渋沢敬三の伝記

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父・渋沢敬三 〔1〕 / 渋沢雅英

渋沢雅英著『父・渋沢敬三』(実業之日本社, 1966.10) p.3-23掲載
< 目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | あとがき >

第一章 死に到る病

 昭和三十五年十月末、父渋沢敬三は九州を旅行中、熊本で発作を起して倒れた。高血圧、心臓障害に加えて腎臓もかなり侵されていることがわかった。絶対安静のまま東京に運ばれ、東大の冲中内科に入院した。日ごろ丈夫で、ほとんど病気らしい病気をしたこともなかった父にとって、この発病は精神的にも肉体的にもかなりのショックであった。

「始めの内は気負ってしまってなかなか落着かなかった。病気であること自体に違和感を感じてつい高ぶってくるんだ。さすがにこのごろは諦めたがね。」

 一年くらい経ってから、父はそんなことを言って、当時のことを語っていた。

 二ヵ月あまりの入院の後、一月十八日に予定された次女黎子の結婚式の直前、ひとまず退院した。「保釈だよ」と父は言った。

「生きた人が生きた人を思い通りに動かすことすらむづかしいのに、まして死んだ人が生きた人を自分の意志通りにする遺言書なんて大それたことを茲で考えているのではない。」

これは死後父の机の引出しの中から発見した「希望書」と題する文章の冒頭である。

「それでもかくもあり得たらといったはかない希望を述べて、自分の死後、残った人々の誠実な心で、その線にそって物事が考えられたり、動いてもそれが道理にはづれない限りありがたいことと思う。併し相続税だの他の法制から、希望そのものに無理があってできぬ場合もある故、自分としては強くお願いはしない。ただこんなことを考えていたことを明確に知っていただけば、幸甚この上もない。
 今度の病気も発見こそ最近の昨年十月末だが、長い間の健康不管理に原因しているもので、根本は腎臓らしい。三十年前の医学は糖尿病は膵臓病で、腎臓には無関係とたしかに教わっていたのを、最近の医学をトレースしなかった自分に全くの落度があって、つい不問に付したのはいけなかった。
 冲中先生は最初腎臓の三割ぐらいやられていると言われたが、その後の経過を見ると、これには気休めの親切が入っていたらしい。悪い部分はもっとずっと多くて、それは回復しないから、かなり用心して生活しても、ここ二、三年も経つと尿毒症状を呈するかもしれない。そして死の転機を取る。これは已む〔己むを訂正〕を得ない。ただ、今願いたいのは、どんな死の病床でもあまり苦しませず、かまわずナルコチカを用いていただきたい.生の一寸のばしくらい本人に苦痛はないと思う。(万一回復する見込みのある病気は別である。)
 そこで死後の希望を頭がおかしくならぬ内に、二、三書きとめてご参考にしたいのである。」

 この後、こまかい希望条項が二、三認められていて、「以上昭和三十六年一月二十四日、午前六時半」と書いてある。かなり長文のものであるから、おそらく三時か四時ごろに起き出して書きとめたものと思われる。

 以来、容態は一進一退したが、父自身の判断したとおり、全体としては腎臓の機能はゆっくりと確実に衰えて行く様子だった。小康を得て会社に出たり、宴会などにも行った時期もあったが、数カ月とつづかず、また数週間、時には一月余も入院し、退院すると、またぼつぼつ無理を押して出て行くというようなことを繰返した。

「無理をして動きまわれば早く死ぬ。しかしじっと家で寝てばかりいれば、今から死んでいるのと同じじゃないか、いったいどちらがいいのかね。なかなかむづかしいよ。」

 冗談めかしてはいたが、父にとってそれは深刻な選択だった。何もしないで寝ているのは死んでいることと同じだという感じはかなり強かったようで、いよいよ病気が悪くなったころ、見舞いにこられた方に事情をお話してなるべく会わないでいただこうとすると.父は病室からそれを聞いていて、「ぜひ会いたい。人に会わずに生きているなら生きている価値はない。」と強く主張した。


 昭和三十八年の夏、私は先輩であるピーター・ハワード氏の招きに応じて、家族づれで一ヵ月半ほど英国に出かけることになった。父の容態は特に良くも悪くもなく家でぶらぶらしていたが、相談に行くと「それはぜひ行ってこい。子供たちにもまたとない機会だ。」とひどく乗り気ですすめてくれるので、思い切って出かけることにした。

