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渋沢敬三氏の二高進学のことなど / 阪谷芳直

『渋沢敬三著作集月報. 4 : 第4巻付録』(平凡社, 1993.02) p.I-VIII掲載


 今年の四月六日に神奈川大学短期大学部の有志の会をやるから来ないかと誘われ、かつての親しい同僚たちに会いたくて出席した。席上、網野善彦氏と『渋沢敬三著作集』の話をしていたとき、「渋沢一族ではほとんどの人が旧制一高に進んでいるのに、なぜ敬三氏だけは仙台の二高に行ったのですか?」という質問を受けた。私の推測を交えた説明に対し、網野氏が、「もう時代も経っているし、書いてもいいでしょう。著作集の月報にぜひそれを中心に敬三氏のことを書いて下さいよ」といわれるので、私も「何とか書いてみましょう」と答えた。ところがその後慶応病院整形外科に入院することとなり、六月一日に手術を受けた。入院が長びき、網野氏との約束を何とか果さねばと思い、ベッドの上で筆をとることにしたが、当るべき資料も身辺になく、ほとんど記憶だけを頼りに記すので、誤りなきを保し難いことを予めお断りしたい。


 網野氏は、渋沢一族中敬三氏だけが二高に進んだように考えられているが必ずしも然らずで、かつて「渋沢同族会社」を構成した七家のなかで、敬三氏を一番若い一人とする同世代に属する叔父・甥たちの中学から旧制高校への進学状況は、次表の通り、一高が五名、二高が四名である。但し、尾高家に嫁いだ栄一の娘文子の子息の尾高朝雄氏(法哲学、東大教授)や鮮之介氏(美学、夭逝)、栄一の故郷血洗島の家を守った系統の渋沢元冶氏(後の名大総長)あたりまで範囲を拡げれば、一高組が圧倒的に多くなる。

 [家系図省略]

 二高組の一人である私の父希一のケースは、父自身が一高を熱望し [註1]、伯父の穂積陳重博士ほか周囲の人びとも父の合格を信じていたにもかかわらず、結果は第二志望の二高に廻されていたというものである(祖母の話では、発表の日、玄関で父の帰りを待っていると、落胆し切った表情の父が戻って来たので、「どうだった?」ときくと、吐きすてるように「二高に廻されてしまった」という。祖母は「二高がなぜいけない?立派な学校ではないか。一高だけが学校ではあるまい」と厳然といった。しかし、その祖母も、昭和十三年春、私が一高合格を知らせにゆくと、「心を鬼にして希一を叱ったけれど、あの時の希一の顔がいつも私の頭にこびりついていたんだよ。お前が一高に入ってくれてやっと思いが晴れた」と涙を流した)。

[註1] 大正末期に関東庁財務課長として旅順に赴任した父が、六、七歳の私をつれて人気のない公園を散歩するときなど、次々に歌う歌を私は全部覚えて了ったが、後年それが全部古い一高寮歌だったと知って驚いた。

 二高組のもう一人の穂積真六郎氏のケースは父のそれと違い、父陳重博士が「お前は二高にいけ」と厳命したもので、父は、同年生れの従弟で、無二の親友である真六郎氏に同情して、「真ちゃんも一高にいきたかったんだよ。しかし伯父さまは反対を許さない厳しいところがあったからネ。真ちゃんは切歯扼腕していたけれど、命令には従わざるを得なかったんだよ」と私に語った。

 しかし、敬三氏の二高ゆきは、父や穂積真六郎氏のケースとは異る。渋沢栄一の後嗣である「プリンス」の敬三氏が一高を受けて万が一不合格にでもなれば傷がつく、これは避けねばならぬ……という配慮が、穂積陳重、阪谷芳郎のような同族の長老たちの間にあってのことらしい(これには、前記の父希一の期待に反した失敗の影響も底流にあったに相違ない)。また、敬三氏が高師附中の三年の時、病気で一年足踏みしていたことも考慮のなかにあったであろう。敬三氏としても、渋沢一族のなかでのプリンス扱いのわずらわしさ [註2] から逃れて、仙台で伸々と学生生活を楽しめることを考えると、二高ゆきはむしろ好ましかったのではあるまいか。問題があったとすれば、生物学者を志す敬三氏と、いずれ経済を学んで自分の後を嗣いで実業界に出て欲しいと願う栄一の希望との違いから来る文科か理科かの選択であったであろう。

[註2] 敬三氏は『瞬間の累積』の「あとがき」のなかでこう記している――「私の父篤二は、学習院をへて熊本の第五高等学校に入ったのですが、中途で身体を痛めて退学しました……中略……。父には、穂積、阪谷、尾高などの重要な親類がありましたが、なかなかこの間に、今の言葉でいうと、父の争奪戦が、ごく明らさまでなしに行われておったらしいので、父はそれを嫌ってついに逃避してしまいました」。


