この年譜は、『渋沢敬三著作集. 第5巻』(平凡社, 1993.07)に掲載されている「年譜 : 付・渋沢家略系図」(p.459-479)の内容をもとに、他の資料から適宜情報の追加・修正を行い作成したものです。
1896(明治29)年
満0歳 |
8月25日 父・渋沢篤二、母・敦子の長男として都内深川に生まる。祖父・渋沢栄一“篤”“敬”の二字を好み、父子にその一字ずつを採って命名。 |
1903(明治36)年
満7歳 |
4月 東京高等師範学校附属小学校に入学。徒歩通学。 日比谷公園竣工、鶴の噴水見物。 |
1904(明治37)年
満8歳 |
この頃、庭の池にすべり落ちしを、書生・柳田国雄が救いあぐ。その時、水天宮のお守り、真っ二つに折れしを発見、女中ども感じ入る。 |
1906(明治39)年
満10歳 |
渋沢元治に伴われ、小屋掛け時代の回向院相撲を見る。これをもって打ち止め、以後、国技館等の相撲を見ず。 |
深川倉庫地帯たびたび出水、また飲料水不便のため住まい移転計画さる。三田綱町・仁礼景範邸の大部分を譲り受け、深川居宅の客間、居間などを移築す。 |
1907(明治40)年
満11歳 |
軽度の腎臓炎を病み、高木兼寛の命にて当時の東京病院に入院。 |
夏 一家、箱根宮下・奈良屋へ行くも、病気予後にて遠足を禁ぜられ、常に乗り物に乗せられ不満。ただし、水分多量接収の要ありとて、ラムネ(コルク栓、当時まだ王冠なし)を常時飲まされしを喜ぶ。 |
1908(明治41)年
満12歳 |
1月1日 少年腕白倶楽部を組織し、『ワンパクザッシ』第1号を発行。以後、出版者を「腕白倶楽部」、タイトルを『腕白雑誌』『腕白世界』として数年続く。 |
綱町邸竣工、移転。 |
自動車初乗り。家族とともに小仏峠へ試乗。直後、栄一、ウーズレー(24号)に乗りはじむ。ために、玄関先に新築せる馬車および馬小屋不要となり、物置および大工小屋と化す。 |
1909(明治42)年
満13歳 |
4月 東京高等師範学校附属中学(以下、附中)に入学(2年までお茶の水、のち大塚)。双方とも、往き電車、帰途おおむね徒歩。 |
9/10月 渋沢元治に伴われ、早大対ウィスコンシン大学の野球を見る。これ以後、ほとんど野球見物せず。 |
1911(明治44)年
満15歳 |
夏 伊豆静浦逗留中、夜、海亀海浜に上陸しつつあるを発見、穂積真六郎と捕えんとして果たさず。篤二これを聞き「大学と中学生と二人して正覚坊(小学校)を取り逃しけり」と詠み来る。 |
鼻を患い、岡田和一郎の病院(麹町)に入院、手術。 |
1912(明治45)年
満16歳 |
3学年落第。 |
7月19-30日 附中山岳会に加わり信州上高地に入り、穂高、焼岳等、登山。下山し初めて、明治天皇重篤続いて崩御を知り驚く。 |
冬 はしかに初染、病臥。 |
1913(大正2)年
満17歳 |
学年試験前、再び鼻を患い加古鶴所の病院(小川町)に入院、手術。 当時数年、居所を母・敦子の意念にて本郷西片町、高輪車町および駒込神明町等に転々す。父・篤二はこの頃三田綱町の家を出ており、この年、栄一の継嗣となる。 |
1915(大正4)年
満19歳 |
1月 葉山の冬、海に泳ぐ。 黄胆に罹り病臥。 |
4月 附中卒業。早稲田予備校に通う。 |
4月1日 渋沢同族株式会社設立、同社長就任。 |
7月 仙台・第二高等学校(以下、二高)受験。試験前日、広瀬川に泳ぎし者、皆合格。 |
8月 東洋オリンピック水泳大会に附中選手として4人リレーに出場、惜散。選手となりしはこれただ一度。安房中と競泳。 夏季休暇は、旅行以外はおおむね安房富浦附中水泳部、または静浦に穂積一家と過すこと前後10年ほど続く。 |
9月 栄一、仙台に向かう敬三を上野駅頭に見送る。駅長、栄一の旅行と勘違いす。仙台着後、少時片平町坂経営の下宿に仮寓。のち中山正則と外山岑作の世話にて東三番町仏教道交会に入る。近角常観に師事す。 |
9月11日 二高、第一部英法文科入学。 |
1915-1916(大正4-5)年
満19-20歳 |
