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対談 渋沢敬三の仕事と意義 / 網野善彦, 宮田登

『渋沢敬三著作集月報. 5 : 第5巻付録』(平凡社, 1993.07) p.I-X掲載


網野善彦(神奈川大学短期大学部教授・日本常民文化研究所所員)
宮田登(筑波大学教授)

網野 ― 渋沢敬三については、日本常民文化研究所にいた方々はみな、当然ながら非常に尊敬の念をもっておられたと思います。私自身の感想なのですが、渋沢さんの弟子たち、研究所の所員たちは、「自分こそが渋沢敬三を最も良く理解しているのだ」、渋沢の考えていた日本常民文化研究所はこうでなくてはならないということを、それぞれに考えておられたと思うのです。そしておたがいの横の関係があまりよくない場合が多かったんですね。これについては、これからいろいろな議論にもでてくると思いますが、渋沢敬三自身の問題でもあると同時に、日本常民文化研究所がおかれてきた条件の問題、その学問と学界との関係の問題でもあり、いろいろな問題がからんでくると思うのですが、いままでの渋沢敬三像は、彼と接したそれぞれの人々が描いてきた敬三像以上には出ることがなかなかできなかったわけです。

 しかし、今度、著作集が出て、渋沢自身の仕事や発言が多くの人の目に触れる機会ができるようになったのはその意味で画期的なことで、渋沢敬三および日本常民文化研究所を客観化してその実像を明らかにする条件が一応ととのったといえます。編集に携わった一人としてはそれが著作集刊行の意図だったので、実際にお読みいただいた宮田さんから率直な感想をお聞かせいただけるとたいへんありがたいと思います。

宮田 ― 僕自身の個人的経験から言いますと、渋沢さんが日本の人文系学問による日本文化の学際研究を目指す九学会連合の中心的な組織者の一人であり、柳田国男がそこで「海上の道」について講演をし、渋沢さんのスピーチもあったりして、両者が九学会連合でともに具体的な仕事を進めていたということは聞きおよんでいました。しかし、実際に我々が大学の民俗学関係の講義のなかで渋沢さんの仕事について教わるということはなかったですね。つまり、私たちは当時から柳田国男を中心とした民俗学を教え込まれてきたわけです……。また折口(信夫)さんに対しては、折口学といった存在は別格官幣社扱いでしたね。折口学に接する機会は民俗学概論のなかにはほとんどなかった。南方熊楠の場合は変人・奇人の存在としての位置づけだけでした。後に、民俗学の四大人といわれるうちで、柳田、折口、南方など三人の扱いにくらべると、渋沢さんにはやっぱり同時代的な存在感があったと思います。柳田が七十歳代後半のときに、渋沢さんは九学会連合の構想の基礎を広げている。一種のプロモートする力を持っていたという理解が一般的でした。

「常民という言葉は渋沢君が昭和十七年頃に使った。それで自分は後からそれを利用した」という柳田さんの有名なことばがありますが、この〈常民〉という新鮮な――当時はですね――言葉、「常民の学問」という言い方が、渋沢さんの構想の中にすでにスタートしていて、柳田はそれを裏付けとして、常民の学といわれるような稲作農耕文化に、日本文化の本質を究めようとする、そういう民俗学を開いてくるわけですね。

渋沢と民具研究

宮田 ― 渋沢さんのイメージは、柳田民俗学の後継者たちが展開しているような一元論じゃなくて、多元論なんですね。その違いを早くに我々が学ぶ機会を与えられてはいなかった。それから、民具だけを扱っているという印象を日本常民文化研究所は与えられていた。だから、民具を知らない人間は加われないという、逆にそういう枠があった。芸能は折口、民具は渋沢、思想は柳田、比較文化は南方熊楠というような機能分担があったように思える。

 ところで当時、民具というと、なんとなく低く見ちゃうところがあったんですね。大学で民俗学の非常勤講師を頼むときに、民具と芸能の研究者を交互に依頼するけれども、中心は柳田民俗学という構造をとっていますから、民具がよっぽど好きでないかぎりは、若い世代から接近できない世界だという印象をずうっと抱いていた。ただ、今度、著作集を拝見して全然そういうイメージじゃないことがわかったわけです。

