語られた渋沢敬三

文字サイズ

『東北犬歩当棒録』解題 / 山口和雄

『渋沢敬三. 下』(渋沢敬三伝記編纂刊行会, 1981.08) p.209-216掲載

東北犬歩当棒録 B6・一二〇頁 産業経済新聞社 昭30・5刊

 昭和二九年、敬三は旧制二高の出身である縁で、頼まれて仙台の『河北新報』に一ヵ月にわたつて東北地方に関連する随筆を連載した。本書は、それらの随筆に若干の写真をつけ加えて翌三〇年五月、産業経済新聞社から刊行したものである。一二〇頁余の小著であるが、敬三の人間性、幅の広さ、学問に対する愛着等を示す好随筆集といえよう。その題目をあげると次のとおりである。

東北の金と米 津軽の砂丘
公私用日記 地蔵様と亡児への愛惜
羽後飛島 佐々木喜善
野田ベコ カルデラ十和田湖
ヤチワタ オシラサマ
最上の紅花 菅江真澄
木地屋 伊能嘉矩
キリシタンの痕跡   帆影七里
松森胤保 東北の塩
笹森儀助 草肥え
石神村 “瞑想の松”そのほか

以下、それらの内容を簡単に紹介しておく。

 東北の金と米 秋が来てから春が訪れるまでの、重苦しい冬が南に比べてずっと永い東北の生活は、その昔、とりわけ文化の低い頃には、今から想像も及ばぬほどの困苦限りないものであったろう。しからばなにを好んでこうした北の国に住みつかねばならなかったか。そこには、われわれの気持をはずませるような何かがあったにちがいない。まずあげられる魅力の一つは、東北が古くから重要な金の産地であったことである。そのほか、この地方が主要な米作地であったことも、人々を定住せしめた重要な理由であったろう。

 津軽の砂丘 津軽半島の十三《とさ》港は今はさびれているが、北前船時代には米と木材を京阪地方に積出す主要な港として栄えた。その十三港にもなやみがあった。それは、冬西風が三日も吹くと、岩木山の北麓から海沿いに延びた砂丘が移動して港の機能をまひさせてしまうからであった。「とさの砂山米ならよかろ西の弁財衆に皆積ましょ」は、このなやみを嘆いたうたである。

 公私用日記 秋田県金足村小泉の奈良家は、江戸初期に大和から移住し、七〇町歩余の水田を開いた豪農であるが、同家には寛政から明治時代まで書きつがれた公私用日記が残っている。これによると、同家は最初は耕地を奉公人や日雇を使って手作し、その経営は毎年若干づつ黒字を出している。また、寛政年間には早くも稲虫の駆除に油を使用していたことなどがわかる。このような日記は、今後ほかにも発見されると思うが、学問のために大切にしたいものである。

 地蔵様と亡児への愛惜 津軽平野の村々を歩いて目にとまるのは、地蔵堂である。これらの地蔵には、それぞれ願主があり、その多くは子に先立たれた親たちであった。この地方の人々の若くして死んだ子供たちに寄せる愛惜は、まことに切なるものがある。こうした風習は秋田付近にもあり、屋敷の入口に小さな地蔵堂を見かけることがめづらしくない。その家で死んだ子供たちのためにまつったもので、道ゆく通りすがりの人々、その家を訪れてくれる人々の供養をうけて、成仏するようにとの心からであるという。

 羽後飛島 飛島はかつては北前船の風待ち湊で、天保元年(一八三〇)には寄港の帆船三五七隻を数え、船籍も北陸・山陰をはじめ周防・安芸・播磨・淡路・河内・和泉・讃岐等にわたった。このように栄えたこの島も、昭和初年採訪した頃には暮しの苦しい小さな島となっていた。島の周囲の岩の割目にタコが住むが、このタコ穴の一つ一つそれぞれ持主がきまっていて、時に嫁入道具として娘に譲られるという。

 佐々木喜善 柳田国男著『遠野物語』(明治四三年)のはじめには、「此の話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞たり」とあるが、佐々木鏡石とは喜善氏のことである。氏はその後郷里に帰って民間伝承の採訪調査に力をつくし、数冊の書物を公にした。その調査研究は、開拓者としての辛苦にみちたものであるが、酬いられるところ少なかった。しかし、その後氏の遺業も次第に高く評価されるようになり、昨夏にはお墓も令息たちの手で建てられた由、永く不遇だった氏の霊も喜んでおられるであろう。

