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石の地蔵さん / 山崎豊子

『渋沢敬三著作集月報. 3 : 第3巻付録』(平凡社, 1992.10) p.I-III掲載


 故渋沢敬三氏は、私の処女作『暖簾』を昭和三十二年春に出版した時、まるでPTA会長のように温かいお心とお励ましを戴いた。

 当時の大阪商工会議所会頭の杉道助氏が発起人になって、毎日会館ホールで、新人の私にとっては盛大すぎる出版記念会が催されたのも、戦前戦後を通じて、日銀総裁、大蔵大臣を歴任された渋沢敬三氏と杉道助氏との交遊から端を発したものに他ならない。

 或る日、渋沢氏からお電話があり、「小説『暖簾』を東大経済学部の学者たちに送って、読むようにすすめましたよ」と云われ、私は仰天した。「文学部出身で、経済学のけの字も知らぬ私が書いた小説を、専門家の経済学者に薦められるとは、とんでもないことです」と申し上げると、「山崎さん、日本の経済史が駄目なのは、経済の理論を研究するだけで、経済を築いた人々の心の内側の問題をおき忘れているからなんですよ、それを観察するのには小説『暖簾』が最適だと考えて、経済史学者の友人たちに送ったのです」と云われ、私ははじめて経済史に対する啓蒙を受け、頭が下った。

 後日、その御礼を篭めて、ご自宅に伺いたい旨を申し入れると、「今は暇だから、いつでもいらっしゃい、お待ちしますよ」と気さくに応じて下さった。そのお言葉に甘えて、東京・三田綱町の渋沢邸をお尋ねした。広大な敷地の正門は固く閉され、ようやく、裏門のベルを押すと、中年の男性が出て来られ、やや当惑していると、背後から「やあ、山崎さん、遠いところをよく来られた、これは元《もと》、馬丁が住んでいた家で、以前の広い方は財産税(戦後の財閥解体)に納めてしまったのですよ」と、和洋折衷の広い建物を眼で指しながら、さばさばとした口調で云われた。

 あっ気に取られながら、四帖半ほどの玄関を上り、座敷へ入ると、天井から釣糸、テグス、ウキ、錘などが処狭しと吊り下げられ、壁面にも拓魚、天秤、釣竿、自在かぎのつり手などがかけられ、座敷一杯に藁で作った雪帽子や背負篭などが置かれている。その幾つかについて、詳しく説明して下さった。当時、寡聞にして、渋沢氏が民俗学者として専門の域に達しておられ、『民具』という用語をはじめて採用されたことも知らなかった私は、何とご趣味の広い方だろうと感じ入ったのを覚えている。したがって、今回、『渋沢敬三著作集』の発刊に際して、一文をと求められた時、民俗学にいささかの造詣もないので、ご辞退したい旨をお答えすると、随筆、書簡の巻にということで、敢えて拙文を寄せさせて戴いた次第であり、渋沢氏の学識、人品人柄をお偲びすると、汗顔の至りである。

 亡き小泉信三先生をご紹介戴いたのも、渋沢氏である。そのご紹介の仕方も、氏独特の風流ななさり方であった。

 突然、お電話がかかり、「今、大阪に来ているから、遊びにいらっしゃい、あなたと親しい杉さんも一緒に、南の大和屋《やまとや》にいますからね」とおっしゃった。当時、まだ若かった私は、大阪・南のお茶屋、大和屋へ一人で出かけるのが躊躇《ためら》われたが、たまたま、小説『ぼんち』の中の『芸者読本』の取材で、大和屋の主人、阪口〓[示+右]三郎氏にお目にかかったことがあったから、和服に着替えて、出かけて行った。案内されたお座敷には、既に芸者衆が入って、華やかであったが、その中に、顔の半面にひどい火傷の跡がある紳士が泰然として坐っておられた。渋沢氏は、「やあ、久しぶりですね、こちらは小泉信三さんですよ」と紹介された。私は思わず、体が硬くなった。常々、戦前の慶応義塾出身の長兄が、小泉信三先生の偉大さを、まだ女学生であった私に熱っぽく話していたからだった。

 その小泉先生に、渋沢氏はいとも気さくに紹介され「小泉さんは、あなたの『ぼんち』の愛読者ですよ」とまでおっしゃったので、ますます硬くなると、「さあ、『ぼんち』の作者が現われたから、いっそう華やかなお座敷にしようじゃないか」と手拍子を取られた。そして、自らたち上って、氏の十八番《おはこ》である『石の地蔵さん』をうたわれながら、瓢々たる風情で野辺の地蔵さんの容《すがた》を踊られた。


 石の地蔵さんに団子《だんご》をあげて
 どうぞ良い子の出来るように
 そこで地蔵さんの云うことにゃ
 団子じゃいけない餅あげろ


 踊り終られ、静止された一瞬、私は思わず、息を呑んだ。野辺の地蔵尊の慈顔そのものに出遭う思いがした。おそらく、それは氏自身の心の中にある無私無欲、瓢々たる人柄、庶民の民俗学を愛される心と結びついたものであったからだと思う。

 『暖簾』の発刊時から、“石の地蔵さん”まで、私が、氏の見識と人柄から教わったものは、今以って、心の襞の奥深くに刻まれている。

(やまさき とよこ/作家)

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