語られた渋沢敬三

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『絵巻物による日本常民生活絵引』解題 / 河岡武春

『渋沢敬三. 下』(渋沢敬三伝記編纂刊行会, 1981.08) p.230-233掲載

絵巻物による日本常民生活絵引 B5・全五巻 昭和40・1~43・1刊 角川書店

 本書は渋沢敬三編著となっており、渋沢の死後において発刊されたものである。この書物も渋沢ならではできぬものであったといえよう。「絵引」とは字引にたいする敬三の造語で、絵によって引く事典といえようか。渋沢はこの書物の出版を楽しみにしており、書名をどのように決めたらよいかを、時々思い出したように話した。そして一つの案として「古代絵巻の民俗的解析」はどうだろうかといった。右の古代は厳密な時代を指すものではなく、古い時代という普通名詞的な用語にちかく、時代でいえば中世にあたる。そして民俗的解析というのは言いかえて妙で、日本の主要な絵巻物における民俗的な事態を抽出して、それを模写し、その全体もしくは部分に番号を付し、それぞれ名称をつけて引くことが出来るようにすることを考えた。それらを相当量集めれば、一おう年代を決めがたい民俗学もしくは民俗資料に時代性を与えることが可能であり、民俗資料を歴史資料に劣らぬ価値をもたせ得ると考えた。もちろん時代のみではなく、民俗事象の分類さらに組合せ、比較を可能とし、従来の民俗学では明らかになし得なかった領域をとりこむことができるようになる。

 渋沢がこの構想をもったのは古く、アチックミューゼアムにおいて足半研究の方法についての検討の中においてであった。つまり絵巻物のなかにおいて、足半草履がどの階層の人たちにどのように用いられているか、またそのクロノロジーをあわせて資料化すれば、足半利用のあり方が歴史的に把握できるというものであった。

 この考え方は、アチックの顧問格であり、服飾、履物などの研究において新生面をひらいた高本勢助の方法であった。それは『民間服飾誌 履物篇』において行われていた。渋沢はここから足半のみではなく、他の研究対象も同じ観点から抽出活用すれば、絵巻物は大へんな民俗資料の宝庫であることに気づいていた。

 ことに渋沢がひきつけられたのは、絵巻物はいうまでもなく公家、僧侶、武士など当時の貴族ないし支配階級の世界を描いたものである。そして、その中に点景のように画かれている庶民のすがたに渋沢は惹かれた。そこにはまぎれもない民俗世界があった。

 渋沢には自身でそうした構想を書いた「絵引は作れぬものか」という文章があるので、それを引用してみよう。

 字引と稍似かよった意味で、絵引が作れぬものかと考えたのも、もう十何年か前からのことであった。古代絵巻、例えば信貴山縁起、餓鬼草紙、絵師草紙、石山寺縁起、北野天神絵巻等の複製を見て居る内に、画家が苦心して描いている主題目に沿って当時の民俗学的事象が極めて自然の裏に可成の量と種目を以て偶然記録されて居ることに気が付いた。柴垣や生垣の数々、屋台店の外観や内部、室内の様子、いろりの切り様、群集のうなじの髪の伸び様、子供の所作のいくつか、踞《うずくま》り方、洗足《はだし》と履物、貫頭衣、飼猫が異る絵巻に二つ描かれて居るが何れも現代の犬の様に頸に紐があってどこかに繋がれて居る様子、蒸し風呂の有様、お産の状況、捨て木(紙の貴重な時代排便後に用いるもの、今でも辺鄙な所で見かける)が京都の大路でも用いられて居る有様、足で洗濯するやり方(奥州八戸在銀の湧水泉では娘さん達が集って足で洗濯物をふんで居る)会食時の光景又は売店には明かに茄子やかぼちゃが描かれており魚類も多少は何だか見当のつくものもある。たすきや前かけのない時代の労働時に於ける着物の始末、破れかけた壁にはこまいが顔を出し、液体容器の各種も曲げものが多いこと、かんな以前で刀子で板を削って居る様子、頭上運搬の種々相、米俵の恰好、へっついの型、畳の始源的形態、屋根の諸形式、鍬、すき、なた、のこぎり、ちょうなの様子、看病の様式、手紙とその伝達、川漁に於けるやな装置の有様等々限りない各項目が、主題目の筆とは別に眼に入って来る。何れも画家が当時嘱目した事象を卒直に描いたもので、主題目よりも更に気楽に写生してある。

