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木内信胤氏追悼 / 渋沢雅英

掲載:2014年10月21日

目次

 1. 母の思い出から
 2. 鴻之台(国府台)の住まい
 3. 木内家の人々
 4. 木内重四郎氏とのこと
 5. 父・渋沢敬三とのこと
 6. 信胤氏の生き方
 7. 敬三の生き方 : おわりに

2004年2月26日、工業倶楽部におけるスピーチより

1. 母の思い出から

木内信胤(きうち・のぶたね、1899-1993)さんのように複雑で強い性格をお持ちで、しかも大変長生きされた方のお話をすることは非常に難しいことで、特に私にとってはたいへん僭越なことと思っています。しかし先日来、孝さんから「たって」というお言葉がありましたので、あえて思い出の幾つかをお話しして、責めを塞ぎたいと考えております。

私の母親、渋沢登喜子(しぶさわ・ときこ、1902-1994)は木内さんの3歳年下の妹でした。たいへん仲の良い兄妹で、明治時代のいわゆる良家の子女が身につけていた独特のエートスを共有していることを、私は子供の頃から感じていました。二人とも多方面の才能に恵まれ、語学にも堪能で、優れて国際的でもありましたが、心の深い部分には、この国の将来を本気で心配するまっとうな心を持っているようでした。

90歳を超えてからでも、いつも内外の情勢について私に質問し、いい加減な答え方ではなかなか満足してくれませんでした。勿論男と女の違いがありましたし、それぞれの長い人生を取り巻く環境も、大きく違っていましたので、母が信胤さんのご意見にすべて賛成していたというわけではありません。しかし心情的には、少なくとも母の方では、信胤さんに非常に近いものを感じているようでした。

したがって1993(平成5)年12月6日、信胤さんが亡くなられたときの衝撃は、大変深いものでした。91歳という高齢で、お葬式にも行けませんでしたし、口に出しては特に何も言わず、声を上げて泣いたわけでもありません。しかしその時を境に、それ以上生き続けて行く気力を失った事は明らかでした。3週間あまり経った大晦日の午後、俄に体調を崩し、元日の夕方、二人の娘達に見守られながら静かにこの世を去りました。

2. 鴻之台(国府台)の住まい

先日古いアルバムのなかから、市川の鴻之台(国府台)と言う高台にあった木内家の広大なお屋敷の庭に、大勢の家族が集まっている写真が出てきました。私の父、渋沢敬三が書き添えた註書きによれば、それは1939(昭和14)年の春、信胤さんが正金銀行のロンドン支店での勤務を終えて帰国されたのを機会に、在京の家族が揃ってご家族を歓迎したときの記念写真だったようです。

信胤さん御一家のほかには、長女の山内美艸子さんご夫妻とご長男の忠さん、良胤さんの奥様とお子さんの昭胤さん、友子さん、一番下の弟の高胤さんご夫妻、それに私の両親と二人の妹の顔が見えています。信胤さんのお子さんは、上海生まれで9歳になる小学生の宏さんと、ハンブルグ生まれで5歳の孝さん。昭胤さんは12歳くらいだったのではないかと思います。どういうわけか良胤さんのお姿が見えませんが、写真を撮っておられたのかもしれないし、それともまだ海外におられたのかもしれません。いずれにしてもその頃のご両家は海外での生活が多く、お子さん達は今で言う帰国子女で、英語、フランス語などが飛び交う、マルティリンゲルな集団でした。

久しぶりにその写真を見ていて、私は自分がそのときのことを、不思議なほどはっきりと覚えている事を発見して驚きました。信胤さんは茶色っぽい粋なジャケットにグレイのフランネルのズボンと言ういでたちで、お背も高く、ハンサムで、育ちのよい英国の紳士を見るようで、大変感心しました。自由で、独立して、日本離れがして、いわゆるサラリーマンという型には全くはまらない人物だということが、私にも一目で分かりました。

鴻之台のお屋敷(*は大正も終わりに近い頃、お父様の木内重四郎(きうち・じゅうしろう、1866-1925)さんが贅を尽くし、心を込めて建てられたものだということです。遠く悠揚たる江戸川の流れを見下ろすお庭には広い芝生がひろがり、市川の町から丘を登って車寄せに至る長いドライブウェーは、うっそうたる森に覆われ、丘の下には広い農場もあって、英国のいわゆるマナー・ハウス(manor house)を思わせる、文字通りの別天地でした。お庭の植木も、重四郎さんがみずから丹誠込めて計画し、植えられたものだと聞かされました。