 その夏はばかに暑い夏だった。涼しいところに転地をしてほしいとみんなが思ったが、医者と離れるのも心もとないので東京にとどまることになった。せめて冷房でもと思ったが、本人が嫌だとがんばるのでそれもできず、父は暑いのをじっと我慢していた。それがたたったのか、八月も終りに近いある朝、東京からロンドンにいた私に電話がかかってきた。

 一万マイルも離れた地球の反対側から、義弟の佐々木繁弥君の声がかなりはっきりと「父の容態が悪いので虎の門病院に入った。」と伝えてきた。「英国へは知らせるなと本人は言うが、心臓も弱っている様子だし、あまり楽観もできないのでとにかく知らせるが、帰国するかどうかはそちらの判断に任せる。」ということだった。

 予期していたことではあったが、私は少なからず動揺した。妻や友人と相談の上、家族は直ちに北極回りで帰し、私は友人のガンジー氏とぜひ打ち合わせなければならないことがあったので、単身南回りでニューデリーに寄って行くことにした。

 その夏は何かとことの多い夏だった。ロンドンでは有名なプロヒューモ事件の公判が行なわれていた。クリスティン・キーラー嬢を始め、ステファン・ウォード博士という奇怪なマッサージ師に操られていたという沢山のホステスやコールガールが、つぎつぎに法廷に喚問されて、政界、財界の指導者たちの変態的な私生活について、つぎつぎと猟奇的、煽情的な証言をするので、英国は上を下への大騒ぎであった、現職の陸軍大臣がコールガールと関係し、機密を漏洩して職を追われるなど、前代未聞の事件で、英国という国が底の底まで腐っているという印象が強かった。固唾をのんで裁判の結果を見守る国民を愚弄するかのように、ウォード博士が獄中で服毒自殺をしたり、ラクマンという稀代の詐欺師が現われて、奇想天外な手段で法網をくぐって巨万の富をつくったり、すべてが末期的な症状だった。

 七月にはフルシチョフ首相とケネディ大統領の間に部分核停条約が結ばれ、前からくすぶっていた中ソ分裂にいよいよ拍車をかけることになった。一方、ヨーロッパではこの条約は二人のK、すなわち「米国とソ連」が、世界を分担支配する前兆だというように受取られ、フランスの不参加をめぐって両陣営の分極化が、ますます促進される形勢にあった。

 ベトナムでは仏教僧の焼身自殺が相ついで起り、全世界の新聞紙面をにぎわしていた。ゴ・ディエム政権とこれを倒そうとする勢力との確執攻防はようやく勢いを増し、米国までがディエム政権を見離す形となって、さなきだにゲリラ戦に苦しむベトナムは、いよいよ破局的様相を深めていた。

「座席ベルトをお締め下さい」というステュワデスの声に、窮屈な機上のうたたねから覚めると、窓の外には密雲がたれこめ、エンジンが不気味な音を立て、機体は大きく揺れていた。ニューデリー到着予定の午前六時はとっくにすぎて、もう十二時近かった。明け方に一度上空まできたのだが、雷雨がはげしくて着陸が危険なので、BOAC機は空しく西に旋回してパキスタンのカラチに着陸した。この飛行場で二時間ほど待たされている間に、朝食を食べた。蒸し暑い雨もようの朝、ターバン姿ではだしのボーイが無表情に、オートミールにハムエッグという英国式の朝食をサーヴしている。目的地を前にしながら、貴重な一日がどんどんすぎて行くと思うといらだたしい。こうなると一人旅は所在なく、父の容態への心配が胸に重くかぶさってくる。

「天候はいくらか回復した様子なので、今から着陸を試みるが今度もうまく行かないようなら、ニューデリーは諦めてカルカッタに行くことにする。」

 今度はステュワデスではなく、機長自からのアナウンスがあった。カルカッタなどに行ってはその日の内にニューデリーに着くことは不可能である それではせっかく南回りにした甲斐がなくなってしまう。何とか着陸できるように願っていると、コメット機はジェットエンジンをフルに作動させ、すごい音を立てながらひじょうなスピードでうす黒い密雲の中に突っこんで行く。一回目はうまく行かず再び急上昇する。乗り慣れた飛行機ではあったが、この調子では父よりも先に、私が死んでしまうのではないかという恐れが心をかすめる。大きい機体をきしませて密雲の中でもがいているコメット機が、死を前にして、病床で苦しんでいる父の運命を象徴しているような気がした。

