうなど、会社にも大へんな迷惑だ。世の中はそんなことでは通らない。どうしても君が行くというならそれは勝手だが後のことは俺は知らない。」と、日ごろ穏やかな父にしてはかなり強硬な意見であった。

 覚悟はしていたけれど女である。妻は泣き出してしまった。

 父はまたトランプを手に取って一人ゲームを始めた。気配を察したのか、家の者は誰も入って来ない。

「恐れることはない。日ごろ思っていること感じていることを全部父に話そう。」やがて強い考えが、泣いている妻の胸にひらめいてきた。妻としては今まで経験したことのない、きわめて冒険的な瞬間だった。父の言う理屈はすべてその通りであったが、しかもフィリッピンに行くという決心はどうしても変らなかった。この世の常識と人間の確信がぶつかる、それは興味深いドラマの一コマであった。

 妻は涙をふいて父に話し始めた。結婚以来どんな気持で暮らしてきたか、渋沢の家にたいして、夫にたいして、また夫がロンドンでMRAに会っていらい何を感じたか、日本の将来、子供の将来についてどう思っているかを話しはじめると、つぎつぎと胸にしまってあった思いが、よどみなく言葉になって口をついて出た。

 父はトランプの手をやめて、嫁の言葉に耳を傾け始めた。不思議な静けさが部屋にみなぎった。妻は思ったことのすべてを言いおわった。行かせて下さいとか、残した子供たちをよろしくお願いしますとか、頼むようなことはなに一つ口にしなかった。ただ自分の確信のあるところを卒直にしかも素直に話した。話しおえるとあまり緊張していたせいか、涙が出てきて妻はまた、嗚咽をはじめた。父は黙っていた。不思議に張りつめた、しかし暖かい静寂のときが流れた。

「君たちがそんなに思いつめているとは知らなかった。」と父は静かに言った。態度も雰囲気もがらりと変っていた。父親として息子が何を考えているか、わからない訳ではなかった。しかし息子が自分のいる世界から離れて行くような気がして心もとなかった。若さにまかせて無分別に飛びこんで行くのも危険だと考えていた。しかも君までそれについて行くのは行きすぎだと思っていた。しかしそれほど考えているなら………、あとのことは心配しないで行ってきたらいいだろう。僕がどうにでもしてやるから。」

 父はいつもの父にかえった。確信は常識を超えた。

「ちょっと待て」と言って父は奥に入ると、大きな旅行カバンを持ってきた。「荷づくりにいるだろう。これを持って行ったらいい。」カバンの中には、大きな粒真珠の入った御木本真珠店の小函が三つ入っていた。「フィリッピンに行ったら、誰かに贈ったらいいだろう。」翌日の飛行機までの車の心配までしてくれる、いつもながらこまかく心を配る父であった。


 その話はひどく私を感動させた。久し振りで会う妻が、急に成長したように思った。バギオはマニラから飛行機で一時間ほどのところにある山間の美しい避暑地であった。私は妻といろいろなことを話し合った結果、帰国したら会社をやめてMRAの仕事に専念する決心をした。父のくれた真珠は韓国の婦人議員、フィリッピンの若い奥さんその他の人に贈られて、日本とアジアをむすぶきずなのひとつになった。

 新しい時代は新しい考え方を必要としている。政治も経済も外交も、そして国民生活の全部が、新しい認識と新しいテーマによって運営されていかなければならない。ブックマン博士によってこの世にもたらされた考え方は、明日の世界へのきわめて具体的な方法を暗示していた。この考え方を現実的な提案として、日本の国に与えるために、誰かが本気で努力しなければならないと私は考えた。

 久しぶりで見る日本は、一年前とくらべて成長し落着きを取りもどしたように見えた。私の留守中、父は還暦を迎え、学会では還暦記念論文集なども計画されていた。また父を中心として三田の家で生活したことのある人びとが集まって『柏葉拾遺』という写真集を出版し、父に贈った。編集は父じしんによるものであるが、明治いらい昭和三十一年までの、渋沢の家族を中心とした写真五百枚に、解説をつけて印刷したものである。個人的な記録ではあるが、家族の足跡を中心として、変転する日本の歴史、風俗史をたどるような趣きもある珍らしい本であった。巻末には明治四十二年中学の修学旅行からはじまって、数限りない父の旅行について、行程、時間、同行者、宿泊などを記した尨大な旅譜がついている。また三田の家にいた書生さん、女中さんがそれぞれいつ来ていつ帰ったかなどまで詳しく書いてあって、いかにも父らしい克明さと心の暖かさを感じさせた。

