渋沢敬三の伝記

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父・渋沢敬三 〔5〕 / 渋沢雅英

渋沢雅英著『父・渋沢敬三』(実業之日本社, 1966.10) p.87-107掲載
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第五章 戦争

「戦争は必ず終るものである。平和が正しい姿であって戦いは異常である。われわれは戦争のすんだ日に備えなくてはならない。」

 そういって父は、戦争がかなり苛烈になってからも懸命に学問の仕事をつづけていた。当時父は日銀副総裁として大東亜金融の元締のような地位にあり、仕事はかなり忙しかった。十八年四月には約一ヵ月間中支、北支を視察したり、折から病気がちだった結城総裁の代理を勤めたり、気苦労も多かった。しかしその間にも学問の仕事は決して手から放さなかった。

 当時打ち込んでいた仕事の一つは、「釣魚技術史」の執筆であった。帝国学士院は紀元二千六百年記念事業として、明治以前の科学史の編纂を計画した。その一部として「日本漁業技術史」を常民文化研究所に依嘱してきた。各部門にわけて数人の人が分担して研究したが、父はその内、釣漁業の分を自分で引受け、戦雲もしだいに深まる毎日を営々として書きつづけた。

 この原稿は戦後、日本学士院編として出版されたし、また『日本釣漁技術史小考』と題して単行本としても刊行された。

 昭和十八年三月六日に祖母の敦子が亡くなった。春もまだ浅い寒い夜のことだった。急に容態が悪いというので、家族そろって渋谷の祖母の家に出かけた。私が着いた時にはもう間に合わず、父がすでにてきぱきと死後の手配をしていた。祖母は生前いろいろな苦労をしぬいた人だった。そしてあらゆる運命を甘受し、嫁いだ家のため、子孫のためにすべてに耐え、自分を無にして誠実に生きつづけるという高貴な精神を持っていた。古い型の日本婦人の最後の一人であったかもしれない。

 祖母は、父が日銀副総裁になったのをたいへんに喜んだということである。『瞬間の累積』によれば、

「(母は)大変喜んだらしいのですが、そのことについてはつい素振りにも見せず、私も忙しかったのでノンキに構えておりました。そうして昭和十八年の三月六日に母は亡くなりました。それから暫くたって、母についていた、幾という忠実な女中さんから洩れ聞いたのですが、私が副総裁になった時に、母は、幾に対して本当に声を出して泣いて喜んだそうです。『第一銀行の頭取になるのは親の七光りであるけれども、祖父が死んで十年以上たって、とつぜん日銀に迎えられたことは、たんなる親の七光りではない、これで自分も冥土へ行って、父や祖父にあわす顔がある』と言って泣いていたそうであります。私も思わぬところで――私は自から日銀に行きたいと思ったのでもなく、またそれを得意にも感じておらなかったのですが、後になって、そう言われてみると、知らぬうちに一つだけ孝行をしたと思っております。しかし考えてみると、戦争中であったとはいえ、今はもう少し何か孝養をつくしておけばよかったと思っております。」

 当時はまだ日本軍大戦果のニュースがつづいていたし、物資も不足がちとはいえ戦争末期ほどのことはなかった。祖母もいい時に亡くなって、かえって幸せだったのかもしれない。

 父はとりたてて戦争に反対するようなことはなかった。「こんなことをやっていては、やがて国民に嫌気がさして、政府や軍がいくら笛を吹いても踊らなくなってしまうでしょう。」と高校生の私が青臭い議論を吹っかけても、相手になろうとはしなかった。「くだらないことは言うな。」という態度だった。

 反対に、私が勤労奉仕に動員され一生けんめいに仕事をしていると、わざわざ見にきたりした。それは板橋区の志村にある金属の工場だった。昭和十九年の夏、私はまっ黒になって機関銃の弾丸にする真鍮の棒を削っていた。敗けては困るという気持もあったが、こうした工場で働くのは初めてだったし、自分の手で何かをつくり出すことがたまらなく面白い経験だった。

 晴れた夏の朝だった。友人の中山正則氏その他の人を伴なって、父は日銀の自動車で志村の工場までやってきた。会社側は日銀総裁が見学にくるというので、社長さん以下大騒ぎをして出迎えていたが、父は何ということなく面白そうに工場を見て行った。私が働いているところにきても、別にとくに長く見ているわけでもなく、他の現場と同じようにどんどんと歩いて行ってしまった。それでもわざわざ見にきたのだから、息子が珍らしくまっ黒になって懸命に働いているのが嬉しかったのだろうと思う。

