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月島時代のアチック / 速水融
『渋沢敬三著作集月報. 3 : 第3巻付録』(平凡社, 1992.10) p.IV-VIII掲載
筆者がアチック・ミューゼアムに在職したのは、大学を卒業した一九五〇年の一〇月から、一九五三年の三月までの二年半である。決して長かったわけではないけれども、振り返ると実に大きな経験であった。もっとも、学生のころから、いわゆるアルバイトで、当時月島の水産研究所にあったアチックに通っていたし、慶応義塾に移ってからも、メンバーの方々にはそこここで始終お会いする機会があったし、さらに国際日本文化研究センターに移った今も交流が続いているためだろうか、あの二年半は、実際の何倍にも感ずるのである。
渋沢先生とは、もちろん何回かお会いした。しかし、月島の現場ではお話しした記憶はない。おそらく、戦前期の三田アチックと、戦後の月島とでは、雰囲気はかなり違っていたのではあるまいか。月島での仕事は、ほとんどが水産庁の委託調査だったので、官庁の規制をどうしても受けざるを得ず、また、敗戦後間もない時代ということもあって、戦前期のアチックのような余裕のある状況とは、かなり違っていたのではないか、と思う。
そういう中でも、先生はわれわれ若い研究員をご自宅に招いて下さった。まだ、高度成長以前で、経済的にも、政治的にも、日本の前途はどうなるのか分からない、しかし、戦前・戦中期の暗雲がとれて、何となく明るい当時のことである。われわれが、今から思えば若気の至りで、現状否定的に、「日本を見よ……」とやると、先生はすかさず、「世界を見よ……」とやり返され、何しろ大蔵大臣、日本銀行総裁の発言には重みがあるので、日本の外に出たこともないわれわれは、圧倒されてしまい反論できなかった。
筆者個人のことになってしまうが、あの二年半の間に、他では得られない貴重な知的体験を積むことが出来たのは、やはり、「アチックの学問」が、何十年もの蓄積と伝統に支えられていたからであろう。月島のころ、もちろん同時に仕事をした仲間たちから、多くのものを学んだし、それは今でも続いている。おそらく、あのころ、月島で仕事をした者に共通する思いであるが、やや大袈裟な表現をすれば、全員がそれぞれの青春を思い切り燃焼させた、といっても過言ではあるまい。論争もしたし、逸話にはこと欠かない。小さないさかいもあったかもしれない。しかし、その後の長い時間の経過にもかかわらず、いまだに「運の月島会」と称して何かにつけ集まっているのは、そういったひたむきな経験を持ったからこそであろう。
筆者は、学生時代、「アチックの学問」とはやや距離のある西洋経済史をつついていたので、近世漁村史料の調査、目録作成、筆者という仕事を与えられても、文書の最初の一行が読めず、隣にいる史学科出身の同僚がわけなく読み、分類し、年代を西暦に直しているのを見ると、いささかコンプレックスを感じたものである。しかし、とにもかくにも、仕事として近世文書を読んだことは、他では得られない学習の機会となって、その後の筆者をどれだけ助けてくれたのか分からない。古文書を読む訓練に、授業料を払うどころか、給料をいただけたのだから、研究者冥利に尽きるというものである。
宮本常一氏との出会い
そういった人との巡り会いのなかで、特に思い出が深く、且つ筆者の学問形成に大きな刺激を与えられたのは、師と呼ぶべき宮本常一氏であった。もっとも、氏はわれわれとは違って、月島で毎日仕事をされていたわけではない。一年の大半を、健康の許す限り、地方調査に歩いておられた。
宮本氏がアチックにかかわるようになられたのは、周防大島ご出身の氏が、大阪で教員生活をされていたころのお仕事が渋沢先生の目にとまり、以後、氏の言葉を借りれば、氏が先生の「居候」となってからであろう。全巻発行されれば五〇巻をこえる氏の膨大な著作の最初に、『周防大島を中心としたる海の生活誌』(アチック・ミューゼアム彙報 一一、一九三六年)があるが、この書は氏の生涯の学問的活動のライトモチーフとなったと見ることは出来ないだろうか。ともかく、戦後ずっと三田、二の橋の渋沢先生のお宅の一隅に住まわれていたから、もし、先生なかりせば、宮本常一氏と筆者の出会いもなかったに違いない。後のことになるが、筆者はしばらく近くの一の橋に住んでいた。まだ都電が前の通りを走っていて、宮本氏と何度か同じ電車に乗り合わせるときもあった。時間があればコーヒーを飲んだりしてお話を伺う機会があったが、その中で渋沢先生のお話が出ることも屡々あった。筆者が覚えていることの一つに、先生が宮本氏に、飛行機の切符を贈られた話がある。