 当然予想したことではあったが、父は私の計画に反対した。考え方は結構だが、なぜ君がそこまでやらなければならないのか、会社や世の中への義理も考えなければいけないと言った。私を押えつけようとはしなかったし、言葉も穏やかだったが、肝心なところではなかなかゆずろうとはしなかった。

 いつもは外部の人に自分の家族のことなどは話さない父であったが、このことはいろいろな方がたに相談したものとみえて、各方面から電話がかかったり、呼び出しを受けたりした。日銀の山際総裁、第一銀行の酒井頭取などからも思いとどまるよう、ていねいなおすすめを受けた。

 私は進退きわまった。子供も可愛いかったし、この子たちを路頭に迷わせることになったらと思うと、魂がつぶれるほどつらかった。しかし自分の運命を裏切ることもできなかった。

 四月十九日、父は約一ヵ月の予定でヨーロッパに出発した。ナポリで開かれた国際商工会議に出席のためだった。出発の前に二人で食事をした。長い時間父は何も言わなかった。私もいまさら言うこともなかった。最後に、「とにかく僕が帰ってくるまでははっきりきめないでおいてもらいたい。帰ったらまた相談したいから。」とほとんど頼むように言った。

「わかりました。お待ちしています。」と言って私は空港に父を見送った。

 その日はたまたま、キリストが二千年前に死んだとされている日だった。私はキリスト教徒ではない。しかしキリストの死に象徴された人生の真実は、少しずつわかってくるような気がしていた。時代や国境を越えてひろがる神の意志と、人間の目先の欲望や計画とがぶつかり合ったとき、人間が自分を無にして運命の声に従う……そこに十字架という観念が生れたのだと聞いている。飛行場のレストランで友人とそんな話をしているとき、ふともうここまできたら自分のコントロールをはなして、運命にまかせてしまうほかはないことを強く感じた。理屈を言えばきりがない。人間の決心にはタイミングがあり、十分考えぬいたすえには「断」の一字しかなかった。

 その足ですぐ会社に行った。そして「やめさせて下さい。これが最終的な決心です。」と申し入れた。恐れで心が痛んだ。父との約束を破ったこともつらかった。しかし、この場合これでいいのだという何物かにまかせきった不思議な自由が、心のどこかで育ちはじめている自分をも感じた。さっそくイタリーの父に手紙を書いた。

「親不孝の罪はいくえにもお許し下さい。社会の恩義を裏切ることの天罰も恐しく思います。しかし『たとえ法然上人と阿弥陀様にだまされて地獄に落ちてもしかたがない』と言って、革命の道にのり出した人もあったと記憶しています。自分の運命にだまされて野たれ死をしてもこの場合やむをえないのだと覚悟しております。『千万人といえども我行かん』と言った昔の人の気持ちがはじめて実感として感じられます。」

 帰ってきた父は出発のまえとはまったく変っていた。

「それほどの固い決心をしているならおおいにやったらよかろう。」と言って私を激励し支持してくれた。

 私の人生のこのような変化は、父にとっても思いがけないことであった。昔、栄一が埼玉の家を出て、勤皇浪士の仲間入りをし、国事に奔走するといい出したとき、栄一の父ははじめ極力とめたそうである。しかし息子の決心の固いのを見てついにこれを許したという話がある。そのとき栄一の父が「今のいままで孝行というものは子が親にするものだと思っていたが、今日の話で親が子にさせなければならないものだということを悟った。」と述懐したという。父はよくその話をした。

 私の決心の背後にあった歴史の流れとその仕事の意義を、父は私以上にふかく感じていたようである。栄一とちがって親孝行などは真似ごともできない未熟な息子ではあったが、父はそういう私をよく信頼して、それからは、しばしば思いがけないようなやり方で激励してくれたし、また親身になって私の仕事を助けてくれた。


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