 敬三氏が私に語った次の話は、恐らくこの二高進学の時のことであろう。

 何せ青淵先生(栄一)が僕の前に両手をついて頼むから経済に進んでくれといわれるんだ。青淵先生にこう出られちゃあ、僕も素直に従わない訳にはいかなかったよ。けれど今から考えると、やっぱり青淵先生が正しかったね。生物学者になったところで大した学者になれるような頭脳など僕は持ち合せていなかったからだ……

 二高に進んだ経緯は違うにしても、敬三氏、穂積真六郎氏と父希一の三人の二高組は、実に仲がよく互に信じ合った従兄弟同士であった。太平洋戦争末期に敬三氏が私にこういったことがある――「渋沢一族が大きな顔をしていられるのは、希一さんや真六郎さんが国を出て捨身で働いていてくれるからだよ」(父希一は華北で通貨金融の総元締として悪戦苦闘していたし、真六郎氏は終始一貫朝鮮総督府にあって廉潔無比の士として知られ、韓国の人びとのために心を砕いていた)。

 そうかと思うと、敬三氏はこんなこともいった――「希一さんと京城〔現ソウル〕で落合い、真六郎さんと三人で一夜痛飲したよ。愉快だったぜ。真六郎さんや希一さんの裸踊りも見たし、虎造ばりのナニワ節の一節も聞かして貰ったよ」。渋沢流で名高い敬三氏の自作の絶妙の踊りが次々と披露されたことも勿論であったろう。謹直な真六郎氏や父希一が敬三氏と三人で学生時代のように飲んで騒ぐ姿など想像もできなかった私は、この三人の仲の良さが羨望に堪えなかった。

 さらにもう一つ、わが家の恥をさらすことをいとわずに記しておこう。昭和十六年十一月の祖父阪谷芳郎の死後、父には渋沢同族会社に対する莫大な借金が残されていた。祖父より二年前に死んだ太っ腹な祖母が平気で借金して生活をドンドン拡げていった結果である。祖父母の生前から、父は私に向って「お前にはこの借金は背負わせない。俺が片づける」といっていたが、何かの折に、私が敬三氏に祖父母のかけている迷惑を詫びると、敬三氏はカラカラと笑って、「君のお祖父《じい》さんが政治家でなくて良かったよ。政治家だったら、とっくの昔に渋沢同族など喰潰されちゃってるところだよ」といった。

 この莫大な借金の始末は、敬三氏と父との間の話合いで間髪をいれずに処理がなされた。父は、三千坪くらいの土地、三百余坪の家屋敷を惜気もなく差出し、敬三氏はこれを阪谷の同族会社への負債の返済として受取ると同時に、竜門社に寄付して、戦時下で建築が困難になっていた計画中の日本実業史博物館の別館に使うこととし、既に蒐集してあった民具その他の厖大な資料を運び入れた。わが家には、隣接した狭い土地に祖母の隠居所として建てられていた五十坪ばかりの家が残っただけだったが、私は、父と敬三氏の信頼と友情を基礎とする見事な処理に感嘆し、また清々しさを覚えた。

 右の実業史博物館の別館の管理者には、敬三氏の二高の同級生の小林輝次氏が送りこまれた。敬三氏が、左翼思想のゆえに学校を逐われた俊秀な学究を日本常民文化研究所に拾いあげたり、二高同級のマルクス学者向坂逸郎氏に秘かに経済的支援をしたり、教授グループ事件で罪にとわれた大内兵衛博士が無罪の判決を受けると臆することなく日銀顧問に迎えたりした話は、多少とも知られているが、小林輝次氏への配慮を知る人はほとんどないであろう。敬三氏は私にこう語った。

 彼は二高で僕の同級生だが、河上肇先生を慕って京都大学に行ったんだ。鈍重な感じで、仲間によっては「輝バカ」なんていう奴もいたが、僕は、彼の河上先生に対して終始一貫尽すその誠意には頭を下げているんだよ。京大生のとき京都の被差別部落に入って社会運動をつづけ、人びとから絶大な信頼を得たところにも、僕は敬服しているんだ。不遇の彼に、日本実業史博物館の展示用の資料の蒐集・整理保管の主任になって貰っていたんだが、今度別館にする君のお祖父《じい》さんの家にも管理者として住みこんで貰ったのさ。