戦争後、日本ではしばらく民間航空の営業が停止されていたが、一九五一年に再開された。当時は、航空運賃が、一般の人々が払うことの出来る範囲をはるかに超えていて、現在のように、東京から北海道や九州に行く人の大部分が航空機を利用することなど夢のような話の時代であった。かねて瀬戸内海の人々と生活に特別の関心をもっておられた宮本氏に、渋沢先生から「君、一度空から瀬戸内海を見といたら」と福岡行きの切符が渡されたのはその頃だった、と聞いている。空から見た瀬戸内海が、宮本氏のその後の瀬戸内海研究にどのように生かされたのか伺い損ねたが、あるいは眼下に展開する景観から、構想が生まれたのかもしれない。筆者自身、航空機の旅をするときはいつでも窓側の席をとり、目を皿のようにして、眼下の景色を眺める癖がついてしまった。
戸谷敏之氏と宮本氏
もう一つ、宮本氏を通じて知った、戦前期のアチックの状況のなかで忘れられないのは、戸谷敏之氏のことである。戸谷氏が、若くしてフィリピンの戦場の犠牲者となられたことは夙に知られている。その戸谷氏は、卒業後兵役に就かざるを得なくなるまでの数年間、アチックの研究員だったことは案外知られていない。しかし、短期間であったが、戸谷氏の経済史に関する業績は、没後出版された『イギリスの・ヨーマンの研究』(御茶の水書房、一九五一年)であれ、『近世日本農業経営史論』(日本評論社、一九四九年)であれ、当時の日本の経済史研究の最先端を行くものであった。読み返してみると、現在の日本における研究水準に十分匹敵するものであり、約半世紀以前のアチックが、このような優れた経済史研究者を擁していたことは特筆すべきことである。
同時に、強調しなければならないのは、宮本氏と戸谷氏は、ともに、「常民」を研究の対象としながら、その学問上の方法や態度が全く違っていたことである。例えば、宮本氏は、徹底して脚で歩いて歴史を書き、民俗誌を書いた。戸谷氏は、多分、徹底して書斎で書いたのではないかと思う。筆者は、能登半島を宮本氏と調査した経験があるが、村の人々の中に入り、仕事や寝食を共にしながら話を聞き、文書を人々のために読む姿を傍で見て驚倒したものである。村から村へ移るときも、リュックサックに立てた小さな棹に、洗濯物がひるがえっていて、いかにも武者姿を彷彿とさせるものがあった。戸谷氏とは、もちろん面識があったわけではないが、著作から窺うかぎり、氏の得意とされる類型的把握は、大塚久雄氏から学ばれたものかもしれないとしても、さらに遡れば、マックス・ウェーバーの「理念型」析出につながる。演繹的であり、論理的であって、宮本氏の研究が経験的であるのと好対照である。
どの分野の研究にもあるこの二つの接近法の優劣をここで論ずる必要はあるまい。ただ、アチックは、全く方法の異なる研究者を擁していたこと、そして、そのことは、渋沢先生の包容力の大きさを物語る好例として挙げておきたい。宮本氏は筆者に、戸谷氏のアチックにおける最初の業績『徳川時代に於ける農業経営の諸類型』(アチック・ミューゼアム・ノート 一八、一九四一年)を出版されたとき、戸谷氏が実に嬉しそうにそれを抱えて家路についた様子を語ってくださった。戦時色が強まってきていた当時においても、アチックでは学問の灯は決して消えることなく、活発に続けられていた。
そういったアチックでの経験、宮本常一氏との邂逅が、筆者のその後にどのような影響を与えたのだろうか。自分で判断することは難しい。アチックから慶応義塾大学に移って、やがて日本経済史を担当するようになったが、上記のどちらに徹することも出来ず、結局江戸時代の歴史人口学を自分の研究分野とするようになった。歴史人口学は、より正確には歴史民勢学と称するべきかもしれない。要するに、一般の人々、つまりは常民の生活、出生、結婚、死亡、移動、それに家族の状態を明らかにし、日常行動を統計的に観察、分析する学問である。こういった分野に踏み込んだ直接のきっかけは別にあるのだが、意識の底には、アチックで学んだ「常民」の日常生活の追求の重要性という伝統が作用しているのかもしれない。そう考えると、渋沢先生は、実際そのお顔がそうであったように、もしそういう言葉があるとすれば、慈祖父のように思えてならないのである。
(はやみ あきら/日本経済史)