玄関を入った突き当たりの壁には、たしかモーリス・ドニ(Maurice Denis, 1870-1943)と言うフランスの有名な画家の大作がかかっており、お庭に面した美しいガラス張りのラウンジは、大正時代の画壇に名声を馳せた石川寅治(いしかわ・とらじ、1875-1964)画伯による壁画で飾られていました。山や森や湖など、西洋風の景色が、淡いブルーやうすい緑で描かれた美しい絵だったように記憶しています。

3. 木内家の人々

木内家の皆さんはそれぞれ才能豊かで、お母様の磯路さんは若い頃から河合玉堂(かわい・ぎょくどう、1873-1957)について日本画を学ばれ、素人の域を遙かに超えているという評判でした。ところが私の母が女学校を卒業する頃から洋画を習いたいと言いだし、先生には石川寅治さんをお願いすることになりました。しかし当時帝展審査員、太平洋画会の幹部会員として世にときめいている石川先生を、娘一人のために市ヶ谷の自宅までおいで頂くのは申し訳ないというので、磯路さんご自身も洋画に転向し、良胤さん、信胤さんを含めて4人で月に一回、石川さんを招いて勉強することになりました。よほど嬉しかったと見えて、母は晩年になってそのときのいきさつを詳しく書き残しています。

駿河台の文房堂という当時有名だった画材の店に、思い切って一人でゆき、水彩の絵の具や絵筆、スケッチブック等を4人分買ってきました。ところが石川氏が来られると、初心者には水彩よりも油絵の方がよいと言われ、急遽方針が変わり、4人がそれぞれ好みの画材を描いて、月に一度来られる石川さんに見て頂くというルーティンができたようです。

信胤さんはもともと画才がおありだったと見えて、風景や生物など幾つかのすぐれた作品を拝見したことがあります。数年前思いがけなく孝さんから、信胤さんが娘時代の私の母を描いた絵が見つかったので、青森県の三沢に移築された、私どもの昔の三田の家に寄贈したいと言うお話があり、ご家族お揃いで、遠路をわざわざ青森まで持ってきて下さいました。

17歳くらいでしょうか、えんじ色の和服を着た母の立ち姿には、大正時代の若い娘のういういしい雰囲気が手に取るように写され、素人離れした信胤さんの技量のほどを示していました。結婚前の、清楚で情感のあふれた若い母に、思いがけず出会う形となった私は、ひとかたならず感動しました。

信胤さんは1917(大正6)年に附属中学を卒業しておられますので、その頃は一高の学生だったと思われます。野球部に在籍して目ざましい活躍をされたことが広く知られております。京都の三高など有名校との試合があるたびに、「内村投手・木内捕手」というゴールデン・コンビが天下の野球ファンを涌かせていました。先日孝さんとお目にかかったとき、信胤さんが、ここぞという大事な試合で、球場を埋めつくした観客の前で3塁打をつづけて二度打たれたことがあり、一生でこれほど胸のすくことはなかったと述懐されたというお話を伺いました。

4. 木内重四郎氏とのこと

ところが1918(大正7)年には、その頃京都府知事をされていた木内重四郎氏が、疑獄事件に巻き込まれるという、尋常でない苦難を経験されることとなりました。後になって私は母親からそのときの衝撃的な状況を詳しくきかされ、そのことが木内家全体、なかでも多感な年頃の良胤さん、信胤さん、そして登喜子と言う3人の兄妹の人生にもたらした苦痛の深さを知らされることとなりました。

事の発端は、重四郎氏が一人の府会議員から子供の教育費の支援を求められ、全くの善意で500円を渡されたことが、折から京都府で進行中だった大がかりな疑獄事件との関連で、検事局からねらい打ちされたのだということでした。事件の詳細や、当時の検事局の過酷な取り調べの実態については、馬場恒吾氏著『木内重四郎伝』(ヘラルド社, 1937.10)に詳しいのでご参照頂きたいと思います。

木内氏は不本意ながら知事の職を辞任され、1918(大正7)年9月、京都地方裁判所の求めに応じて出頭されたところ、午前10時から午後7時まで検事の厳しい尋問を受けたあと、思いがけずそのまま京都監獄に収監されてしまいました。

母の言葉によれば、それまで明るく幸せだった家庭が、突然火が消えたようになり、重四郎さんからの連絡が全くない中で、身を焦がすような心配と恐れの中で、お互いに話をすることもはばかられ、家族全体がじっと押し黙って不安な毎日を過ごすようになったと言うことです。