編集部 ― 著作集のなかで民具に関して渋沢が言及している箇所は意外に少ないんですね。

宮田 ― そう。なぜ、そういう誤解が離れた世代に生じていたのかというところが、一つの疑問だったのですが……。たとえば「アチック・マンスリー」の昭和十年2号(著作集第3巻)に、渋沢が足半研究――これは民具の最高の研究成果です――の方法論を書いているでしょう。ここに民具研究の方法として七項目を挙げているんです。ここでいう〈民具〉の語を〈民俗〉と置き替えたら、全て通ずるんですね。一つ一つの項目が……。読んだときハッとしました。この論文は、昭和十年八月に書かれている。民具の変化とか分布、発生、それを詳細に論じているんですね。これだけの方法論はいったいどこから生み出されていたのかと、びっくりしました。〈民具〉といわずに、これを〈民俗〉〈民間伝承〉といえば、そのまま正鵠を射た方法論なんです。きわめて論理的な人であるという印象は、これを見るとわかるんです。ところが、〈民具〉という概念において、常民が使うのが民具であり、常民文化を民具というふうに限定するところに問題があったように思う。これは柳田に対する遠慮だったんでしょうか。柳田も民具は渋沢君の方でという発想になっていて、理論的な交流が余りないようにみえる。もともと物質文化は、表面的なモノだけに終わらないことは当然ですね。その背後には、儀礼とか、言語とか、精神文化に関わる問題がある。それを一緒に捉えている〈常民〉という発想であるならば、これは正に民俗学の大道であるわけです。民具をどうしてマイナーのようなかたちでしか、我々は教わらなかったのかという疑問が一つありますね。

 これは、網野さんが積極的に常民社会の漁業史研究に入っていくというアプローチとどこかで関わるでしょう。漁民もまた常民の一部であるわけですから……

柳田国男と渋沢敬三

網野 ― 同じような問題は歴史学のほうにもあるのではないでしょうか。歴史学のなかでは、なんといっても農村史・農業史が主流だったでしょう。そのなかで、漁業史は渋沢のところだということを私も大学時代に聞いた覚えがある。いずれにせよ漁業史は特異な分野だと考えられていましたね。ただ、戦後しばらくは漁業史について、歴史学界も関心を持ったことがあったのですけれども、まもなくやはりマイナーな分野ということになってしまいましたね。しかし、これは渋沢さん自身の姿勢と関係があるのではないかという気がしないでもないんですよ。

宮田 ― それは柳田さんに対する遠慮ですか。

網野 ― そうですね。有賀喜左衛門さんが、『一つの日本文化論』のなかで渋沢と柳田の関係についていろいろ言っておられますが、渋沢は柳田の横にいて、柳田が手を付けなかったことをやったのだということですね……。そういう姿勢が渋沢さんにはある。これがまた渋沢さんの生き方の非常に貴重な特色でもありますが、これが後に問題を残すことにもなる。自分は学者ではない、あくまでも学者が仕事を進めるために自分は何かの役に立ちたいのだという主張を持ち続けているわけですね。しかもそれが渋沢の学問自体の特質にもなっている。たとえば、二人の姿勢の違いは文書史料に関してよく現れていますね。柳田さんは大事なものだけ選んであとは捨ててしまえばいいという考えですが、渋沢さんは後世の学者の関心はいまは決められないからすべてを、という姿勢になってくるわけです。渋沢さんは民具から積極的に民俗学を開いていこうという学問的な野心を、内心は持っていたかもしれないけれども、必ずしも表には出さなかったですね。漁村や漁業の研究の必要を強調して日本の学問に対する批判を随所に述べているし、学者としても立派な仕事をしているけれども、基礎的な仕事を地道に進めていて、体系的な理論を展開してはいないのです。学界の主流が全く取り上げていないけれども非常に大事な意味を持つ民具研究と水産史について、自分は今後の字間の発展のためにできるだけ基礎的な縁の下の力持ちとしての役割を果していくのだと……、そういう姿勢で一貫していますね。

