語られた渋沢敬三

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『豆州内浦漁民史料』解題 / 山口和雄

『渋沢敬三. 上』(渋沢敬三伝記編纂刊行会, 1979.09) p.229-242掲載

豆州内浦漁民史料
 上巻 アチック・ミューゼアム 昭和12・8刊
 中巻ノ一 〃 昭和13・5刊
 中巻ノ二 〃 昭和13・12刊
 下巻 〃 昭和14・12刊

 敬三は、昭和六年十一月祖父栄一が逝去した際、看病から葬式と多忙と心労の日々がつづいたため、急性の糖尿病にかかった。そのため、七年二月から、幼時からなじみの深い伊豆西海岸駿河湾に面する三津浜(現在の静岡県加茂郡中伊豆町)で療養生活をしたが、その際、隣部落の長浜の旧津元大川四郎左衛門家から永正年代からの尨大な量の漁村古文書を見出した。この発見は、彼を大変驚かし、かつ喜ばしたようで、しばらくの間は療養先の三津の定宿で文書の整理と筆写に没頭したが、とうてい完了するわけにはいかなかった。また、その間伝手を求めて近隣の旧津元や旧家の史料をも探索した。そこで彼は、これらを整理筆写の上出版する決意をかため、大川四郎左衛門の承諾を得て東京に持ち帰ったのである。

 この間のことを彼は『豆州内浦漁民史料』の序文にあたる「本書成立の由来」の中で詳しく述べているが、その叙述は、その時の模様を生き生きと語って興味深いものがあるので、多少長文に亘るがまずそれを引用する。

 「或る日、漁師の伝次郎君にこの浦の古いことを聞いて居る内に、色々と面白い節があるので、誰か昔の事に詳しい人の話は聞けまいかと云った所しばらく他所して居たが丁度最近帰って来た長浜の大川老人なら知って居ますから、その旨を伝へて置きませうと云ふことであった。ところが、その日の夜、大川四郎左衛門翁が宿へ訪ねて来て下さり「こんなものが家に伝って居て太閤様のものだと云ふがほんとうでせうか」と云って拡げられたのを見ると……天正十八年四月の秀吉の朱印状で而も例の丸い朱印がさかさまに捺してある。こんなものがお家に未だ外にありますかと聞くと長持に一ぱいあると云ふので、それは後日拝見することとして此の浦の故事を伺った。翁の話は極めて巧みで長くもあった。又其後も度々に亘って或は浦の来歴を、或は我家の歴史を、又或る時は変化に富む数奇な一身の経歴を語られ、其の度毎に時の立つのも夜の更けるのも忘れて聞き入った。……

 大川翁が持参した天正十八年の秀吉朱印状に驚いた自分は、その翌日、早速翁の家を訪ねると、翁も多少の整理はしてあったらしく右の文書その外、北条氏虎印三四通と慶長・元和・寛永頃の文書十四五通は黒い漆塗りの文箱の引出しに入って居るのを最初に見せられた。古文書に全く素人の自分にも、これ等が珠玉の様な気がして無造作に摘み出される翁の老いた手にハラハラしたものだが、これが終って次に案内されたのは門長屋の中にある六畳の部屋で、その押入から出された各種の木箱を開けて見るに及んで翁の無造作な取扱ひも肯かれたのであった。ある箱は漁業上の帳面で埋まって居り或る箱は天正・慶長・元禄・享保・明治等各種の時代の文書と共に大きな紙帳までが雑然と入ってゐて全くどれから手をつけていいか判らぬ位であった。翁の住まってゐる母屋から二十間ばかり離れた奥に土蔵があって、その中の長持にも古書・帳面・古証文その他が一杯詰ってゐた。

 不思議に感じたことはこれだけ古い年代の古文書が先づ大体、虫に喰はれ方が少く、又往々百姓の旧家に見かける様にくすぶりもせず、割合ウブな侭に保存されてゐた事で、これは全く僥倖とも云ふべき事と思った。