生物学を志望するも、実業界入りを半年以上にわたり栄一に懇請される。 |
1916(大正5)年
満20歳 |
栄一、喜寿に達し実業界引退。 |
1917(大正6)年
満21歳 |
中山正則と道交会を去り、清水正雄、小林正美、富井恒雄、近藤経一等と粟野教授を介し米ヶ袋上町デニング旧邸を月15円にて借用、桐寮と命名し移転。のち矢田部(酒井)敏夫、宮木広大等、入寮。 |
湯ヶ原天野屋にありし栄一を訪い、栄一の手になる『徳川慶喜公伝』序文原稿を朗読せしめられ衷心感激。同書8巻、翌年完成。 |
11月 満州・朝鮮旅行。白井武随伴。 |
1918(大正7)年
満22歳 |
7月 二高卒業。 |
8月 矢田部達郎等と南アルプス北岳登山、塩見岳にて大熊に遭遇。 |
9月 東京帝国大学(以下、東京帝大)法科経済科入学。 |
1919(大正8)年
満23歳 |
12月 山崎貞直等と瀬戸内海カッター巡航。 |
1920(大正9)年
満24歳 |
4-5月 日米有志協議会開かれ、米国側委員等が綱町邸に宿泊。敬三、その接待事務等に当たる。 |
5月 東京帝大、山崎覚次郎博士のゼミナールにて研究、「ビュッヘル氏の所謂工業経営階段と本邦に於ける其の適用に就て」を提出。 |
1921(大正10)年
満25歳 |
2月2日 第1回アチック会合、鈴木醇、宮本璋、中山正則、清水正雄、田中薫等参集。 |
3月 東京帝大経済学部卒業。 |
4月 横浜正金銀行へ入行。初任給63円。 |
5月22日 第3回アチック会合。この時よりアチックミューゼアムソサエティーと名づく。当時邸内物置の天井なき2階(アチック=屋根裏)を標本室とし動植物や化石標本等を持ちよりしが初め。 |
1922(大正11)年
満26歳 |
5月23日 登喜子(父・木内重四郎、母・磯路)と結婚。 |
9月17日 横浜正金銀行ロンドン支店転任のため神戸出帆(鹿島丸)。 |
11月 ロンドン着。横浜正金銀行ロンドン支店、はじめ電信課、のち日本銀行代理店詰。支店長・大久保利賢、のち矢野勘治。 |
1923(大正12)年
満27歳 |
9月 関東大震災の報に驚く。 |
11月 イタリア旅行。 |
1925(大正14)年
満29歳 |
2月27日 長男・雅英誕生。栄一の命名。「マサワフーガノガ ヒデワエイコクノエイ」との電報による。 |
7月 帰朝発令。越智兵一郎とモレタニア号にて米国経由。サンフランシスコにて越智と分れ、バンクーバーよりエンプレス・オブ・アジア号にて北太平洋を渡る。 |
8月3日 横浜着。 |
10月 登喜子、雅英をつれインド洋廻り神戸着。 |
12月 横浜正金銀行退職。 |
1926(大正15)年
満30歳 |
1月25日 澁澤倉庫取締役に就任。 |
7月 第一銀行取締役に就任。 |
7月 東京貯蓄銀行取締役に就任。 |
1927(昭和2)年
満31歳 |
2月11日 敬三・次男、紀美生まる。紀は紀元節、美は曾祖父の諱(いみな)である美雅よりとり敬三の命名。 |
2月21日 東洋生命取締役に就任。 |
金融大恐慌経験。 |
10月1日 栄一、伊豆下田柿崎玉泉寺にタウンゼント・ハリス記念建碑主唱者として柿崎阿波久に泊まる。敬三、穂積歌子と随伴。 |
11月25日 理化学興業監査役に就任。 |
1928(昭和3)年
満32歳 |
4月9日 紀美、出血症にて死去。これを機に将来を慮り、谷中墓地に納骨堂を建つ。 |
1929(昭和4)年
満33歳 |
3月 綱町邸改造に着手。この時分より「祭魚洞」なる号を用いはじむ。書物を購いて読まざるを、獺いたずらに魚を捕り岸に棄て置く様を諷笑せる支那古句月夜「獺祭魚」に拠る。なお、釣を好み、いたずらに殺生するにも懸く。 |
5月28日 癌研究会理事に就任。 |
12月19日 昭和天皇より単独御陪食に招かれた栄一に随伴。 |
1930(昭和5)年
満34歳 |
1月30日 敬三・長女、紀子生まる。 |
4月13日 綱町邸改造を機に、三河の花祭を邸内で実演。関係者多数来観。 |
魚介養殖取締役就任。 |