 父は、当時左翼的であると言って弾圧を受けていた多くの文化人を、かげになりひなたになってかばったり助けたりしていた。大内兵衛博士を日銀の顧問にお願いしたのは、もちろん父の発意であった。三田の研究所にも多くの学者がおられた。一高や東大で思想問題で退学させられた経歴の人も多かった。三池騒動で有名になった向坂逸郎先生とは、東大で同級生だった関係もあり、先生が学校を追われて困っておられた時、二千円差し上げたという話は、先生自身の筆で書かれ、死後有名になった。

 べつにマルクス主義に傾倒したわけではなかったが、この人びとの学問を惜しむ心と同時に当時の日本の政治の破局的な間違いに対して、憤りを持っていたのだろうと思う。子爵であり日銀総裁であるという父の立場だったから、身の危険を感じないでそういうことができたという面ももちろんあったと思うが、それにしても、そういうことをそれとなく静かに、しかしかなり大胆に取り運んで行くあたりに、父の父らしさもあったように思う。

 戦局が悪くなるにつれ、みんながどういうわけか頭を刈って坊主にし、カーキ色の国民服にゲートルという姿で歩きまわるようになった。父は遅くまで背広を着ていたし、たまに国民服を着てもきわめて地味なデザインのものだった。「頭なんか刈っても始まらない。」とあっさり言っていたが、そんなつまらないことでもかなり決心のいる不思議な世の中だった。


 昭和十九年の春には、結城総裁辞任のあとを受けて、父は日銀総裁になった。石渡大蔵大臣からその交渉を受けたので、父は当時の大蔵次官谷口恒二氏に副総裁になっていただけるならお引受けしてもよいと云った。石渡さんは大きな目を丸くして驚かれたが、父の決心が固いのを見てとって、やむなくこれを承知された。戦争中のことで、日銀の仕事も官庁間の連絡が多く、その事情に精通した谷口さんのような方がおられないと動けない時代であった。

 ところがその谷口さんは、翌昭和二十年五月二十五日の大空襲で亡くなられた。渋谷にお宅があり、神宮通りから青山の方向に避難されたが、青山通りを火が横ざまに吹き流れるというすさまじい劫火の中で行方不明となった。死体も見つからなかった。父は心痛して、東京の諸所方々を探したがついにわからなかった。後にご家族立会いの下に、副総裁室を開けて机を調べてみると、父あての遺書が入っていた。一カ月前四月二十八日付のもので、あすをも知れぬ戦争中とはいえ、何かこういう運命を予感しておられたに違いない。

「醜骸を人目にさらしたくない。」というご遺志通りになってしまった。

 自分でお願いして無理にきていただいた方であり、父はこのことについてずいぶんと心を痛めた。後になって谷口さんを偲んで次のように書いている。

「今でも丈夫でおられると、わが国は谷口さんにしていただくことも多かったし、それが国民全体の為にもなったろうと今さら痛惜の至りである。………谷口さんの後任は当時南京の経済顧問をしておられた新木栄吉さんに無理して来ていただいたが、すぐに終戦になってしまった。自分のようなものが身のほどしらずに日銀総裁になったり、その短を補うために国家として最優秀の官吏の一人谷口さんがとつぜん日銀にこられたり、戦争というものは全く思いもよらぬ運命を人に与えるものだと今さら往時を振り返って茫然たるものがある。」(『犬歩当棒録』昭和三十五年八月二十八日記)

 この大空襲の日、私は前橋にいた。昭和十九年十月、旧制高校在学中に召集を受け、榛名山麓の前橋予備士官学校で六カ月あまり訓練を受けていたのである。宵の口から空襲があり、警報が解除されてからも東京にあたる方角の空がいつまでも真赤に燃えていた。火事は山の手という放送もあり、三田の家はとうぜん焼けたと思った。家族の安否もまったくわからなかった。

 まもなく見習士官になって東京に帰ってみると、焼け跡のものすごさは目をおおうばかり、どこを見ても焦土という言葉が文字通り実感された。ところが、とうぜん焼けていると思った三田の家が、不思議とその一角だけ残っていたのはまったく意外で、ほとんど信じがたい気がした。聞けばあの夜、屋根裏に焼夷弾が落ちたが、父をはじめみんなが天井裏にのぼってやっと消し止めたのだということだった。