 幸い三回目かの試みに成功し、飛行機はお昼少しすぎにニューデリーに着陸した。空には雨上りの雲が矢のように飛んでいた。夜来の豪雨でアスファルトの道も緑の木々も濡れて光っていた。朝早くから飛行場で待っていてくれた出迎えの人々と一緒に、友人のガンジー氏を訪ねた。彼はちょうど祖父のマハトマ・ガンジー翁の故知にならって、インド全国にわたる大行進を計画していた。ケララからマドラス、カルカッタを通ってニューデリーに到る四千五百マイルの大行進。「清潔で融合して強力なインドをつくる」というスローガンをかかげ、それはきわめて野心的な企画であった。

 ニューデリーの動物園には世にも珍らしい白色の虎がいるといううわさを聞いていたので、病床の父への土産話にもと夕方暇をみつけて出かけてみた。動物に造詣の深い父は、旅行をすると必ず動物園、水族館を訪れることを楽しみにしていた。

 古いムガール王朝時代の城郭の中につくられたこの動物園は、ばかに広々としていた。雷雲がまだ去らないと見えて、時々訪れる驟雨に園内はところどころ大きな池のような水溜りになっていた。問題の虎は格別獰猛なのか、特に厳重に二重になった大きい檻に入れられていた。なるほどめずらしい虎だった。普通の虎の黄色い縞の部分が白くて縞馬のようだった。雌雄ともひときわ大きく檻の中をぐるぐる回りながら、牙をむいて外にいる番人に吠えかかっていた。あるマハラジャ(インドの土侯)がもっていたが、金に困って外国の動物園に売ろうとしていたのを、その稀少価値を惜しんでインド政府が買い取ったものだという。


 虎ノ門病院の四階の一室で、帰ってきた家族を父は喜んで迎えてくれた。夏前よりは目立って衰弱し、孫たちと握手する手の甲がかなりむくんでいた。足などもすっかり細くなってしまって、皮膚にもつやがない。幸い、今日、明日を争う病状ではなかったが、よほどの奇蹟でも起らない限り再起できないことは一目でわかった。

 私は毎日欠かさず病院に行った。ほかに役に立つことは何もしてやることはできない。せめてもと思って休むことなく出かけて行った。ちょうど若い人たちが小田原のMRA・アジア・センターに集まり、合宿研修のようなことをしていたので、いきおい小田原と東京の間を毎日往復することになった。小田急の車窓には稲の穂が金色に波打っていた。車中のスピーカーからきまって流れてくるいくつかの歌のメロディーが、今でも悲しく耳に残っている。

 九月半ばごろ、父は、最後の出版物となった写真集『瞬間の累積』のあとがきを録音テープに吹き込んだ。すでにかなり息が苦しく、短い文章だが、途中何回も休んでやっとのこと吹き込みを終った。

 この本は、祖父渋沢篤二が、明治二十六年から四十三年まで、十八年間に撮っためずらしい写真五百五十枚を、複製出版したものだった。篤二は写真家としてよほど才能のある人だったらしく、その作品は、日本のルポルタージュ写真の草分けともいうべきもので、国内はもとより当時のヨーロッパ各国のスナップ写真など、面白いものが沢山あった。とかく薄幸だった篤二と母敦子に対して、その生前にたいしたこともしてやれなかったのをいたんで、父は三十三回忌の記念にこの出版を思い立ったものである。

 短かい中に父母への孝養の意を尽したあとがきの文章は、苦しい息の下で吹き込んだものとは思えない潤いと情愛に富んだ名文である。最後のところで「篤信院閑林自照大居士」という篤二の戒名にふれて、自分は戒名というのはあまり好きではないが、「この閑林自照、まばらな林を自ら照らしているという文句は、何だか父の気持を出しているようで、この戒名だけは気に入っています。」と言っているあたり、すでにこの世のものではない美しさを感ずるのは私だけであろうか。

 父の死後、生前お世話になった方々にこの本を記念に差し上げた。多くの方からお手紙を頂いたが、中に佐々木茂索さんからのおハガキには、「実に好箇の記念を残されたものと敬服に堪えません。あとがきは録音ということですが、大へんな名文と拝読いたしました。たった三頁ですが千頁の長編になりうるものを蔵しているからであります。」とあった。うかつな私は、そう言われて改めて読みなおし、今さらのようになるほどと感心した次第であった。