この前後数年、岡書院を後援。田村浩著『琉球共産村落之研究』(1927年刊)、早川孝太郎著『花祭』(1930年刊)、高岡高等商業学校編『富山売薬業史史料集』(1935年刊)等出版せしむ。 |
1931(昭和6)年
満35歳 |
1月27日 東京貯蓄銀行会長に就任。 |
11月11日 祖父・栄一永眠。 |
12月1日 栄一の死去により、子爵襲爵。 |
12月 栄一の看病による過労にて急性糖尿病を患い、年末より呉内科に入院。 |
1932(昭和7)年
満36歳 |
1月 5月まで、三津(みと)の松濤館に静養。この間、豆州内浦漁民史料発見整理。 三津滞在中より数年、ナマコの飼育試む。 |
2月13日 『青淵遺影』刊行、辱知へ配る。 |
8月 第一銀行常務取締役就任。 |
8月20日 岩波茂雄と小諸在清水に幸田露伴を訪ね、青淵伝執筆を依頼。 |
10月6日 父・篤二永眠。 |
1933(昭和8)年
満37歳 |
7月2日 敬三・次女、黎子生まる。 |
祖父・青淵翁記念として竜門社に実業博物館設立提唱し、これを実行に移す。 |
12月 郷土研究社より『祭魚洞雑録』刊行。 |
1937(昭和12)年
満41歳 |
8月 アチック・ミューゼアムより『豆州内浦漁民史料. 上巻』(アチックミユーゼアム彙報. 第20)刊行。 |
保谷に土地を得て研究所館屋を建設しアチック・ミューゼアム収蔵民具を搬入、日本民族学会に寄附。 |
1939(昭和14)年
満43歳 |
5月13日 竜門社、「渋沢青淵翁記念実業博物館」建設地鎮祭挙行。 |
1940(昭和15)年
満44歳 |
4月30日 日本農学賞受賞、第11回日本農学会大会にて講演 |
1941(昭和16)年
満45歳 |
6月 全国貯蓄銀行協会会長に就任。 |
12月 第一銀行副頭取に就任。 |
1942(昭和17)年
満46歳 |
3月14日 日本銀行(以下、日銀)副総裁就任、これに伴い第一銀行など辞任。16日より日銀へ登行。 |
7月 田中啓文の蒐集にかかる銭幣館コレクションの保存のため、日本銀行への移管を決定。 |
1943(昭和18)年
満47歳 |
3月6日 母・敦子永眠。 |
11月 大東亜会議に来日のスバス・チャンドラ・ボース、約4週間綱町邸に逗留。 |
11月 祖父・栄一の十三回忌に当たり、『青淵論語文庫目録』を作り辱知に配る。 |
1944(昭和19)年
満48歳 |
3月18日 結城日銀総裁辞任につき、日銀総裁に就任。副総裁は石渡蔵相に懇請、次官の谷口恒二を招く。総裁時代一度も東京を離れず。 |
4月14日 大蔵省顧問となる。 |
吉田三郎に教導されつつ、2、3年前より庭園を畑に起こしたるもこの年より本格化。 |
1945(昭和20)年
満49歳 |
3月17日 貴族院子爵議員に当選。 |
5月 大空襲。谷口副総裁失踪。極力捜したるも遂に見出されず。後に4月28日付渋沢総裁宛遺書、夫人の手により副総裁室の机内に発見さる。 |
8月 新木栄吉を日銀副総裁に推し就任。 |
8月15日 敗戦。 |
9月 日本民族学協会会長就任(理事長兼務)。 |
9月28日 内務省顧問となる。 |
10月9日 幣原喜重郎より組閣本部に招かる。新木、山際正道と相談、大蔵大臣受諾。親任。 |
1946(昭和21)年
満50歳 |
4月16日 幣原内閣、インフレ対策として新円切替発表。 |
4月22日 幣原内閣総辞職。5月の吉田内閣成立まで蔵相に在職。 |
8月8日 公職を追放さる。 |
漁業史関係図書、東京帝大農学部に寄贈申し出、搬出。 各地、遍歴す。 高松宮邸の相談人となり、のち光輪閣の世話人となる。 崖下の旧田島および足立の家に移転。本邸は大蔵省に官邸として貸与、のち財産税にて敷地とともに物納。 |
1947(昭和22)年
満51歳 |
6月7-8日 第1回六学会連合大会を会長として開催。 |
畑作りに専念。 |
1948(昭和23)年
満52歳 |
文部省に庶民資料館設置を推進。 |
1949(昭和24)年
満53歳 |
10月 日本生物化学研究所取締役に就任。 |