当の重四郎氏は「豚箱(ぶたばこ)」とよばれ、当時悪名の高かった極端に狭い監房にとじこめられ、家族との文通や、弁護士との接見も許されず、虚偽の自白をしない限り無期限に拘束するという理不尽な脅迫を受けながら、3ヶ月以上を獄中で呻吟されました。東京のご家族は毎日のように激励や慰めの手紙を書き、心を込めた差し入れの品々を贈られましたが、すべて検察に没収され、ようやく12月8日になって良胤さんからの手紙を一通だけ読むことを許されたということです。それはまさしく拷問であって、重四郎氏も、このままでは獄死してしまう可能性もあると考えられ、前言を翻して検事の主張を認める書類に署名され、12月11日、在監77日目にようやく仮釈放となりました。

裁判は1919(大正8)年10月22日から翌年10月26日まで一年の間に58回に及ぶ公判が行われました。馬場恒吾氏によれば、このときは木内氏を始め、多くの容疑者への暴力的な取り調べに対する非難が澎湃と巻き起こり、10月30日の判決では、主たる容疑については無罪となりましたが、検察の顔を立てる為もあったのか、某府会議員への援助についてのみ50円の罰金刑ということで結審したと言うことです。

母は晩年になるまで、このときの苦しみを克明に覚えていて、戦後になって、当時の事件に関わった検事の一人が国会議員となり、郵政大臣等を勤めることとなったとき、「この人よ」と新聞を指さして教えてくれましたが、そのときの、暗い顔つきと口数の少なさから、何十年もの間、木内兄妹の心の奥で、燃え続けてきた思いの深さがひしひしと伝わってきた事を覚えております。

判決後、重四郎さんは気晴らしの為もあり、中国、ならびに欧米漫遊にお出かけになり、1922(大正11)年4月に帰国されました。そしてその年の5月に、登喜子が私の父と結婚します。大変華やかな結婚式だったようで、華族会館のポーチで写された記念写真には、私どもが気恥ずかしくなるほどのメンバーがそろっていました。新婦側からは両親の重四郎夫妻を始め、磯路さんのお母様の岩崎弥太郎未亡人、兄姉にあたる岩崎久弥、加藤高明、幣原喜重郎各ご夫妻、従弟の岩崎小弥太氏など三菱財閥のお歴々が顔を揃えておられる中に、信胤さんは東大の学生服、良胤さんは近衛師団の軍服姿で並んで写っておられます。良胤さんは外務省に奉職、そのときはいわゆる一年志願で近衛連隊に所属しておられたということです。

重四郎氏は事件の心労が祟ったのか、1925(大正14)年1月、60歳で亡くなられました。青山斎場での葬儀は、日蓮宗管長磯野大僧正を導師とし、加藤首相、幣原外相を始め会葬者が1500名に上る盛大な儀式となりました。しかしそのとき良胤さんはパリの大使館、登喜子はロンドンにいて参列することができず、葬儀に関するすべては、信胤さんが代わって取り仕切られたということです。

鴻之台のお屋敷の裏の、深い森の中には、大きくて立派な納骨堂があり、重四郎・磯路ご夫妻のお位牌とお骨が安置されていました。私たちもよくお参りしましたが、これも生前の重四郎さんの意をうけて、信胤さんがすべてを計画施行されたと伝えられています。

こうした経緯が、信胤さんのご性格をより強靱なものとし、また日蓮宗への信仰をより深いものとしたのではないかと思います。信胤さんのように感情の量が多く、親孝行で知られた方が、重四郎さんの不幸から受けた衝撃は非常なものだったと思います。そして単に葬儀を取り仕切るとか、お墓を建てるとかいう物理的な面にとどまらず、その頃は毎日仏壇に座って法華経二十四巻を繰り返し読まれたと母から聞かされました。またご自身でも、法華経の持っている壮大な世界観や、神秘的な力について話されるのを何度か伺いました。

鴻之台での歓迎パーティから2年後の1941(昭和16)年5月、信胤さんは正金銀行の上海支店、更に翌年には南京支店に転勤されました。既に太平洋戦争が始まっており、ご家族は東京に残留されました。お仕事の都合で時々帰国されましたが、その往復も時を追って危険なものとなり、乗っている飛行機が、敵機の攻撃を避けるため、東シナ海の海面すれすれに旋回したりして、あわやと思ったことが何度もあったと、先日孝さんから伺いました。