宮田 ― 渋沢さんは、網野さんの解説にもあるように、研究の方法と言わないで〈態度〉と言っている。その〈態度〉というのは学問を大切にすること。学問の本質は史料であると。史料は文献も民具も同じものなんですね。ただ、それをきちんとおさえるというコンクリートな作業は実にまどろっこしい。

 後の民具学というのは、いかにもモノだけというふうに、細かく実測をして、狂いもなく、考古学と同じようにきちんとやる。そういう細かな技術を問題にする民具学は博物館学のなかでは、十分な位置づけがあるんだろうけれど、モノが発散するもの、民具からとらえるコスモロジーみたいな問題をもっと展開させてもよかったんじゃないか。ご本人がそのように控えめで最後まで冒険しないできちんとやっていくという姿勢だと、門下生もやっぱり右へ習えをして逸脱できなくなるでしょう。

 ところで渋沢さんのモノに対する鑑識力というのは、たとえば、文書の一枚の紙を見て眼光紙背に徹するというような、それと同じようなものが民具に要求されている。それは厳しい姿勢として出ているわけでしょう。

モノの背後にある世界

網野 ― たとえばオシラサマに何十枚も被せられている裂を見て、「これは正倉院だ」と言っている。そこに渋沢さんが見ているものは、おっしゃるとおり民具を通してのたいへん大きな世界なのだと思います。これを「正倉院だ」と言っているのは、そこにやはり、背景にある底の深い技術の歴史を見ているわけですね。これは渋沢さんが育った環境と本来生物学を志したという素質からそういう感覚が養われたのでしょうかね。渋沢さんの強みは実業界にいて、「実業」を見ながら「虚業」のほうに深い理解を持っているところだと思います。ただ、渋沢さんは最後まで「自分は実業の世界の人間だ」と自己を限定していく。

宮田 ― そこですね。柳田が考えてるような認識論ではないとしても、やっぱり最終的には、精神というか、思想というか、そういうものに対する強い執着力というか、究明したいという思いがないと、民具だけで終わってしまうという錯覚におちいってしまう。

 著作集第3巻の月報に作家の山崎豊子さんが書いていますが、渋沢さんが『暖簾』を書いた山崎さんを料亭に招待したときに山崎さんが「自分は経済学のけの字も知らない」と言うと、渋沢さんが「日本の経済史は理論やモノだけで構成してて、結局いちばん必要なのは心の問題だ。それがわからなくちゃ経済史はできない。それを日本の学者はやってない。で、あなたの小説を読ませたい」、そういうことを言っているんですね。それがすべてにあるんじゃないでしょうか。

網野 ― 渋沢さんが「自分は学者じゃない」と言いながら、モノそのものの中にこもっている心の問題をとらえて、柳田・折口の学問に対してモノの大切さを主張している。しかし非常に謙虚にそれを持ち出していますね。学者としては学問の体系をつくろうとはしていない。それが渋沢さんの生き方だったのでしょうね。だから、たとえば塩の民俗にふれた『塩俗問答集』序を読んでみるとよくわかるけれど、心の世界にものすごく深く立ち入っていますよ。たとえば「塩は神様には祀られない。魚は神様に祀るけど、塩は神様にならない。なぜか」ということを言っている。こんな問題はまだ誰にも解決できていないでしょう。そういうことを言えるだけの力を持っているけれども、それを体系的に発言して誰かに納得させる、学界に承認させようという意欲はもともとないし、それは自分の分ではないと言いつづけているわけです。

常民という概念

宮田 ― 渋沢学というふうにいってないでしょう。それはそれで正しいんじゃないかと思います。こういうかたちで学派をつくってきて、そうして柳田国男に遠慮されてなんとなく位置づけを別にしているというところが、やっぱりそれは謙虚でもあるけれども、たとえば後年、柳田の〈常民〉が、ひっくり返されてくるでしょう。ところが、その常民の構想は渋沢さんがすでに一つの結論といいますか、それは言ってるわけですよ。柳田は、それを採用していると言いながら、実質上、農民一本やりにいっちゃっている。渋沢さんが言っているのは、あらゆる国民の階層にかかわる〈常民〉であって、山民、海民、それから都市の職人とか、全部含めているわけですね。そういう見方をしていながら、柳田民俗学の場合は、農民だけにしぼってしまった。これは柳田自身が日本文化の本質が農村にしかないとして、急速にそこへ凝集していった時期につかわれているから、自然とそうなっちゃったわけです。ところが近年、その呪縛からようやく解き放たれつつあるわけです。昭和十七年に渋沢さんが〈常民〉と名乗ったのが、その本来の姿に戻りつつある状況でしょう。柳田民俗学の常民の呪縛から解き放たれている。そもそも渋沢さんが唱えていた学問のおおらかさといいますか、そこに戻りつつある……。いま、それを若い世代が展開させる時期なんですね。だからこれは、若者たちが読まなくちゃいけない本なのです。