 貴重な絵画記録資料で而もそのクロノロジカルな点で満点である。そこで何とか之等の資料を番号でも附して抽出して参考資料にならぬものかと、かなりの間とつおいつ考えて居た。

 ここで橋浦泰雄が登場し、具体的な方法が練られ、資料化が始まっていく。

 たしか昭和十五年頃からであったろう。画家で且つ民俗学者である橋浦泰雄さんに交渉して、絵巻物各種を一巻一巻丹念にアチック同人で検討してはその決定に従い同君にブラックアンドホワイトで一つ一つ複写して頂くことにした。画家丈でも民俗学者丈でも一寸都合が悪い。両方を兼ねる点で橋浦さんは打ってつけの方であった。何回か会合して注文し、出来上るにつけて之をキヤビネ版の印画紙に写し、それを土台として之に細かく番号をつけた。着物に、帯に、履物に、持ち物に、猫に、茄子に、柴垣に、舟又はその附属品にと云った風に。各絵巻毎に主題前後の脈絡は考えず、更に一般の景色や、貴族、僧侶、上流の軍人等の文化等絵巻の主眼点を省略し芸術的観点を度外視した。凡そ常民的資料と覚しきもの丈を集め、一定数毎に印刷し之に前述の通り番号を附し巻末に、近代的名称による分類によって対象物を羅列し当該番号を示した索引をつける構想にほぼ定めた。古い時代の名称のわかるのもあるしわからぬものもある故履物の部を例にとるなら、わらじ類ぞうり類あしなか類と項を分け番号を示しておけばあしなか類はどの絵巻の何巻と何巻に出て居てその実体がすぐ見られる趣向である。

 しかし、こうして出来あがりつつあつた原稿も戦争がはげしくなり中断を余儀なくされた。さらにかなり原稿を防空壕に入れて戦後に備えたが、かえって直撃をうけて焼失した。戦後、東洋美術史家のウォーナー博士が渋沢邸を訪れた折、博士はわずかに残った原稿を見る機会があり、渋沢の企図のすばらしさをほめた。

 したがって『絵巻物による日本常民生活絵引』は、戦後、三十年ごろから、宮本常一を中心とし、画家として奥村土牛の高弟である村田泥牛が専任としてかかり、月一回の研究会において検討を重ねた。そのメンバーは
 村田泥牛(模写) 有賀喜左衛門、遠藤武、河岡武春、桜田勝徳、笹村草家人、宮本馨太郎、宮本常一
の八名であった。渋沢は熱心でほとんど休むことなく、病状がわるくなっても出席していた。文字どおり、敬三のライフワークにふさわしい仕事であったといえよう。

 なお巻別の収載絵巻名はつぎのごとくである。

第一巻 扇面古写経・伴大納言絵詞・鳥獣戯画・信貴山縁起絵巻・餓鬼草紙・北野天神縁起絵巻
第二巻 一遍聖絵
第三巻 粉河寺縁起絵巻・西行物語絵巻・吉備大臣入唐絵詞・馬医草紙絵巻・当麻曼荼羅縁起・伊勢新名所歌合絵巻・男衾三郎絵詞・天狗草紙絵巻・石山寺縁起絵巻
第四巻 親鸞上人絵伝・後三年合戦絵巻・絵師草紙・長谷雄卿草紙・直幹申文・春日権現験記絵・福富草紙
第五巻 法人上人絵伝・慕帰絵詞・融通念仏縁起絵巻

(河岡武春)

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