 そのころ、父は、眠られぬままに昔のことをしきりと思い出していた。私が行くと待ちかねたように、昨夜はこれこれのことを思い出した。もみじの美しかったこと、濡れた土の冷たかったことなど、こまかいことまではっきりと浮んできた。人間の頭というものは不思議なものだ。長い間忘れていたことが、突然はっきりと浮んでくるのだから……と、述懐した。自分の一生を反芻して、映画のフィルムを巻き戻してそれを見て静かに楽しんでいるような雰囲気だった。中でも私の印象に深かったのは、大正十四年の夏、英国からの帰途、エンプレス・オブ・アジア号が、日本に近づいた時の光景だった。

 大正十年、大学を出ると正金銀行に入社し、ロンドン支店詰となって十一年から十四年まで父は海外生活をした。その間に私がロンドンで生れたのである。十四年、帰国が決まると、母とまだ赤ん坊だった私をロンドンから南回りの船で帰し、父は単身、当時の豪華船モレタニア号で米国に渡り、汽車で大陸を横断し、バンクーバーからカナダ太平洋汽船会社の船に乗ったのだった。大圏コースを取ってやく二週間、金華山沖を南下し、明日は早朝東京湾に入るという発表があった。父は朝五時ごろに起きてたった一人で甲板にあがって行った。太陽はまだ昇っていなかったが、空はすでに明るく、朝の光に静かな海面はいっぱいに白く明るく輝いていた。やがて一万五千トンの巨体は右に大きく旋回して、遠く館山の岬をまわって東京湾に向った。その航跡が鏡のような海面に大きな半円を描いて行くのを、父は甲板に立ちつくして眺めていた。

「頬にひやりとする風の冷たさや、潮の匂いまできのうのことのように感じるんだ。」と父は言って思い出を懐しんでいた。

 その話には、いかにも旺盛な好奇心に富んだ若いころの父が躍如としていて、私には嬉しかった。長い太平洋の航海を終って、ようやく目的地に近く、大きく旋回して行くエンプレス・オブ・アジア号と同じように、父の運命にも近く大きな展開が訪れようとしていた。そして若い昔の日、巨船の甲板に立ちつくし、その静かで壮大な光景を見つめていたと同じ目つきで、また同じ態度で、今近づいてくる自分の運命の転機を見つめているような父であった,その展開が、その朝のように美しく平和で静かなものであることを、私は願った。


 十月十九日、夢にうなされて目が覚めた。早朝の薄明りの中に、私は父がいよいよ死ぬのだということを直感した。悲しかった。涙が頰をつたって流れた。

 その夕方、おそれていた二度目の発作が起った。そして父も死期をはっきりと悟った。肋膜にたまった水を針を刺して取ると、一升ビンに一杯分も取れた。それで少し楽になったようだった。もう日も暮れて病室も暗かった。看護婦さんや付添いの人が出て行って二人きりになると、父は私にいろいろのことを言い残した。自分で仕残した出版の仕事のいくつかを片付けてほしいこと。とくにお世話になった方たちにそれぞれの品物やお金を上げてほしいこと。お葬式やお通夜の指図までした。

「三田の家じゃ頰がえしがつかないから、官邸(第一公邸)を借りてお通夜をやったらいいだろう。」と言った。

 不思議なほど自然で静かだった。時間の動きも止ってしまったような感じだった。ひとわたり話し終ると、
「六十七歳を一期にこの世を去るか。」と父は憮然として言った。
「お淋しいですか。」と私は聞いた。
「いや、別に淋しくもない。」強がっているふうもなく全く自然だった。
やがて珍らしく父はお経を唱し始めた、法華経の寿量品の自我偈であった。

  自我得仏来 所経諸劫数
  無量百千万 億載阿僧祇
  常説法教化 無数億衆生

 いつもお経など読むことはないのに、父はなかなかよく覚えていた。私も記憶にある限り唱和した。三分の一も行かないうちに、二人ともあとは忘れてつづかなくなってしまった。

 渋沢の家には親類が多く、父はその家長だったから、祖父青淵の盛大な葬儀を始め、喪主として沢山の親類たちを送り、何回とも知れず法要をいとなんできた。上野寛永寺の同じ本堂で、今度は父が送られる番となり、私が送る立場になるのだった。モーニングに身をつつんで多くの会葬者に挨拶をし、真先に焼香に立って行く父、幼いころから何度となく見てきた、そんな時の父の面影が浮んできた。

 思い出すままに父はあれこれと気のついたことを言い残した。私もいろいろなことについて父の考えを聞いた。特に、父の身近かにいて深い関係のあった人たちの身の振り方などを話し合った。