 昭和十九年春から敗戦まで、短現の海軍主計中尉、大尉として海軍省内の海軍運輸本部(戦時特設庁)に勤務していた私は、防空指揮官としての泊りや海軍省の当直士官として宿直する日を除いて、激化する米軍機の空襲下で警報解除のあとなど、小林輝次氏と喋る日が次第に多くなった。海軍省で軍務局の福山中佐(中国問題担当)と二人で宿直した夜、戦局悪化に関連して福山中佐が「延安にいる岡野進の存在が恐ろしいぞ」と語ったことをふと小林氏に語ると、言下に小林氏は「それは野坂参弐《さんじ》のことですよ。岡野の名を使っていましたから。してみると、彼はソ連から中国に来ているのでしょうかネ」といった(参弎《さんぞう》などという難しい字をみても、みな参弐《さんじ》としか読めなかったのであろう。戦後、「野坂参三」と字を改めたのもむべなる哉である)。

 これがキッカケになって、海軍大尉の私が毎晩のように小林輝次氏から日本共産党(非合法時代)のことを詳細に話して貰うという奇妙な事態になった。徳田球一、志賀義雄、市川正一といった名前も初めて知ったし、山本懸蔵がどうやって厳重な監視の目をくぐって脱出しソ連入りしたかの小説みたいな話も面白かったが、小林氏が一番熱を入れて語ったのは、網走刑務所にいる国領伍一郎――小林氏もまだその獄死を知らなかった――のことで、「私が京大生のとき、西陣の少年工の彼を見つけ出して、英語もABCから教えたんですよ。素晴らしい男で、理論的にもグングン成長して、私なんか置き去りにして共産党の大立者になってしまった。本当の筋金入りのリーダーは国領ですよ」と語った。また甥の小林陽之助のことも「私の影響かどうか知らないが、何時の間にか尖鋭な闘士になり、ソ連に入ってクートベか何かで勉強していたのが、壊滅した日本の党組織の再建のために送りこまれて来ましてネ。逮捕されて獄死しましたが、ダラカンのダメな私などと違って甥ながら凄い奴でした」などと語った。

 小林輝次氏が運動のなかでどういう地位を占めていたのか、いわゆる同伴者に留まったのか、私には遂に分らなかったが、敗戦直前の狂気のますます激しくなる時期に、現役軍人の私に、これだけのことを話してくれたのは、小林輝次氏なりに「日本の敗北近し」と感じていたからではあるまいか。

 昭和二十年五月二十五日の大空襲に、わが家は隣りの祖父の旧居(実業史博物館別館)とともに辛うじて焼失を免れた。たまたま京都から上京して泊りに来た一高以来の親友後藤英輔君(後年の公正取引委員会委員)もそのままわが家に居つき、近くの白山御殿町で家を焼かれた親しい吉国一家(後年の法制局長官吉国一郎氏、大蔵次官吉国二郎氏兄弟の一家)を呼びにゆき、梁山泊的生活に入った。敗戦の年の暮、一寸正月に京都の家に帰ってくるという後藤英輔君の話を耳にすると、小林輝次氏は、私の前で、後藤君に京都の河上肇先生に届け物を頼まれてくれと懇願した。そして物資欠乏の時代にどうやって集めたのか、食料品その他を大きなリュックサック一ぱいに詰めて現われ、自らこれを背負って汗をふきふき東京駅まで後藤君を送って行った。後藤君によると、京都九条のこれこれのひとに連絡すれば必ずこのリュックを河上先生に届けてくれるから、済まないがよろしく……と、誠心誠意頼んだという。貧窮のドン底にあった河上肇先生への小林氏の献身ぶりを目のあたりにして、私は、敬三氏の人間を見るときの目のつけどころに改めて感心した。間もなく祖父の旧居が占領米軍に抑えられ、小林氏一家もいずこへか去った。その後の消息を私は知らない。


 以上書いて来たこととの繋りはないが、私が敬三氏と二人だけの時に聞いた言葉を、最後に記しておこう。

 東条内閣が、第一銀行副頭取の敬三氏をムリヤリ引き出して日銀副総裁に任命したのは周知の事実だが、庶民的な敬三氏が日銀に着任してみて、「イヤ驚いたね。日銀の若い行員て、どうして上司に対してあんなにカチンカチンになって接するのかねえ。こっちから解きほぐすのに苦労するよ」といったのは兎も角として、次の言葉は、敬三氏でなくては出て来ないであろう。

 中央銀行はあんなところに引っ込んでいるべきじゃないね。もっと国民のなかに積極的に出て行くべきだよ。丸ビルの反対側の空地――今の新丸ビルの場所のこと。当時は地面にコンクリートの枠が出来ているだけで、雨水が溜って堀のように見えた――あたりに近代的なビルを建てて移るといい。今の日銀の建物は、貨幣金融史博物館にでもするのが一番ふさわしいんじゃないか。

 海軍から復員して大蔵官僚に戻らず、日銀にあった大内兵衛先生主宰の特別調査室に入れて貰い、その後正式に日銀行員に転じて十余年を過した私は、何度となく右の敬三氏の言葉を思い出し、全く敬三氏のいわれた通りだという思いに堪えなかった。

(さかたに よしなお/(社)尚友倶楽部・常務理事)

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