 母と妹たちはそのころ青森県の三本木というところに疎開していた。三田にはそのかわりに、都内各地で焼け出された人びとがたくさん同居していた。親類や友人の家族たち、研究所の人たち、三田の警察の幹部の人たち、附近の部隊に勤めている軍人など、さすがの大きい家も足の踏み場もないありさまだった。誰言うとなくお互いに「渋沢村の住人」などと称し合っていた。その不思議な共同生活に参加した人たちは、戦争末期から戦後にかけて七十人を越えていた。父はその人たちとかなり楽しく、仲良く暮していた。

 空襲が激しくなるにつれて国民の心のバランスがこわれ、物資は極端に不足し明日をも知れぬ毎日だったが、夜、灯火管制の暗幕の中で酒を飲みながら同居の人たちと世間話をしたり、学問の話をしている父には、無欲恬淡として人の心に平和を与えるような一種の落着きがあった。

 ある日何かの用で、私は長い刀をぶらさげて日銀を訪れた。大きな総裁室に通されて昼食をご馳走になったが、もりもりと食べる私を面白そうに眺めながら、父は昔、祖父栄一にご馳走になったときのことを話し始めた。どこかの牛肉屋に二人で出かけたとき、父が祖父の分までビフテキを食べるので、栄一はその健啖ぶりを半ば驚き半ば喜んで、父の顔をのぞきこんで「よく食べるねー。」と感心したということである。そんな昔話をするほど、父の心は、終戦前夜の日本の雰囲気とは違ったものを持っていた。


 やがて終戦の日がきた。すでに限度にきていた日本人の心は、とめどなく乱れていった。日ならずして幣原内閣ができ、父は思いがけなく大蔵大臣になることになった。

 組閣本部に呼び出されてその交渉を受けた父は、とうていその任でないからと言って辞退した。すると幣原さんは、

「任でないことは私も同じだ。今のこのありさまで自信があるなどというものがどこにいるだろうか? 私も陛下から組閣のご命令を受けたとき、とてもできませんと申し上げたかった。でも陛下のご様子を見ていたら、とてもそれは言えなかった。あなたも一つ陛下のために曲げてこれを引受けてほしい。」

 父は断わる言葉がなかった。昔、栄一が大蔵省租税正就任の交渉を受けた時に、自分はその任でないからと言って辞退した。その時大隈重信は「今の世に自信のあるものがあるだろうか。自信のないものが集まって協力し、これから国づくりを始めるのだ。」と言って説得し、栄一もかえす言葉がなく、受諾したという話がある。その時と今とでは何という違いだろうか。父は日銀の新木副総裁と大蔵省の山際次官にご相談してお二人の同意と支持の下に、この困難で報われるところの少ない役目を引受けることになった。

 在任はほんの七カ月ばかりであったが、その間に日本の国はかってない大変動を経験することになった。新憲法、財閥解体、農地改革、追放令など、戦後日本の骨格を作った変革の大半は、占領軍命令の形でこの時期に決定された。経済の面でも財産税、新円切換、軍事補償打切りなど、かなり激しい政策がつぎつぎと打ち出され実行された。

 衆を頼んで赤旗を立て要求をつきつけるという風習もいち早く始まった。たしか在日韓国人の問題であったかと思うが、父もその被害を受けた。いっぽう占領軍司令部という「悪夢のような」存在があった。ずっと後になってからも、日比谷の総司令部だった第一生命ビルの前を通ると、父は「あのころを思い出してぞっとする。」と言っていた。

 終戦後数年間の日本には、歴史上、他のどの敗戦国にも見られなかったような深刻な混乱があった。ものの考え方、態度などのすべてが外力によって冷酷にまた徹底的に振りまわされていくようだった。今までからくも国という存在が支えられてきた基盤がくずれて、すべての拠りどころを失った国民は、恐怖と不安にかられて、各自がばらばらに勝手な方向に動き出して行った。

「国民の心が戦争の努力に過度に集中された後には、反動として猛烈な分散作用が起るものだ。」

 と言って父は、よく戦後の姿の幾つかを説明していた。そしてその一番身近で端的な例が、父自身の家庭であった。

 母と妹たちは昭和二十年の暮に、疎開地から三田の家に帰ってきた。戦争前からとかくうまくゆかなかった父と母の関係はますますこじれて、それから一年足らずのうちに母はとうとう家を出て行くという破目となり、家庭生活はその根底からくずれてしまった。妹たちは当時まだ上が十五、下が十二くらいだったと思うが、複雑でやり場のない不幸な生活におちいってしまった。私自身も敗戦のショックからまだ覚めないころで、この事件によってますます虚無的で反抗的な手のつけられない青年になって行った。そして父は、長い間この不幸な事態から起ってくるすべての結果を、黙ってじっと耐えて行かなければならなかったのである。