 翁は自分の家にとって恥になる様な事も書いてあるものが有るか知れぬが、それだけは気をつけて欲しい。併し後はどう写されても構はぬから御覧なさいと極めて寛容な態度で自分を信頼してくれたのは本当に有難い気がした。そこで自分は一部分づつを風呂敷に包んでは宿に持ち帰り貪り読んで見たが、何分にも素人の悲しさで判読出来ぬところが多かったが、ただ目を通しただけではいけないと思って、片端から写し始めた。併し何分にも量が多いし思ひ付いて早川孝太郎君にも来て貰って柴博士等と共に午前七時半頃から夜十時頃まで夢中になって書写した事が約二ヶ月間も続いたかと思ふ。そのうちに早川君も帰ったり、又来たり、時には見舞ひに来てくれた人達まで捉まへて写して貰ったりしたので、びっくりした向きも居た様であった。

 大川翁は何故に自分が一生懸命になって古文書に没頭してゐるか、初めは極めて不思議な面持ちであったが、そのうち吾々の熱心さだけには痛く感激を持つ様になり、又吾々が古文書から得た知識をもとにしての質問振りの変化に或種の感激と興味とを持たれたらしかった。大川家の分を大体一覧してしまった後は、翁や松涛館の主、その他の伝手を求めて他の津元や旧家を訪れては古文書を漁った日も多かった。

 自分の病気も殆んど快癒したので五月の初めまさに帰京せんとしてゐると、ひょっこり翁が訪ねて来られて自家の文書を大学へでも寄贈したいが、御配慮を仰ぎたいと云はれたので、「善い哉言や」と自分は膝を打って賛成し、翁に向って「あなたの所の文書は日本として非常に貴重なものであり、御志の通り今後これが国家の手に保存されて永久に残るならば翁《あなた》としても死なれた後、四百年このかたの御先祖に会はれて立派に責任を果し得たと云ふ事が出来るであらう、もしこの侭にして置いて翁の亡き跡、滅失または分散してしまっては実に悔いても及ばざるものあり、早速その手配をしようが、ただ直ちに寄贈してしまっては或る種の文書は直ぐにも学者が利用出来ようけれども自分はこの文書は一つの村の四百年間の記録の集大成であって纏った所にまた別種の価値があると思ふ故、願はくは自分にその出版を委ねられ然る後、現物を寄附することにいたされてはどうか」と答へた所、翁は快諾されたので、ここに自分として、その意をかため帰京後、穏積重遠博士とも相談の上、自分の曽て学んだ東京帝国大学経済学部研究室を選定し当時の学部長森荘三郎博士にその旨を伝へ、翁の名に於いて寄附することとし、その実行は暫しの猶予を求めたのであった。

 何分にも文書の数量は多いし所蔵者も一様ではないので、古文書も読め物事に丹念な藤木喜久麿君が、当時大阪に居たのを帰京前に思ひ出し、同君に交渉し三津へ来て貰ひ、自分の帰京後約二ヶ月に亘って充分整理もしカードも取りして之を東京へ持ち帰って貰ったのである。」

 東京に移された伊豆内浦の漁民史料は、最初は渋沢邸内のアチックミューゼアムの二階の一室で整理が行なわれたが、まもなくやはり邸内に新設された祭魚洞文庫(水産史研究室)に移され、そこで整理と筆写、校合がなされた。この仕事は、敬三の主宰のもとに、当時国学院大学講師だった祝宮静氏を中心に、藤木喜久麿・野沢邦夫・金子総平・小松勝美らの諸氏の協力によって、数年の日子を費して綿密に行なわれた。そしてその成果が渋沢敬三編著『豆州内浦漁民史料』として昭和十二年から十四年にかけてアチックミューゼアムから刊行されたのである。『豆州内浦漁民史料』は上巻一冊、中巻二冊、下巻一冊計四冊、菊判通計二四二九頁余に及ぶ大著で、伊豆内浦の長浜の大川家文書を中心に、近隣の三津の大川家・金指家、重寺の秋山家、木負の秋山家・相磯家、小海の増田家・重須の土屋家などの漁村文書二二七二通余を収録し、それぞれに簡単な註記を加えたものである。

