語られた渋沢敬三

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『祭魚洞襍考』解題 / 山口和雄

『渋沢敬三. 下』(渋沢敬三伝記編纂刊行会, 1981.08) p.197-202掲載

祭魚洞雑考 B6・六五四頁 岡書院 昭和29・9刊

 敬三が最初の単行本『祭魚洞雑録』を刊行したのは昭和八年末のことであるが、本書はそれ以後昭和二九年までの間に発表した論文、随筆等を収録し、二九年九月岡書院から出版したもので、B6判六五四頁に及ぶ。二部にわかれ、第一部は日本水産史研究として主として水産史研究に関する論文を、第二部は犬歩当棒録として随筆等を収めている。まず 第一部 収録の論文についてその題目を示すと次のとおりである。

  一 塩―塩俗問答集を中心として
  二 式内水産物需給試考
  三 延喜式内水産神饌に関する考察若干
  四 延喜式内技術史的資料若干例について
  五 式内魚名
  六 豆州内浦漁民史料序
  七 東西作りみみず談義
  八 テグス小史
  九 片野温氏著「長良川鵜飼」序文
 一〇 鯛釣用烏賊油餌の起源と伝播
 一一 所感――昭和十六年十一月二日社会経済史学会第十一回大会にて

 敬三が邸内にアチックミューゼアムのほか祭魚洞文庫を新築し、そこに若い研究者を集めて日本水産史の研究を開始したのは、昭和一〇年前後のことであるが、右の論稿は、その頃から昭和二〇年代の初期にかけて彼自らがまとめたものである。一は、『柳田国男古稀記念論文集』のために昭和一八年末に執筆したもので、『塩俗問答集』(昭和一四年刊)を主な資料として、わが国の塩を民俗学的歴史的に考察している。『塩俗問答集』についてはすでに上巻で紹介した。二は、延喜式時代の水産物、とくに淡水魚の需給状況を考察した論文で、昭和一六・一七年刊の『渋沢水産史研究室報告』第一・第二輯に発表したのを収録したもの。これも上巻で解説済で、くわしくはそれをみられたい。三は、『小野武夫還暦記念論文集』に載せるため昭和一八年ごろ執筆したもので、延喜式内の水産神饌を陸産神饌と比較研究してその重要性を指摘し、さらにそのうちのアワビ・カツオ・サケ・コイ等をとりあげ、産地・漁法・加工等について考察している。以上の二、三は、わが古代水産史の研究にとって注目すべき異色の研究である。四は、延喜式の中から染色・皮革・筆墨・灯油・銀器・漆器・鏡・帯・太刀・輿・牛車・偶人・瓦・屏風・戎具・蘇・酒などに関する技術史的資料を抜き出し整理したもので、昭和二二年九月刊の『文化史研究』第一号に掲載された。五は、延喜式の主計式に出てくる魚名について整理し、その結果を昭和一五年五月の『季刊アチック』第一号に載せたもの。敬三は昭和一七年から一九年にかけ、『魚名集覧』全三冊(上巻で解説した)を上梓したが、「式内魚名」もこの研究の一環である。六は、昭和一二年から一四年にかけて刊行された『豆州内浦漁民史料』の序文で同書成立の由来を記したもの。『豆州内浦漁民史料』についてもすでに上巻で解説したので、それを参照されたい。七は、魚の餌料としてのみみずの重要性を問題にし、古来の和書および洋書に現われたみみずに関する記述を紹介したもの(昭和二二年八月記)、八は、わが国テグス使用の歴史をたどったもの(昭和二一年九月記)、一〇は、鯛釣用の烏賊油餌の始まりと伝播について考察したもの(昭和二四年四月記)である。敬三は戦時中、帝国学士院の依頼を受けて明治前日本漁業技術史を編纂し、その中の釣漁技術史を自ら執筆したが、右の三論文は、この研究過程でできあがったもので、注目すべき研究である。九は、郷土史家片野温の求めに応じてその著『長良川鵜飼」のために書いた序文で(昭和二〇年七月記)、わが国や中国の鵜飼発達について記したもの。一一は、昭和一六年一一月二日の社会経済史学会第一一回大会における講演の内容で、アチックミーゼアムのやっている仕事や研究、さらに延喜式に現われた水産物などについて語ったものである。

 次に、第二部 に移って随筆の題目をみると左のとおりである。

  一 アチックマンスリーから
  二 倉場氏魚譜が再び長崎市に戻る経緯
  三 二谷国松翁よりの来信
  四 日本銀行「本日休業」
  五 受けうりばなし二三
  六 チヴィタヴェツキアとフランクフルトから
  七 水流任急境常静
  八 癌と俳句
  九 真の「電話時代」を早く
 一〇 発色光源雑感
 一一 石黒さん
 一二 山際正道君
 一三 渋沢元治氏著「弟渋沢治太郎君を語る」序
 一四 南方熊楠全集上梓のいきさつ
 一五 国歌大観を作った人々
 一六 考えている村
 一七 仰臥四十年の所産
 一八 忘れられた要素
 一九 青淵論語文庫目録跋文
 二〇 絵引は作れぬものか
 二一 徳川夢声との対談