 二十一年の四月に幣原内閣が解散し、吉田内閣ができて、父は苦痛にみちた大臣の職から解放された。「本当にせいせいした。あんなに嬉しいことはなかった。」と父はよく言っていた。ちょうどそのころ、追放令に該当し、すべての公職を離れた父は、大きな家を財産税で物納することとし、崖下の、むかし執事さんの住んでいた家に入ることになった。「渋沢村」も解散した。斜陽などというなま易しいものではなく、たいへんな没落だった。父は日本が領土の半分を失い、三百万の人が死んだのだからこのくらいは当り前だと言っていた。日ごろ物質主義的な私たちもその時はそれに感染して、ほとんど困ったとも苦しいとも思わなかったのは、今考えれば不思議である。

 食糧不足の折でもあり、追放で暇にもなったので、父は戦争中から始めていた畑仕事に精を出した。それは「家庭菜園」などというありきたりのものではなく、本格的な「農業経営」といいたいほどの徹底したやり方で、父自身まっ黒になって働いた。もともと全国の篤農家の方がたとのお付き合いも多く、ご指導も受けて、また種や肥料など特別のものを手に入れることもできたのだと思うが、三千坪ばかりの三田の庭は専門家でも驚くほどの収穫をあげた。

 私は復員してから大学に戻ったようなものの、勉強などまったく手につかず、気持の赴くままに勝手気ままにその日を送っていた。占領軍に対する反発もあったものか、日本の古典に興味をもって、よく歌舞伎の芝居や音楽を聞きに行くようになった。ある日、友人と一緒に父の客間で勧進帳のレコードをかけていた。父は、その日も庭の向うで相変らず畑仕事をしていたが、何を思ったのかつかつかと畑を横ぎって家の方にくると、ひどく怒って「みんなが一生けんめい働いているのに、ちゃらちゃらした歌なんかかけるのはけしからん。すぐやめろ。」と私に言った。

 私は友人の手前もあって「勧進帳は別にちゃらちゃらなんかしていない。」と反論したが、父は「とにかくやめてくれ」と言って、ぴしゃりと戸を閉めるとまた働きに出て行った。

 いま考えると、おかしいような話だが、父が怒ったのを見たそれはごくまれな一つだった。この場合は私の方がもちろん悪かったのだが、父もさすがに当時はいろいろな労苦がいっぺんに重なって、かなりまいっていたのだろうと思う。ナッパ服を着て肥桶をかついだり、鍬をふるったりしている姿には、自分や国の運命の変化の大きさにじっと耐えぬいているような面影があった。

 農業のあい間をみては、父はさかんに旅行に出かけた。「貴族院のパスがあるうちに日本中を見て歩くんだ。」などと冗談を言っていたが、戦後二、三年の間に父の足跡は全国津々浦々におよんでいる。

 大臣をやめた直後、二十一年の六月末から七月にかけては、京都、舞鶴から静岡方面に一カ月にわたる旅をしている。八月には長野県と北陸から青森、九月から年末までには近畿、中国、仙台、四国、千葉など七回も旅行に出ている。二十二年には、一カ月以上にわたる関西旅行をふくめて十三回も旅行に出た。二十三年には、その回数は十九回。二十四年には二十回にもおよんでいる。

 汽車もまだ殺人的な混みようで、おまけに食糧もないころで、旅行はかなりの重労働だったが、父はこりることなく、着古した洋服に米や味噌などをかかえて何度でも気軽に出かけて行った。戦争前のように仕事のあいまを見てというような急ぎの旅行ではなく、友人、旧知をたよって全国を廻り、戦後の日本の表情や、敗戦にもかかわらず失なわれていない農民の心情にふれずにはいられないという感じのする旅行であった。

 お金がなくなったことは、それまでお金があるとかないとかいう意識を持つ必要がなかったほど裕福だった私たち家族には、かなり重要な変化だった。

 父は戦争前から時たま「僕はお金がなくなっても平気だ。」と私に言ったことがあった。私があまりいろいろなものを欲しがるので、たしなめる意味で言ったのかもしれない。しかし、私にはそれが信じられなかった。お金がなくても平気でいられるというような心理は全然考えられなかった。

 ところが戦争という予想外の事態のおかげで、現実にお金がなくなってしまった。私は予想通り平気でいられなかったし、結婚問題その他をめぐってその後はずいぶんお金の苦労をすることになった。ところが父は「ニコボツ」(にこにこしながら没落するという意味)と言って、かなり平気な顔をしていた。私は相変らずその真意がわからず、父は地位もあるし一生食うに困ることはないと思っているから、そんなことを言っていられるのだと考えていた。