 この史料集を編纂するにあたって、敬三は、編者の主観によって史料の取捨選択を行なわず、蒐集した史料の大部分を収録することを編纂の基本方針とした。その点について、彼は「本書成立の由来」の中で次のように述べている。

 「論文を書くのではない、資料を学界に提供するのである。山から鉱石を掘り出し、之を選鉱して品位を高め焼いて鍰を取り去って粗銅とするのが本書の目的である。之を更にコンバーターに入れ純銅を採り、又圧延して電気銅を取り、或は棒に或は板に、或は線にすることは我々の仕事ではない。原文書を整理して他日学者の用に供し得る形にすることが自分の目的なのである。而して学者の用たる、目的により、種類により、時代により、研究の視野・角度の変化により、今から何が一番価値があり何が全く無駄であり屑であるかは予想し得ない。一方文書は一村としては時代的にも量的にもまとまって居る。多少鉱物としての品位の点は落ちても之は他日学者の精錬法に委すとして大部分を出版して見たい。」

 この編纂方針は全く正しく、その結果本書は、各方面の研究者が利用しうる第一級の史料集となったといってよい。

 この書に収録された文書の年代は、古くは戦国時代の永正十五年(一五一八)から新しいところで明治二十七(一八九四)年に至るまでで、この間四〇〇年近くの長きに及んでおる。この当時はもちろん、現在でもこのように長年月にわたって一地域の漁村史料が数多くまとめられて公刊されたことはほとんどないのであって、ここにこの書の大きな特徴がみられる。各巻収録文書を年代的にみると、上巻には永正十五年(一五一八)から寛延四年(一七五一)にいたる戦国時代から近世中世までの文書七〇二点が、中巻之壱は宝暦元年(一七五一)から嘉永七年(一八五四)にいたる近世中世から幕末までの文書五九六点が、中巻之弐は安政二年(一八五五)から明治二十二年(一八八九)にいたる幕末から明治中期までの文書三六九点が、それぞれ収録されている。その内訳を示すと表 [原文では「前表」] のとおりで、天文年間から明治中期まで、その数量に多少はあっても、年号からみて、一、二を除き、ほとんど洩れなく揃っている。ことに元禄以前のものが、かなり多く含まれていることは注目すべき点である。

(年号)(文書数)
永正1
天文9
永録[永禄]4
天正15
文禄6
慶長14
元和5
寛永43
正保52
慶安64
承応14
明暦9
万治11
寛文68
延宝43
天和30
貞享28
元禄48
宝永13
正徳28
享保142
元文17
寛保7
延享18
寛延13
[小計]702
宝暦65
明和60
安永9
天明30
寛政94
享和29
文化72
文政81
天保68
弘化24
嘉永64
[小計]596
安政61
万延14
文久22
元治12
慶応27
明治233
[小計]369

 最後の下巻には次の諸文書が収録されている。

年号不明文書 二八八点
彦根・長浜大川家往復文書 一八点
長浜大川家家用帳 一点
菜園関係文書 二三八点
朝鮮使関係文書 三四点
補遺文書 二六点

 これらのうち、年号不明文書と補遺文書は上巻・中巻に収められた文書と性格を同じくする漁村文書であるが、その他はそれとやや異なる性格のものである。彦根・長浜大川家往復文書は、江州彦根藩の武士が参勤交代の途中、沼津で長浜大川家のことを聞き、自分の家の祖先が同祖から出たのを知り、それを確めるために元文元年から安永四年にいたる四〇年間、相互に往復した文書であり、長浜大川家家用帳は嘉永四年に記された、大川家の一年中の重要な家事や網方のことを記した覚帳である。菜園関係文書は、当時木負村の奥に樟脳を製する楠木を中心とする幕府の菜園があり、長浜大川家の小文治・要助の二代にわたってその管理を願い出た際の関係書類、朝鮮使関係文書は朝鮮使来朝に関する村文書である。