5. 父・渋沢敬三とのこと

そのようにして一時帰国された信胤さんが、当時日銀の総裁をしていた私の父を訪ねて三田の家に来られたことが何回かありました。父の書斎でお二人が話しておられるのに、どういうわけか私も同席したことがあります。信胤さんは当時の日本では欠乏しているが、中国にはまだ在庫が残っている物資、例えば卵や衣類などを、為替の操作によって内地向けに出荷を促すことが出来るというようなことを話しておられました。

私には何のことか全く分かりませんでしたが、父は大変興味を示し、日本側の手配はするからそのプランを進めてはどうかと言っていたのを聞いた記憶があります。その結果卵の供給が増えたかどうかは知りませんが、そうした対話を通して父は、為替取引に関する信胤さんの並々ならぬ力量を、改めて認識したのではないかと思います

同じ頃プラハの公使を勤めておられた良胤さんが、交換船で帰国されました。長い船旅にも拘わらず、良胤さんは態度も表情も、また服装も、昔と少しも変わらず、手荷物などは一切持たず、代わりに大きなケースに入った一台のチェロを抱えて、悠然と船のタラップを降りてこられたという話が一時話題となりました。戦況がますます厳しく、騒然としている東京に、良胤さんが、戦争などどこ吹く風かという様子で降り立たれたと言うことが、母などにとっては大変印象的だったようです。

信胤さんが中国勤務からいつ帰任されたかは定かでありませんが、1945(昭和20)年の春には、ご家族そろって私どもの三田の家にお住まいになっていました。母と妹は疎開し、私は軍隊にいっていたので、広い家には空室が多く、戦災に遭われた方が沢山同居されるようになりました。

5月25日には空襲があり、父の寝室の天井に焼夷弾が落ちました。そのとき天井裏の金網の隙間をくぐって最初に消火に当たったのが宏さんだったと言うことは、信胤さんから伺い、先日孝さんにも確認して頂きました。このときの宏さんの勇敢な行動がなければ、あの古い家は間違いなく全焼し、その後大蔵大臣の官邸になったり、青森に移転したりすることもなかったと思います。

1945(昭和20)年8月には終戦、明治以来国民が多大の犠牲を払って作ってきた近代日本は壊滅しました。そして困難なその後始末の作業を強制されるという過酷な運命が、敬三や信胤さんを待っていました。9月には東久邇内閣が退陣し、後任の首相として幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう、1872-1951)氏が内定しました。敬三はその幣原氏に招かれ、蔵相就任を要請されます。「とんでもないこと、この状態で財政の責任を負うことなど到底できません」と丁重に辞退しました。

73歳の老躯を押して、組閣の大命を受けたばかりの幣原さんは、そういう敬三に向かって言われました。「実は私も昨日天皇から呼ばれて組閣の要請を受けた。当然ながら老骨でもあり、とてもそのような任務は務まらないと申し上げ、ご容赦を願った。」

天皇は悲痛なお顔で、自信のある者は誰もいない、だから枉(ま)げて頼むのだといわれました。その御様子を見て幣原氏は深く心を打たれ、命がけで引き受ける決心をされました。「君も同じだろう。今の状況の中で喜んで引き受ける者は一人もいない。しかしここは是非受けて貰いたい。」縁戚に当たる幣原氏に、天皇を引き合いに出されては、敬三も返す言葉がなく承諾しました。そして就任後、最初に行ったことの一つは、信胤さんに大蔵省の終戦連絡部長をお願いすることでした。

その内閣は僅か7ヶ月しか続きませんでしたが、その間に財閥解体、農地解放、財産税、新円切替え、戦時補償打ち切りなど、戦後経済の基盤となる多くの施策を次々と実現しました。そしてそれらのすべてについて、信胤さんはいつも先頭に立って、占領軍司令部との複雑で困難な折衝に当られたのでした。

1946(昭和21)年の春には幣原内閣が退陣し、私の父は5月、信胤さんは9月にそれぞれ公職追放となり、当面の職を失いました。しかし孝さんに頂いたご略歴は、それ以後の信胤さんが、驚くほど多彩な仕事をこなされたこと、そして敗戦の衝撃にめげることなく、あらゆる分野で常に全力を尽くそうとされたことを、雄弁に物語っています。