網野 ― ほんとにそうです。若い人に読んでほしい本です。渋沢さんの常民は、いまおっしゃったとおり農民じゃないんですよ。私はいまこわれたレコードみたいに「百姓は農民じゃない」なんて言いつづけていますけれども、これは渋沢さんを意識して言いだしたのではないけれども、渋沢さんの見方に影響されてきたおのずからの結果でしょうね。渋沢さんがなぜ〈百姓〉という言葉を使わなかったか、なぜ〈庶民〉とか〈平民〉という言葉を使わないで朝鮮の言葉ではないかと思われる〈常民〉といったのかは、考えてみると実に周到な用意が渋沢さんのなかでなされていたことがわかる……。どこまで渋沢さんがそれを意識していたかどうかは別としてこれは確かだろうと思います。横文字ではコモン・ピープルだと言っている。百姓はコモン・ピープルですからね。百姓を農民に限定するという常識から渋沢さんは解き放たれてたことは間違いないと思うんですよ。

宮田 ― そういう意味で渋沢さんには先見の明がありますね。

網野 ― 「日本広告小史」なんて、渋沢さん以外誰もまだ書いた人がないのではないかな。こういう発想はこれまでの経済史学や歴史学からは出てこなかったのです。そういう発想自体、驚くべき直観力に支えられている。それだけに、最初に言いましたように弟子たちはそれぞれに〈渋沢〉〈常民〉の旗印を掲げてね。これこそが渋沢学だとおっしゃるわけです。これは学派をつくろうとしなかった渋沢さんの、逆説的にいえばマイナス面だったのかもしれない。学派ができれば、横のまとまりができるでしょう。ところが渋沢さんは学派をつくらない。それだけに横のまとまりについては人一倍、渋沢さんは気にしていて、「君たち、友達がいい仕事をしたときに、それを心から喜べる人間になりなさい。同じ研究所員の中で、そのような間柄になってほしい」と言い続けておられたらしいですよ。

宮田 ― 内心、わかっていた……。

網野 ― よくわかってたのではないかと思いますよ。それが渋沢さんのジレンマだったのではないかと思いますね。自分が学問的に領導してある方向に引っ張っていこうという気は、もともと放棄している、というよりむしろ禁欲している。そういう状況の中で渋沢さん自身は実際にいろいろな面で素晴らしい勘を発揮して発言する。それに弟子たちはそれぞれにひきつけられてみなそれなりに渋沢さんを解釈し、それを主張して時には対立する。渋沢さんは苦しかったと思いますよ。さきほどのような渋沢さんの所員に対する言葉はその苦しさを表現しているのではないかと私は思います。だから渋沢さんを本当に継承しようとしたらたいへんな苦しい道を歩まなくてはならないことになりますね。

宮田 ― それは何かやっぱり、創始者のもつ宿命的な問題でもあるんじゃないでしょうか。柳田民俗学もそうでしたね。

博物館構想

宮田 ― もうひとつ、渋沢自身はもう少しつっこんで、たとえば博物館構想を持っているんです。延喜式博物館、野外博物館とか……。一部は国立民族学博物館につながるわけですが、民博だって、渋沢さんの、ああいう文化史的な背景を生かしている博物館とはいえないですね。歴史性は無視されている。

網野 ― 民博は成功したほうでしょう。渋沢さんは、自分の集めた蔵書や資料を決して自分で抱え込もうとはしなかったんですね。それを種にしてあとは国や自治体でやれというやり方で一貫してきたのだと思いますよ。民博もそれでできたのではないかと思います。文部省史料館、いまの国文学研究資料館も、渋沢さんの蔵書が種になっている。水産庁の水産資料館も同様なんですね。