 野田ベコ 岩手県北上山中で飼育される牛を野田ベコという。陸中海岸で製造された塩も、この牛の背につけられて奥羽山脈をこえて出羽辺りまで運ばれた。塩のほか、南部の砂鉄からつくったモチ鉄と称するモチ型のインゴツトも運んだ。この方はもっと遠く、越後から信濃方面まで持っていかれたが、この場合は鉄ばかりでなく牛もいっしょに売ることが多かった。牛の角突きで有名な越後二十村の牛の郷里が南部に多いのはこの関係からである。

 カルデラ十和田湖 カルデラの優秀な標本とされる十和田湖でも、近頃はヒメマスの減少が著しい。その対策としては、ヒメマスの孵化とともに、彼らの嗜食するプランクトンを繁殖させることが基盤的条件である。十和田のプランクトンをもっと突込んで研究し、できたらその養殖に乗り出すべきではあるまいか。昨夏、休屋に十和田科学博物館ができた。その設立意図にはいろいろ興味ある方向が示されているが、将来この博物館がプランクトンの養殖研究に手を延ばしたならば、その意義は一段と高まるであろう。

 ヤチワタ 津軽から裏日本を北陸にかけて沼沢地をヤチと呼ぶところが多い。ヤチの底はたいてい厚い泥炭層で、津軽平野の所々ではこの泥炭―ヤチワタという―を掘りとり、乾して大切な燃料にしている。デンマークでも昔から泥炭を燃料としたが、一九五〇年、この国の原野のヤチワタの中から二千年前の人が掘り出された。わが国でもこんな遺物が発見されたら、世界の学界へ大きく貢献することになろう。

 オシラサマ 津軽や南部ではイタコと呼ばれる眼の見えない女がオシラサマという神をもって神おろしを行う。オシラサマは男女二体の神で、心棒は竹のこともあるが、大部分は桑の木で、それに真綿を直かに巻きつけ、その上に数多くの布が着せられている。中には数十枚の布を着せたものもある。こうした点からすると、オシラサマは民間信仰研究の重要な対象であるばかりでなく、近世農村における繊維製品史、染色史にとっても、興味ある資料を提供するものといえよう。

 最上の紅花 古い時代のわが国の染色材料としては、藍と紅花がある。前者は阿波が主産地、後者は羽前最上地方のものが有名であった。江戸時代には多量の紅花が酒田港から敦賀にもたらされ、京都に運ばれて紅の染料となったが、明治以降衰微した。こうした歴史的変遷を明らかにしようとしたのがこの地方の今田信一で、その調査研究にかかる紅花史料は、昭和一六年日本常民文化研究所から刊行された。

 菅江真澄 菅江真澄は三河の人、天明三年(一七八三)二月、三河を発足してから文政一二年(一八二九)七月、秋田仙北郡神代村で没するまで、北日本の村々を旅して尨大な紀行文を残した。この「真澄遊覧記」はたんなる旅行記ではなく、当時の東北の文化や常民の生活について克明に記し、精緻な写生図を載せたものである。したがって、古くから民俗学者をはじめ多くの人々によって問題にされ、研究されてきたが、戦時中から、身体の全く不自由な内田武志なる篤学者によってさらに研究が進められ、未刊の資料が発掘されているのは特筆すべきことである。

 木地屋 東北の木地屋は天正一八年(一五九〇)、蒲生氏郷の転封の際、近江から会津に移住したのが始めとされている。その後彼らは東北各地に拡がった。膳やわんの木地ものをひくかたわら、温泉近くの木地師は土産ものとしてコケシをつくった。オシラサマは東北の村々の信仰神であるが、コケシはこの信仰神の木地屋による民芸化ではなかろうか。

 伊能嘉矩《かのり》 伊能は岩手県遠野の産。若くして坪井正五郎博士につき文化人類学を学ぶ。明治二八年から三八年まで台湾にあって各地の実地調査をなし、三八年帰省した後はその尨大な調査資料を整理し、全三巻三千頁になんなんとする『台湾文化志』を独力で完成した。この書の特色は、これまでの地誌類と異って、文化人類学者としての精緻な観察が織り込まれている点にある。しかし伊能は、この書の完成を前に大正一四年五九歳で急逝した。「東北からは時にこうした、自分ではあまり音をたてない人材が生れる。」

 キリシタンの痕跡 東北のキリシタンには、仙台藩のようにこれを迎え入れて新文化を摂取しようとした土地と、津軽秋田地方のように上方から追放を受けた人々がひそかにおちついたところとがあった。これらの人々は各地で、河川の改修、製塩、製鉄、採鉱冶金などに従ったものが少なくなく、また技術ばかりでなく、ヒユーマニズムに溢れた精神を伝えたものもあつた。慶長一八年(一六一三)、伊達政宗の命をうけた支倉常長一行は、ローマから七哩ほどのチヴィタヴエッキア港に上陸したが、そのチヴィタヴエッキアで、現在長谷川路可画伯によって長崎で十字架にかけられた廿六殉教者の大壁画が画かれている。特筆すべきことである。