水産庁と相談、水産資料館設置推進。 |
庭内畑合計5反余のうち275坪小麦作付、丸木長雄の指導にて反当8俵収穫(前年、3俵)。 |
1951(昭和26)年
満55歳 |
8月24日 追放解除。 |
1952(昭和27)年
満56歳 |
4月15日 貯蓄増強中央委員会会長に就任。 |
5-8月 MRA(道徳再武装運動)大会出席を機に欧米旅行。30年ぶり。 |
貯蓄映画「ママの独りごと」に轟夕起子と出演。ただし1分間。 |
1953(昭和28)年
満57歳 |
3月17日 比嘉春潮、金城朝永等の懇請にて沖縄戦災校舎復興後援会会長就任を承諾。沖縄戦災校舎復興促進期成会会長・屋良朝苗必死の努力にて、その後、内地小学校児童を主として925万人にて6,500万円寄付達成。この基金にて教材購入、校舎は米軍にて新築。 |
3月20日 国際電信電話株式会社取締役社長就任。 |
11月 青淵二十三回忌に当たり、栄一自ら白河楽翁(松平定信)の著作二、三を集めて手書きせる『むら千鳥』を再版、辱知に配る。 |
1954(昭和29)年
満58歳 |
2月26日 ICC(国際商業会議所)日本国内委員会議長に就任。 |
9月 岡書院より『祭魚洞襍考』刊行。 |
9月 財団法人「国際商業会議所東京総会運営会」が設立され、運営会会長および運営会議会長に就任。 |
10-11月 ICC本部会議予算委員会日本代表に推され、パリの常任理事会に出席。 |
11月17-22日 欧州からの帰途、沖縄に立ち寄り異常の歓迎を受く。 |
1955(昭和30)年
満59歳 |
4月 渋沢栄一伝記資料刊行会より『渋沢栄一伝記資料』刊行開始。 |
5月15-21日 ICC東京大会(第15回ICC総会)開催。 |
5月 産業経済新聞社より『東北犬歩当棒録』刊行。 |
1956(昭和31)年
満60歳 |
2月 財団法人日本文化放送協会が改組し株式会社文化放送設立。水野成夫を社長に懇請せる結果、会長に就任。 |
8月13-19日 国策研究会訪台団の一員として台湾に渡り、蒋介石以下、要人と会談。 |
8月25日 還暦を迎える。柏窓会より『柏葉拾遺』刊行。 |
10月17日 犬山に設置さるる財団法人日本モンキーセンター会長に就任。 |
1957(昭和32)年
満61歳 |
4-5月 第16回ICC総会に日本代表団団長として出席のため渡欧。 |
7月18日 外務省顧問に就任。8-10月、「移動大使」として中南米諸国を歴訪。 |
1958(昭和33)年
満62歳 |
7月 角川書店より『南米通信 : アマゾン・アンデス・テラローシャ』刊行。 |
1959(昭和34)年
満63歳 |
3月 日本学術振興会より『明治前日本漁業技術史』刊行。 |
10月 角川書店より『日本魚名の研究』刊行。 |
1960(昭和35)年
満64歳 |
10月31日 熊本大学における第15回日本人類学会・日本民族学協会連合大会に出席して発病。11月7日、東京大学医学部附属病院に入院、療養。 |
1961(昭和36)年
満65歳 |
1月17日 健康を回復し、退院。一時、会社に出勤する。 |
9月 角川書店より『犬歩当棒録 : 祭魚洞雑録第三』刊行。 |
1962(昭和37)年
満66歳 |
2月 腎機能不全のため、虎の門病院に入院。療養生活を送る。 |
11月 角川書店より『日本釣漁技術史小考』刊行。 |
1963(昭和38)年
満67歳 |
1月16日 昭和37年度「朝日賞」文化賞受賞、贈呈式に出席。 |
5月 文部省史料館構内に民俗資料収蔵庫落成、その式典に出席。 |
6月15日 東洋大学より文学博士の名誉学位を受けその贈呈式に出席。 |
8月18日 病状悪化し、虎の門病院に再入院。 |
10月 父・篤二の三十三回忌の供養として『瞬間の累積 : 渋沢篤二明治後期撮影写真集』を刊行、同時に祖父・栄一の三十三回忌供養として『青淵詩歌集』を刊行、知友に送呈す。 |
10月25日 虎の門病院に入院中、糖尿病に委縮腎を併発し、午後9時30分死去。その直前に勲一等瑞宝章を授与さる。 |