6. 信胤氏の生き方

宗教音楽研究会でハレルヤ・コーラスや第九交響楽の合唱に参加されるかと思うと、外国為替管理委員会委員長として戦後経済の国際化に道を開かれました。1956(昭和31)年には国鉄の理事に就任され、1962(昭和37)年までの6年間、新幹線建設に取り組む国鉄の運営を指導されました。1955(昭和30)年以降は世界経済調査会の理事長として、毎週のように斬新で大胆な経済の見通しや、政策提言を発表される一方、国語問題協議会理事長として、日本語の伝統を維持するために活動されました。多少文脈が違うかも知れませんが、お住まいのあった「狸穴町」という地名を、之を変更しようとする港区の意図に反して、ついに守り抜かれたことは、周辺の住民の一人として大いに感謝しております。

1986(昭和61)年にご長男の宏さんが亡くなられたことは大変悲しいことでした。飯倉の志立家で行われたご葬儀に、沈痛なお顔で参列しておられた信胤さんが、数日後にはかねてからの約束を守るため、名古屋だったかの講演に旅立たれたと伺い、お仕事に懸ける一念の激しさに驚かされました。

経済学者フリードリヒ・ハイエク(Friedrich August von Hayek, 1899-1992)の思想に共鳴され、モンペルラン協会を拠点に活躍されていたことは広く知られています。そしてこれらの八面六臂の活動に対して勲一等瑞宝章のほか、西ドイツ、韓国、台湾などから沢山の勲章をお受けになりました。

考えて見ると、戦後の信胤さんのこうしたお仕事や生き方は、あの方の生まれながらの本領だったのかも知れないと思います。孝さんのお話では、高校時代には経済学者を志しておられたのを、お父様の重四郎さんの懇望によって法学部に進まれ、正金銀行に入られたと言うことですが、銀行に限らず、日本的な組織では満足されない方だったように思います。幸か不幸か敗戦によって、日本的組織のしがらみから解放されたことが、信胤さんの才能や指向を生かし、自由人にとしての本来のお仕事を可能にしたのかも知れません。

7. 敬三の生き方 : おわりに

この点は私の父の敬三の場合も同様で、中学では動物学者として生きる事を強く希望していたのを、祖父栄一の強い要請に屈して、実業界での仕事を受け入れました。祖父を非常に尊敬していたので、「まじめに勤めてはおりましたが、面白いと思ったことは一度もありませんでした」と晩年に書き残しております。また敬三には渋沢秀雄という、年の余り違わない叔父がいましたが、この人も東大の仏文科を志望していたのを、「父に拝み倒され、母に泣きつかれて」法学部に進み、やはり実業界に入りました。後の随筆の中で、「父親の一生を立派だとは思っていたが、ああいう実業家的な生活をうらやましいと思ったことは殆ど一度もなかった」と述べております。

それにしても、なぜ明治の親たちは、大正の空気を呼吸して育った多感な青年達を、自分たちの思い通りにしようと考えたのでしょうか?またなぜ大正の若いエリート達が、軒並み、その要請に応えて、明治のシステムを受け継ぐようなキャリアを受け入れたのでしょうか?勿論日本の近代化を進めた明治の功績には疑いの余地がありません。また明治の遺産の中には守るべきものが多かった事も事実でしょう。だからこそ、大正は「面白いとは思わなくても」まじめに勤めるほかになかったのかも知れません。

そう言う父や伯父の世代を私は理解もし、尊敬もしています。しかしその反面で、たとえ誠実ではあっても、嫌々その職に就いた人たちに指導された昭和という時代は何だったのかという気がしないでもありません。

戦争に負けたことは確かに悲しいことでした。しかし社会的には「瘧(おこり)が落ちた」というか,明治以来無理に押しつけられていた殻が破れて、急に自由になったという感じもありました。そしてそうしたなかで、信胤さんは経済評論家、文明批評家として未知の世界に踏み込んで、精一杯の活動を展開されました。渋沢秀雄(しぶさわ・ひでお、1892-1984)も産業界との関係を絶って、随筆家として筆一本に生涯を託し、自分自身の人生を歩き始めました。そして敬三の場合は、既に戦前から「自分の一生の仕事は学問である」と宣言して自分の道を歩いていました。

このように生まれながらに感度が良く、真面目な人たちの活動の集積が、戦後の日本の社会や文化を開かれたものとし、更なる発展の可能性を遺してくれたのだと考えています。

雑然としたお話になりましたが、結びに代えて、信胤さんご夫妻のご冥福を願い、今後のご家族のご繁栄をお祈りしたいと思います。 ご清聴を感謝します。

* 2014年10月3日現在、「鴻之台のお屋敷」は「木内ギャラリー」として一般に公開されています。


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