 帆影七里 動力船の発達しない時代には、急に時化でも来ると命を危くすることもあるので、漁船は沖ではなるべく集団で作業をした。とくに仲のいい船とは、互いにカタフネを組んだ。カタフネとは助け合いをする船のことである。そして視野の中に船一艘も見かけぬようなところでは、漁をしないことにしていた。船と船との距離は「船影三里、帆影七里」といって、船の姿が水平線に没して見えないほどはなれていれば三里、立てた白帆が見えなくなる程度のところにいれば七里は距っているとし、これを基準にお互の船の距離をはかったのである。

 松森胤保 昭和一七年、日本科学史の編集が学士院によって企画され、専門の学者がこれを分担執筆することになった。その折、生物学史を担当した中の一人江崎悌三博士が、山形県鶴岡に松森胤保という、すぐれた学者のいたのを見つけ出された。胤保は文政八年(一八三七)生れ、明治二五年(一八九二)没するまで、地方行政にたずさわるかたわら、自然科学者として「大泉諸鳥写真図譜」、「両羽博物図譜」、「南郊開物経歴」など、すぐれた著作をものされた。一番敬服するのは、自分の眼で見たものと然らざるものを、判然と区別している点で、当時の漢学的本草家らが、中国の古典に漫然と結びつけて満足したのにくらべ雲泥の差である。

 東北の塩 塩は人間の生命維持にとって必要欠くべからざるものである。東北では、明治に入って瀬戸内海の塩が安く大量に入ってくるまでは、各沿岸で直煮式という原始的な方法で、小規模な製塩が行われていた。できた塩は、北上川などの舟運か、野田べこなどの牛背によって奥地末端まで運ばれ、辛うじて人や家畜の生命が支えられたのであり、貴重なものであった。東北の云い伝えにも、塩を粗末にすると罰が当るとか、目が潰れるとか、出世が出来ぬとか、いうのが広くみられる。

 笹森儀助 東北には名利をこえて、自分たちの住む世界をよりよくするために、その実態を把握して、実践に役立たせようとするような学者が多い。笹森儀助もその一人である。儀助は弘化二年(一八四五)、弘前に生れ、父は藩の目付役であった。明治一〇年代から三〇年代にかけて、北は北海道、千島、シベリアから南は西南日本、南島および沖縄まで旅し、「千島探検」、「南島探検」、「十島状況録」等の書物を書いた。これらの著書を通じ、当時の日本の隅々にいた常民の生活状態を正確にうかがうことができる。

 草肥え 初秋東北を旅して見て、心をうたれるのは、黄色に実った稲の美しさである。その美しさには、西南日本とはちがったものを感ずる。黄色がいかにもすきとおっているように、清純であることだ。これはなぜであろうか。それは、草肥えである堆肥や厩肥などの有機質肥料を多く使用しているので、稲がきわめて健康に育っているためだともいわれる。また、草肥えは、肥料としてのほかに、土中菌の培養基として役立つことも看過できないであろう。

 石神村 昭和八年、秋田の石神村を訪れてみて、そこに間口二一間、奥行九間に及ぶ巨大な農家を発見した。これが斉藤善助家で、同家は一族のほか、名子が三組もいる大家族である。同家の歴史や村の事情などを聞いているうちに、これは各方面からいっそう深く調べる必要があると考えた。それが機となって、やがて土屋喬雄、有賀喜左衛門、早川孝太郎、今和次郎らの学者が出かけて社会経済史、民俗学、民家建築学等各方面から掘り下げて研究することになった。

 “瞑想の松”そのほか 東洋紡の副社長進藤竹次郎は秋田大曲在の産、多年敬愛する先輩の一人である。大正三年二高卒業に際して学校の雑誌に「台の原」と題する一文を草し、その中で、あの朽木型地形の丘陵の端に聳える一本松の傍で、高山樗牛が瞑想にふけった有様を創作した。それを読んだ東北中学の校長先生と市会議員が史跡として取りあげることに思いつき、土井晩翠に相談した。晩翠はそんなことはないと断乎反対したが、しかし思い立った一念はおそろしいもので、とうとうそこに樗牛瞑想の松という碑が建ってしまった。 (山口和雄)

PAGE TOP