宮田 ― いちばんの理想、つくりたいと思っていた延喜式博物館というのは、どうなってたんでしょうかね。

網野 ― その手はじめとして『延喜式』の水産物の研究を渋沢さんはやっていますが、現実的には完全な夢で終ったのでしょうね。しかし、ほんとに延喜式博物館をつくれれば、渋沢さんは地下で大喜びしてくれると思うけども、これは大事業ですよ。本気でやったら、想像を絶するたいへんさだと思いますよ。

宮田 ― でも、もしそれができたら日本文化のさまざまな面がわかるんですね。モノと文献と伝承を通して、多方面から日本文化のトータルな姿がわかってくる……。レプリカも可能なんですからね。

網野 ― 『延喜式』にはモノのつくり方もある程度書いてありますからね。しかも律令にない贄の魚とか、いろいろな問題がみな出てきますから。これを精密にすくい上げて博物館にしたら、日本の社会や国家の構造を浮き彫りにできると思いますよ。

宮田 ― それから海人の持っている国際的な広がりまで全部入ってくる。

網野 ― 渋沢さんが偉いと思うのは、「『民具問答集』まえがき」でふれていますが、民具を研究しはじめてみたらこれはたいへん奥の深い問題だということを感ずるわけですね。民具資料がたくさん集まってきたけれども簡単に体系化することはできないことがわかる。そうするとこれは金がかかるかもしれないけど、長い眼でやらなきゃだめだというので、パッと資料集にはしないで問答集にしている。この見識ですね。つまり、百年を見通して論じなくてはならないということをこのときにはっきり認識するわけですよ。これはやはりたいへんな見識だと思いますけれども……。

宮田 ― いまの話で連鎖的に思い浮かびましたが、パリのギメー・ミュージアムを作ったギメーが幕末の日本に来て、道端に転がっている小さな神仏を集めた。神仏分離令で廃棄処分になったものですね。それらを集めてフランスへ送った。国へ帰るときに、ギメーが「百年後には、日本人はおそらく深い後悔の念を禁じえないだろう」と言った。つまり廃仏毀釈で捨ててしまったものを拾い集めているわけだから……。それと同じことなんですね。民具が持っている通時的な価値、日本的思考というか、そういうものが低く見られていたわけでしょう。庶民の扱ったものにどんな高い価値があるかという点が忘れ去られている。これは民芸にも共通していて柳宗悦もそうですけど、彼はむしろ美術品として観ているでしょう。渋沢さんはそうじゃない。民俗文化としてとらえていた……。

網野 ― 南方熊楠にしても、いまでこそブームになっておりますけども、敗戦後、南方さんに最初に眼を付けたのは渋沢さんなんですね。南方ソサエティを作っている。日本文化はいま元気がなくなっていると、朝日新聞の「きのう きょう」欄(著作集第3巻)に書いていますね。この元気を起こすには、南方先生でなくてはならないって……。あの感覚にはやはり感心しますよ。

宮田 ― 柳田も南方の偉大さがわかっていて、尊敬してましたが、積極的には南方の学問をどうこうするということはしていないんですね。むしろライバル意識のほうが強い。自分よりすぐれている発想を持ってるからでしょう。そういう点、虚心坦懐なんだ、渋沢さんのほうは。これは素晴らしいものだと。南方全集を最初につくったのは渋沢さんでしょう。

網野 ― 渋沢さんは、ライバル意識を持っていない。それは彼が自分は学者ではないという気持ちを徹底して持とうとしているからです。渋沢さんに、学者になろうという意欲がないといったら嘘になると思うけれども、しかし、それを徹底的に禁欲している。自分は柳田さんの欠けたるところを補おうと……。南方についても、自分がやらなければという気持ちですね。これはライバル意識を持たないところに自分を置いたがゆえにできたことだと思います。しかし、弟子たちは常にライバル意識に囚われるんですね。だから「友人がいい仕事をしたら、心から評価し、喜んでやれる人間になれ」と渋沢さんが言い続けたのは、私にはよくわかりますね。

編集部 ― どうもありがとうございました。

(一九九三年五月)

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