 死後発見した「希望書」にも、父は「自分はお金のことには全く無知で、ことに自分のお金となるとやりきれないほどの馬鹿だ。」と書いている。今にして思えば、父の経済は、普通の経済観念では割りきれない何ものかの上につくられていたように思う。三田の家の物納などの問題にしても、やり方によってはもっとうまく立回ることができたに違いないし、他にもそういう例が数多くあった。

 しかし、それにも拘らずそれは正しくて道理にかなったやり方であったようである。そしてその正しさの故に、一見愚かのように見えていながら、案外経済というものの本質を見通していたようである。理外の理という言葉があるが、それがあんがい本当の理屈であったのかもしれない。ことがお金に関すると、人の心は目先の予想や期待によって乱されがちであるが、小さな目先の利害に「無知」だった父は、かえって物事の本当の筋道をはっきり見ることができたようである。

 そういう父の態度に感心したり、同情したりして下さる方があって、そのご厚意のおかげで父の死後、私も多少の遺産を分けてもらうことができた。父の日ごろの考え方から見て、私は父の死後お金を貰えるなどということはほとんど予想していなかった。そこでさてそのお金をどのように使うべきかということを考えた時、急に今まで信じられなかった父の気持がわかるような気がしてきた。また私の中にも父に似た考え方が、いつの間にか育ち始めていたことを感じるようになった。

 そんなわけで「ニコボツ」は、個人的には父の心に大した影を投げかけることはなかった。しかし学問という点ではきわめて重大な影響を持つことになった。端的に言って、今までできたことがほとんどできなくなり、昔なら自分でやれた小さなことも、今ではすべてを人に頼まなければならないことになった。

 そのことは、とうぜん父の学問活動の規模を、比較にならないほど小さなものにしてしまった。私はもし昭和十二、三年ごろのような父を中心とした共同研究が、たとえ十年でもつづいていたら、日本のために、父のために、また多くの研究者の方がたのためにどんなによかったかと、心から残念に思っている。

 戦争があのような無茶なプロセスをとらなかったら、また日本人の心の状態があそこまで追い込まれることがなかったら、父の人生も、その学問も、もっと大きく豊かな花を咲かせただろうと思う。

 しかし、父はそのことを恨みに思ったり、変なもがき方をしたりしなかった。ずいぶんひどい苦労をしたにも拘らず、表面にはほとんどそれを感じさせないほど円満であり、見透しもよく、まったく私のない心を持って人のお世話をする父だった。相手の人の成長のために、もっとも大切なアイディアと夢と希望をもたらす不思議な力を父は持っていた。

 大蔵大臣などをしたので、予算の面でも、学問研究のためにいくつかの有意義な仕事をしたし、また前大臣という肩書も世間的に父の仕事の幅を広くした面があったと思う。経済界の方でもいろいろな人を助けて、かなりいい仕事を残したように聞いている。多くの方から身に余る感謝やお褒めの言葉をうかがったこともある。

 しかし、横から見ていると戦後二十年の父の生活の中には、戦争の苛酷な手で花弁を無理やりにむしり取られた花のような面があったことを、私はいつも感じていた。個人的にも、家庭的にも、また社会的にも、父の受けた傷痕は、日本全体が受けた傷の象徴のようなものであった。父じしんそれをよく知っていて、素直にすべてを受け取ろうとしていた。しかし、それだけにその傷はひじょうに深いものであっただろうと思う。

 父は決して泣きごとというものを口にしない人だった。 「こんなことになったのは環境のせいだ。」などという安っぽい議論は決してしなかった。その人生には憎しみのかけらもなかったように思う。もし戦争がなかったら……などという議論は意味をなさないかもしれない。しかし、あの戦争が、父のような人の中に育ちつつあった心を無惨にこわすようなものであったことを、私は悲しく思うのである。

 私は反戦論者ではない。戦争と平和という言葉は、あまりにも無考えに、かつ間違って使われているために、ほとんどその意味をなさなくなってしまった。人生には死よりも耐え難い平和がある。プリンシプルを曲げてまで生き伸びようとする気には私はなれない。しかし、国民の一番暖かい大切な心が死んでしまうようなやり方で、戦争をすることは正しくない。二度とそういうことをくり返さないように、日本人の心を豊かに大きく正しく育てて行かなければならないと痛感している。


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