 下巻には以上のほかに一二二三点に及ぶ帳面類の目録とその実例四二点、および参考篇として木村又助の記述になる天保三年『伊豆紀行』、祭魚洞文庫所蔵の内浦関係文書二点、『静岡県史料』第一輯所収の内浦関係文書四点、高橋与策著『静岡県水産誌』巻四(明治二十七年刊)中の内浦漁業に関連する記述が収められている。帳面類の中心をなすのは大網漁業の水揚帳・割帳等と年貢関係の帳簿類で、これらも大網漁業の経営状態や内浦各村の租税関係を知る上で貴重な史料であるが、尨大な冊数のため四十数点の代表的な実例を示すにとどめている。

 このように、本史料集には多少特殊な史料も含まれているが、大部分は内浦旧六ヵ村の漁村文書で、その中心をなすのはなんと言ってもこの地方の代表的漁業である大網漁業に関係する文書である。そこで以下、それらの史料にもとづきこの大網漁業の大体を説明しておこう。

 この地方で大網漁業というのは、正確には建切網漁業のことをさすが、この漁業は、網幅がほぼ水深に一致する帯状形の大網を以て魚群を外水界から建切り、その内部に残された魚群を曳網・敷網または刺網を用いて漁獲する漁業を言い、主要漁獲物はカツオ・マグロ・イルカ・ボラなどであった。この建切網漁業は明治中期以降次第に衰退したが、浮魚の大群が湾内深く襲来した江戸時代前から明治初期にかけては、所々でさかんに営まれたところの代表的漁業の一つで、豆州内浦はその主要漁業地の一つであった。

 内浦旧六ヵ村、すなわち重寺・小海・三津・長浜・重須・木負のうち、重須・木負の両村はどちらかと言えば農主漁副、重寺・小海・長浜は漁主農副、三津は農漁のほか多少商業も発展していたが、内浦六ヵ村を全体としてみる時は漁主農副の村落であったといってよいであろう。そして、江戸時代から明治前半にかけこの地方に行われた漁業には、建切網漁業のほか、鰮網・鯛網・任せ網・手繰網・二人引網等の網漁業ならびに各種釣縄漁業があったが、この中でも建切網漁業が最も重要な漁業で、いわゆる「立猟」であった。重寺・小海・長浜のような漁主農副の部落にあっては、部落の大部分のものが多かれ少かれこの漁業に関係していたのであって、かかる点からみて、この漁業は「村漁業」といってよく、その好漁不漁は村の経済、村人の生活に関係することすこぶる大きかった。

