語られた渋沢敬三

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『犬歩当棒録』解題 / 河岡武春

『渋沢敬三. 下』(渋沢敬三伝記編纂刊行会, 1981.08) p.207-209掲載

犬歩当棒録 A5・五八九頁 角川書店 昭和36・9刊
――祭魚洞雑録第三――

 本書は副題よりすると、祭魚洞雑録(昭八・一二)および祭魚洞雑考(昭二九・九)につづくものである。まえがきにはつぎのようにある。

 読みにくいお家流で書いた百人一首の下の句の札を「おちらし」で二、三枚も取れる頃おいまでは「いろはがるた」の世界でありました。「犬も歩けば棒に当る」とは歩いているうち予期せぬことにぶつかることをも意味するのならば、犬すなわち筆者が五十数年の間その時々、その所々、フラフラと、かつ、ウカウカと歩きまわっているうちにぶつかった棒の塵が積ったのが本書で「犬歩当棒録」と名づけた所以であります。

 この犬歩当棒は著者の気にいった語らしく昭和三十年五月に『東北犬歩当棒録』を産業経済新聞社から出版している。

 上記につづいて「常日頃御懇情をこうむった各位、また今般の病気について御心配と御好意をいただいた各位に何かお返しのよすがと思ったことが本書作成の動機であります」と書き、最後に「健康も回復しましたので、この先又ブラブラと歩いて参りたく存じております」と結んでいる。

 本書が上梓された後、筆者も一本を頂戴したが、「これは贅沢な本だよ」とある時、仰言った言葉が耳にこびりついている。と云うのは、本書の体裁、構成を見て、死を準備した書物だと直観的に思ったからである。さて、その構成は、第一部犬歩当棒録第二部雁信集〔中山正則兄宛等〕第三部旅譜と片影となっている。

 第一部は六十二編から成り、最も初期の高橋文太郎著「山と民族」序(昭八・六)から、郷野不二男著「くす風土記」(昭三六・四)であり、多く書物の序文あるいは親しかった故人の思い出、追悼が多く集められており、前掲の『祭魚洞雑考』から再録したものがかなりある。その他は、『雑考』以後のもの、また朝日新聞「きのうきょう」欄よりの採録などである。なお第三部は、敬三の還暦紀念として編まれた渋沢家の人びとを中心とした写真集『柏葉拾遺』の巻末に付された敬三の旅譜に写真を加えたものである。なお一、二部は写真が多く挿入されており、縮めて言えば、本書を見れば渋沢敬三の生涯が一おうわかる、といった構成と云えようか。そのために従来の祭魚洞雑録(一)(二)より版形を大きくし、活字も9ポから8ポと小さくした。そして装釘は地味ではあるが凝ったものになった。

 昭和三十五年十月末、父渋沢敬三は九州を旅行中、熊本で発作を起して倒れた。高血圧、心臓障害に加えて腎臓もかなり侵されていることがわかった。絶対安静のまま東京に運ばれ、東大の沖中内科に入院した。日ごろ丈夫で、ほとんど病気らしい病気をしたこともなかった父にとって、この発病は精神的にもかなりのショックであった」。以上は『父・渋沢敬三』の第一章死に到る病の冒頭の言葉である。

 そして、二ヵ月あまり入院の後、ひとまず退院した。これは想像であるが、その折に本書をまとめる決意をし準備を始めたと思われる。十ヵ月たらずで刊行まで漕ぎつけた。たいへんな意志力であった。

 だから本書は、渋沢敬三と対話をする本といえようか。この書物をひもどくと渋沢の肉声を聞くことができる。つまり書評の対象となった著者や偲ばれた故人に書かれた文章は、敬三の人間観照のすばらしさを教えてくれる。「他人《ひと》を書くことは自分を描《か》くことだ」とある人から教わったことがある。文字どおり、生物学的人生観の所有者にふさわしい。

 尨大な旅譜は、敬三の行動記録の要約である。本書は「渋沢敬三そのひと」と言っても過言ではない。一見、ふつうの書物のように第一頁から読むといった本ではないかも知れない。そうならば拾い読みをしても面白い。そのどこにも敬三が居るから。 (河岡武春)

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