語られた渋沢敬三

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『南米通信』解題 / 河岡武春

『渋沢敬三. 下』(渋沢敬三伝記編纂刊行会, 1981.08) p.203-206掲載

南米通信 B6・三三七頁 角川書店 昭33・7刊
――アマゾン・アンデス・テラローシャ

 テイヤール・ド・シャルダンの『現象としての人間』(美田稔訳)にN・M・ウィルディールズが寄せた序文の冒頭はつぎのようにある。

 生涯を科学の探求にささげる科学者は、晩年にいたってその多様な観察と思索を調和のとれた体系にまとめ、またこうして少しづつ築きあげてきた自分の世界像に形を与えたいという気持を抱くものである。こういった綜合への欲求は、自分の研究や思索の対象が科学全体の発展や人間存在の重要な問題と密接な関係にあればあるほど、ますます強まってくる。

 渋沢の『南米通信』を再読、三読して想いうかぶのは右の言葉である。著者は聖職者で古生物学者北京原人の頭骸骨が発見された周口店の発掘研究の指導者であった。

 渋沢の学問的基盤は生物学であり、彼はある意味では科学者である。本書は他のどの書物よりも敬三の生物学者であることを如実にわれわれに知らせてくれる。もちろん渋沢の学問はひろい。民族学者でもあり、経済学者でもある。また学者であっただけでなしにバンカーであり、以上が綜合されてある。それだけに「晩年にいたってその多様な観察と思考を調和のとれた体系にまとめ」る気持をもっていなかったとは言えない。彼の学問、研究や思索はたしかに「科学全体の発展や人間存在の重要な問題と密接な関係」で考えられていたことは、敬三を知るほどの人ならすべて知っていたと思う。しかし、その多様な観察と思索を調和のとれた体系をまとめ」るために、天はその齢をかさなかった。

 渋沢が中南米の移動大使になったいきさつを「まえがき」はつぎのように述べている。

 東京商工会議所会頭として国際電信電話の取締役だった藤山(愛一郎)さんが、昨年(昭和三十二年)七月外務大臣就任とともにその辞任のあいさつかたがた会社に来られた時、「君ちょっと」とわきによばれ、こんど移動大使としてさしずめ小林中さんに東南亜、君に中南米に出かけてもらいたいのだが、僕の初人事ゆえまげて承知するようにたって頼むとのお話であった。寝耳に水の感はあったが、前々から藤山さんから頼まれたことの大部分はいろいろの事情で殆んどお断りばかりしていたし、こちらの頼みはみんな聞いて頂いていて大部借りがある気もしていた所なので、自分が果して適任かどうかは別にして、ついお引受けしてしまった。外務省ではアメリカ局第三課の小村康一事務官がラテンアメリカ担当の一人であり、かつてサンパウロにも駐在されたところから一緒に行っていただくことになった。約一月文字通りの泥縄勉強らしきものをして八月十日の夜羽田を立つことになった。……

 さて、中南米の面積合計は日本の五十五倍あり、予定日数の六十日余で割ると、日本の四つの島を一日半で見るに等しい。これ以上のラピトサッドヴェイはたとえ飛行機を利用しても、そうザラにはあるまい。そして本書は第一信から第十六信までと付録によって構成されている。もっと詳しく云うと、上記の移動の中で、三、四日に一度の割合で友人の中山正則氏に書信のかたちで報告し、知友にも回覧してもらう方式をとった。これは賢明な方式で、発案者は穂積陳重でこれにならい、彼のロンドン時代でも一部は『祭魚洞雑録』におさめられた「伊太利旅行記」などでやっていた。――帰国してあと手を入れれば一おうまとまるこの方式は、一方では読みやすくもある。

 藤山外務大臣から上記の依頼があった時、即答にちかいかたちで承諾したのは、あるいはダーウインのビーグル号航海記の周航地域の主要地がチリーとペルーであり、機上から、もしくは車を駆れば見られるのではないかとの期待があったと思われるがどうか。泥縄勉強の中には内山賢治訳(新潮文庫本)がまずあったに違いない。それに符節をあわすようにダーウィン:ワーレスの百年記念であった。第九信ではチリとペルーに関する部分を抄録して回った地域のことを書いている。

 本書の紹介はNHK「南米通信座談録音」が『犬歩当棒録』に採録されており、これによると理解がやさしいと思うので、一部を引用さしていただく。まず司会の大宅壮一氏が「去年サンパウロで開かれた日本の移民の五十周年記念に移動大使として、かたわら南米各地の日本人の経済状態を視察して帰ってこられて書かれた本が、この『南米通信』なんですが、まあ、その経済的な面、日本人の移民、あるいはまたプラント輸出では活躍している面がかなり詳しく紹介されているばかりでなく、民族学、あるいは動物学・植物学・考古学、あらゆる面から見た南米各地の珍らしい問題がとりあげてられている。……」これだけですね、広範囲に取り上げた南米通信というのはちょっとないと思いますね」と言っている。

 また近年、故人になった植物学者で民俗学者でもある武田久吉は「とにかくこの著者でなければ書けないと思います。これだけのものは。しかしあまりに内容が豊富過ぎるくらいですね。……現に私どももね、この本を読みましてね。相当な辞書をかたわらに置かなければ、全部がほんとうに了解できない点が多々ありましてね。自分の無知を感じるようなわけですけれども。実際ありとあらゆるものを扱ってある。こういう書物はりっぱな本で日本でも類が少ないんじゃないかと思いますがね。これを骨子としましてね。もう少しある点を敷衍して説明的に書かれたら、それこそこれに引用してあるダーウインの世界一周記のような、これに近寄ったものができるんじゃないか。ことにあの時代と違いましてさし絵が豊富にあるということ、これは日本の本としてけっこうなことだと思いますね」「……この本を見ますと非常に目を開いてもらえるですね。南米の概括的なことがわかりますしね。特に私の専攻の自然科学、動物とか、ことに植物ですね。植物のことがたくさん出てくるでしょう。それでおもしろくてたまらないですけれどもね」と科学者として最大級の讃辞をのべている

 さらに武田は言っている。「それに今年はね。丁度ダーウィン:ワーレスの一〇〇年でしょう。それにダーウインのことがたくさん出てきたんですね、私は非常にうれしかったんですよ」。また「民族学っていうことをやりますとね。まず非常に間口の広い学問ですからね。何にもかもいろんなことをかじらなければできないわけですね」

 右の武田久吉は、幕末から明治維新にかけて活躍したアーネスト・サトウの次男で、彼の生立ちからその後の事績が、萩原延寿著『遠い崖』I(朝日新聞社)で明らかにされた。

 それで大宅の発言でしめくくると「それからまあいろいろ、動物学・植物学、実に詳しいんで、それからまあ全体としてこれだけ多方面の知識を持って、しかも非常に世間的地位が高いということですね。社会的地位の高い、財界・攻界の有力者なんていうのは、あんまりこういう知識のないもんですがね。」 (河岡武春)

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