 一は、アチックの所内報として昭和一〇年七月から発刊されたアチックマンスリーの中から敬三が執筆した(1)アチック根元記(2)五回目の朝鮮(3)随想二つ三つ(4)探鉱(5)民具と装飾(6)船乗りと漁師の名前(7)うろ覚えの民俗の七篇を再録したもの。二は英人グラバーの息で帰化した長崎在住の倉場富三郎によって永年にわたり写された精緻な魚譜が、戦時中同氏の遺言で敬三に譲られ、それが戦後長崎市に戻るまでの心温まる経緯を記したもの。三は、昭和二五年東京保谷の民具博物館構内にアイヌ家屋を構築するため北海道日高から二谷国松らを招聘した際、同氏が病気となり敬三が世話したことがあったが、その二谷翁が帰国後御礼の手紙をよこした。アイヌには文字がない。片仮名で自ら書いたアイヌ文は稀らしいと思いこれを掲げたという。四は、終戦から間もない昭和二〇年九月三〇日夜、敬三が総裁だった日本銀行が突然総司令部の査察をうけ、翌四日休業のやむなきにいたった模様を具体的にいきいきと記した体験談。五の受けうりばなし二三は、(1)借金を返した話(2)民主主義と再軍備(3)失敗史は書けぬものか(4)アメリカのイワシ漁業から成っているが、このうち(3)は日頃社史に接することの比較的多い筆者にとってはとくに感銘深かった。六は、(1)チヴィタヴェッキアで、(2)フランクフルトでの二篇にわかれるが、そのうち(1)は敬三が戦後イタリアのチヴィタヴェッキアという漁村を訪れた際、そこの僧院で長谷川路可画伯によって日本二十六殉教者の壁画が製作されているのを見、その模様を非常な感動をもって記した文である。七は、吉川英治の『新平家物語』第八巻(昭和二七年一〇月刊)のはさみこみ紙に記した感想文。それに対する吉川の御礼文も載せられている。八は、山極勝三郎博士の「曲川句集」を通じて博士が病苦や不幸と闘いながら人工癌の研究に生涯を捧げた有様をえがいたもの。九では、電話で用の足りることは上下の別なくすべからく電話を使うべしと説く。一〇は、パリーと東京のネオンの違いやこの頃まだ珍らしかった蛍光灯について書き、一一では石黒忠篤、一二では山際正道をとりあげている。ことに後者は山際の「追放解除願証言」として書かれたもので、感銘深い名文である。一三は、栄一の代理人として、また兄元治博士の身代りとして郷里血洗島の家を守り通した渋沢治太郎について語った文、一四は、昭和二六年四月『南方熊楠全集』の序文として、同書上梓のいきさつを南方の人物・業績、エピソードなどを織りまぜながら記したもの。一五は、『国歌大観』と題するわが国和歌索引書作成の苦心を、それに従事した鈴木行三の談話を基に記したものである。

 敬三は昭和二一年秋、丹波氷上郡鴨庄村を訪ねたが、一六ではこの鴨庄村が大きな貯水池をつくり、水田のほか畑や山林を開き、鯉を蓄養し、乳牛を飼い、瓦製造や木工などをも行う「考えている村」であることについて述べている。一七は、血友病で全くの病臥状態にある民俗学者内田武志が令妹の献身的な援助のもとに、『日本星座方言資料』『静岡県方言誌』をつくり、さらに『菅江真澄未刊文献集」の完成に努力しつつある有様と、同氏と盲目の少女との心のふれあいとを記した心あたたまる文。一八は、昭和二七年(一九五二)アメリカミシガン湖の北端にあるマキーアイランドで開催されたMRA大会に出席した際の感想文。「忘れられた要素」はMRAが世界で上演している劇の名である。一九は、昭和一八年一一月一一日、栄一の第一三回忌に当って作られた『青淵論語文庫目録』に敬三が書いた跋文で、この論語文庫がどんな目的で、どのようにしてできあがったかが記されている。二〇は、民俗的事象が割合多く画かれている絵巻物からその所在を容易に知ることのできるような「絵引」を作ることの必要を説いた文。その後昭和四〇年一月、渋沢敬三編著『日本常民生活絵引』全五巻が刊行された。二一は、昭和二八年八月、『週間[週刊]朝日』企画の「問答有用」に徳川夢声と対談した際の記録である。

 以上の随筆類はいずれも、敬三の見識、心の豊かさと温かさ、学問への愛着などを示す好箇の文章といえよう。 (山口和雄)

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