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渋沢先生との出会い / 古島敏雄

『渋沢敬三著作集月報. 2 : 第2巻付録』(平凡社, 1992.06) p.I-IV掲載


 私が渋沢先生に初めてお目にかかったのは関島久雄さんとの共著『徭役労働制の崩壊過程』(昭和十三年一月刊)が出て、その書評が当時の大学新聞にのった以後だったように思う。紹介者はその書評の筆者であり、教室の先輩の姜廷鐸さんであったからである。その時の相客にはもう一人、朝鮮出身の医学部の教室に残っている方があった。通されたのは三田綱町のお宅の左手の一棟の一室で、猪鍋を囲んでお話を伺うような内輪の出会いであった。私以外の二人は、渋沢先生の援助で東大で研究生活を送るようになったようで、先生は二人の最近の研究生活についてあれこれと聞いていられた。その時、姜さんが私の仕事っ振りを話され、援助についても話してくれたのではないかと思う。

 私は長野県下伊那郡の山村の一名主家の所蔵史料の整理について、戦争後期に数年にわたって経済的な援助を、渋沢先生から頂くようになったのであるが、その開始の時期の正確な記憶はない。しかし、昭和十二年八月に上巻が発行された『豆州内浦漁民史料』が十四年十二月に下巻を出して完結した時、当時の農業経済学会理事会が同書を日本農学会賞に推薦することを決めたあと、私は渋沢先生との連絡役を命ぜられた。その時、会長の那須皓先生(東大名誉教授―故人)から「お前は渋沢さんとおつきあいがあるようだから」といわれたように思う。このことは、昭和十五年には文書の筆写料の補助を頂いていたことを意味するのであろう。だとすれば那須・東畑両教授や『徭役労働制の崩壊過程』の入っていた叢書の編集者の一人であった土屋喬雄教授などの推薦や紹介によるものでなく、若い姜先輩の推薦だったとしか考えられないのである。


 こんな私自身の出会いの記を書いたのも、渋沢先生の若者に対する態度にお人柄の一端が表れていると思ったからである。その頃先生から伺った話のなかに『男鹿寒風山麓農民日録』(昭和十三年五月刊、アチック・ミューゼアム彙報、第十六)の著者吉田三郎さんのことがある。農業恐慌、東北大凶作と続いた頃の東北農民の一人として、若い吉田さんは冬期は東京に出稼に出ていた。その仕事は家々を廻って煙突掃除をすることだった。その受持ちの一軒に三田綱町の渋沢邸も入っていた。そんな吉田さんに気軽に話しかけて、出身地の農業や生活の話を聞かれたのであろう。入会地の草苅やその他の村仕事の話が面白かったので、村での一年間のあれこれを細かく日記に書くように奨めて、その結果が出てきたという趣旨のお話であった。

 お話を伺いながら、私は勝手口に訪れる御用聞などにも気軽に話しかける渋沢先生の姿を頭に描いていたのであるが、今考えてみると渋沢邸の煙突は勝手元だけではなかったであろう。正面の洋風の応接室には暖炉もあったろうし、右側の研究所にも幾つかのストーブがあったろう。吉田さんの冬の一日は、あるいは渋沢邸や隣りあって建てられた渋沢家ゆかりの方々の家を含め、渋沢家周辺で過すことになっていたかも知れない。郷里の生活の話は、研究室の人々をも加えてストーブを囲んで行われたものかも知れない。しかし初対面の夜の心安さは、勝手口で語る先生の姿を想像させたのである。アチック・ミューゼアム・ノートのなかには、吉田さんの著書のほかにも、地方で実際に働いている方々の記録がある。そのなかには先生が直接現地を訪れて、筆者に会われたことの記されたものもあるが、そこには筆者に対する先生の気持の表れをみることができる。働く人々に対する敬意と愛情が、優れた庶民の労働や生産技術の記録を残させたのであろう。


 農学会賞に関する連絡掛りとしてお訪ねしたり、山村史料集刊行の御援助を頂くために先生をお訪ねしたりしたのは大手町の第一銀行の重役室が多かったが、日本銀行にお訪ねしたこともあったように思う。これらとは別に三田綱町のお宅に伺った時、お宅の裏手、一段低い所にある畑でお話を伺ったことがある。大畝《うね》作りの甘藷畑は戦時中流行した丸山式の藷作りであった。関東地方とくに川越方面の甘藷作りは、たしか赤沢式といって畝幅も狭く、舟そこ式ともいって苗を横にして土を掩うやり方であった。農学部の学生として農場実習で私が教わったのは、この関東の伝統的な方法であった。私がその光景を覚えているのは渋沢先生でも家庭園芸をやられ、時には自ら畑に立たれるのかと思うとともに、戦時中に急に広まった篤農農法を教わるような農村のお知り合いがあるのかという驚きであった。あるいは農村を広く歩いていられた研究所の宮本常一さんあたりが知識の伝達者であったかも知れないと、今では考えるのであるが。

 先生から御援助を頂いた史料集は、元禄頃までの原稿を整理して提出したのであるが、当時アチックの出版事業は多分生活社に統合されており、生活社の手でその何分の一かを一〇〇頁余にまとめて印刷することになり、その初校のゲラの出た段階で、戦災のため立ち消えになったままである。せめて御館被官関係の史料だけでも纏めておきたい気持はあるが、それは私に残された時間によることになろう。


 最後に戦後のことを一言。昭和二十一年二月はじめ、大蔵大臣をしていられた先生から、東大農政学研究室に電話があった。前年四月戦災に会った私は、六月から研究室暮しをしていた。常時大学にいた私が伺うことになった。常民文化の蔵書類を東大の農政学教室に寄付したいというのが主旨であった。その時、「重大な決意をしたので、私の所は焼打ちにでも会うかも知れない。家は焼けても仕方ないが、本だけは残したい」と洩らされた。私の一存では決められないが、「緊急避難の意味でもお預りできるように努めましょう」といって電話を切った。正式の返事は多分東畑教授あたりから伝えたものと思う。私は一室を明け、各研究室から空き書架を集めて待った。日ならずして専売局の車で図書類が届いた。その後寄付を受けるためには図書目録を添えて大学の評議会の議を経なければならないことがわかった。学科にはその労力調達の方法がなかったので研究所の職員の方何人かに来て頂いた。そのなかには山口和雄さんや伊豆川浅吉さんもいられた。その方たちには通勤定期購入の便のために無給の農学部副手になって頂くように交渉したように思う。実現したのかどうかは確かめてない。この図書類は後に希望があって他に移した。

 二十一年二月十七日に新円発行、旧円封鎖の発表があったが、大蔵大臣として決定に当られた渋沢先生の御心境の一端を知ることができる事件である。

(ふるしま としお/東京大学名誉教授・日本農業史)

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