「おっかぶせるようで気の毒だが、まあ君、何分よろしくやってくれ。」

 それは、日ごろ私にちょっとした使いを頼んだりする時と全く同じに、自然で謙虚な態度であった。急に悲しみがこみ上げてきた。

「随分いろいろなことでご迷惑をかけました。でもお父様の子供に生れて、僕は光栄だったと思っています。本当に有難く思っています。」
「いや、僕も感謝しているよ。僕にできなかったことを皆がつづけてくれる。有難いと思っている。」

 翌日から急を聞いて駈けつけて下さる沢山の方が、ひきも切らず病院に見えた、父は一人一人の方に心をこめてお別れの挨拶をした。決して乱れず、かなり苦しかったにもかかわらず、心のすべてを与えようとしていた。相手の方の仕事のこと、家族のことなどもよく考えて、短かい間ではあったが適切なお別れの言葉を述べた。いたたまれず涙を流して出て行かれる方も多かった。父の鼻腔に近く、テープで止めてある酸素吸入のゴム管が痛ましかった。その晩はまた発作が起って父はひどく苦しんだ。

 翌日、母が訪ねてきた。父と母は事情があって長年別居していた。母が家を出て行ったのは戦争の直後、私がまだ二十二か三の時だった。それ以来二人が会ったのは、私と妹たちの結婚式の時だけだった。一度私が頼んで母が病院に見舞いにきたこともあったが、その時はかえって気づまりで話もろくにしないで別れてしまった。ところがその朝は、母がおそるおそる病室に入ってくると、父は、

「昨夜はとても苦しかったよ。」と、子供が母親に甘えるように言った。

 母は涙を浮べて、

「さぞお苦しかったでしょう。」と、父の手を取った。長年の間にいろいろとしこりを残した二人の関係だったが、最後の再会は何ごともなかったかのように自然に運ばれた。静かだが万感がこもって感動的な場面だった。私にとってそれはどんなに嬉しかったかわからない。母はその時以来、父が世を去るまで徹宵看病をつづけた。

 時々意識が戻ってくると、父は誰々によろしく言ってくれとか、お礼を言っておいてくれとか言って、再び意識が混濁すると、

「やっとここまできたんですから早くやって下さい。せっかくここまできたんですから……。」と頼むように言った。もう駄目だから麻薬を注射して早く楽にしてほしいという意味だった。「せっかくここまで……」という言葉が、何とも言えず悲痛だった。

 睡眠剤の注射を受けると、父は楽になってすやすやと眠った。夜が明けそめると病室の向いにちょうど建築中だった共同通信のビルが朝日に赤く輝いた。秋晴れを約束するような透明な空、この朝の空の色を二度と忘れることはないだろうと私は思った。

 思い出したようにふと目が覚めると、父は私を認めて、

「あ、いてくれたか、ありがとう。」と言った。

 死への努力が何日もつづいた。人間はなかなか死ねないものだということを実感した。六十七歳とはいえ、命取りとなった腎臓を除いてはまだ健康だった。そんな父をむしばんで、強引に死へ追いやっていく病気が恨めしかった。

 病室にあまり沢山人がいては、という冲中先生の指図で、次の晩は、私と看護婦を残して家族が別室に引き上げると、翌朝ふと、「ゆうべは人が少なくて淋しかった。」と言ったりした。今思えばあのまま皆でついていればよかったような気もする。

 二十五日は一日中昏々と眠りつづけた。日が暮れてとっぷりと暗くなった午後七時ごろ、リンゲル注射が始まった。薄黄色い液が、静脈を通して少しずつ眠っている父の体に入っていく。父は無心に眠りつづけていた。そしてリンゲルの液が尽きた直後、潮の引くように静かに息絶えた。

 十月二十五日午後九時三十分、行年六十七歳。平和で、ほとんど微笑しているような顔だった。病室で簡単なお線香を立ててお別れをした。何日間も夜も眠らずに病院に詰めて下さった多くの方を始めとして、驚くほど沢山の方が、報を聞いて最後の別れにきて下さった。北京から帰国されたばかりの井上靖さんも、飛行場から真直ぐにやってこられた。

 真夜中の十二時ごろから、死因究明のための解剖が行なわれた。

 病院の地下の霊安室に、真新しい白木の棺におさめられて父が戻ってきたのは、もう朝の五時すぎであった。黒い紋付の衣裳をつけた父の顔は、洗ったようにきれいで静かだった。

 薄明りの外に出ると、いつの間にか雨が降っていた。その雨はやがて本降りとなり、葬儀が終るまで降り止まなかった。


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