 この地方の建切網漁業は大網または立網漁業と呼ばれ、マグロ・ビンナガ・メジ・カツオ・イルカなどが主要漁獲物であった。漁期は別に定まったことなく、何時でも魚群が襲来した時に行われたが、実際には三月から九月までが主要漁期で、九月以降二月までは漁獲はイルカのほかはそう多くなかった。漁夫は網子《あんご》と称し、一組に六名ないし八名、津元の統率のもとにこの漁業を営む。津元は大まかにいえば漁業経営主である。漁船は網船一艘、はし船一艘、魚取場船数艘、漁網は大網二帖。あと網一帖・小立網一帖・取網一帖からなる。魚群の襲来が魚見によって報ぜられると、網子たちは漁網を積みこんだ網船およびその他の漁船に打ち乗って漁場に赴き、まず立網を立廻して魚群を囲み、次第にそれを磯地に曳寄せ、さらにこの立網内に小立網を立ち廻して魚を逃れないようにし、その中に船を乗り入れて取網を以て漁獲する。漁場は網度場《あんどば》または立物場と称し、それぞれ各部落においてこの漁業に好適の場所が昔から選定され、その数も江戸期・明治期を通じ、長浜五ヵ所、三津三ヵ所、小海二ヵ所、重寺四ヵ所、重須三ヵ所、木負二ヵ所に立っていた。網度場にはそれぞれ固有の名前がついていたので、たとえば長浜の網度揚は重須村との境からいうと、小脇・網代・宮戸・小沢・二又という名前で呼ばれていた。網度揚の数に制約されて、各村とも網組の数は網度場数と全く同一であった。やはり長浜村を例にとると、上記の五ヵ所の網度場に対し五組の大網網組があり、その網組にも大網舟方・四郎次方・五郎左衛門方・三人衆方、法船方という名前がつけられていた。しかし、古くは網組数は倍あったようで、長浜村では右の五組のほかに、中屋方・妙福方・長沢方・道正方・二又方と呼ばれる五網組が存在した。だが、網度場数に制約されて、次第に特定の二網組が寄合って漁業するようになり、江戸初期には(五郎左衛門方 中城方 (大網舟方 妙福方 (四郎二郎方 長沢方 (三人衆方 道正方 (法船方 二又方 なる組織ができあがるようになった。そして、江戸中期前後から一組中の特定の一網組が他の網組を吸収し、やがて先記のような五組の網組となったようである。

 かくて、各村とも網度場数と同一の網組となったが、網度場によって魚の捕れ方に不公平があるので、何時の頃からか各組が順繰りに各網度を廻って漁業をするようになった。長浜では三月一日から九月の終りまでは二日目毎に十月のはじめから二月の終りまでは五日目毎に、順番に網度場を交代して漁撈を行なった。これを「網度日繰り」と云い、この日繰りの順序などを記した帳簿も収録されている。ちなみに、このような漁場割替の制は、この地方に限ったものではなく、近世には定置漁業またはそれに準ずる漁業の行なれたところでは、しばしば行なわれている。

 以上は大網漁業作業の基本形態で、魚群が大量に襲来した時はこれとは異なり、各網組または数村が寄合って漁撈した。その時の状況により二艘寄合、四艘寄合、二ヵ村寄合、四ヵ村寄合、五ヵ村寄合等が行われた。しかし、これらの場合も漁撈の原理は単独の場合と同様で、ただ規模が大きくなり、複雑化したにすぎない。

 しからば、このような建切網漁業が何時頃からこの地方に起ったかというに、その起源については明確でないが、天文十二年(一五四三)頃にはすでに長浜村でこの漁業が行われていたことは明らかである。その後この漁業は、江戸時代から明治初年にかけ、一進一退のもとにこの地方で営まれた。浮魚漁業であるので、魚群の襲来の如何により大漁の年もあったが、不漁の年も少なくなかった。しかし、各村の網組数には増減なく、長浜五組、三津三組・小海二組・重寺四組・重須三組・木負二組が維持された。

 しかるに、明治八年十二月太政官第一九五号漁場官有令の公布、ならびに同九年九月第七四号による該布告の修正を契機とし、大網漁業における津元と網子との間にも漁業権の問題をめぐって深刻な争いをひき起し、明治十九年漁業組合の成立をみる頃には、従来の津元は廃止され、網子自らが漁業主となり、従来の網組を単位に組合組織となって本漁業を営むようになった。このように、この頃になると漁業組織は大変化を来したが、漁業そのものは変化することなく、いぜん旧態のままで続けられた。だが、明治も後半以後になると、永年の濫獲のためマグロ・カツオなどの浮魚がそれまでのように湾内深く襲来するのは次第に減少し、浮魚の漁場は年一年と沖合となった。かくて、魚群の湾内深く襲来するのを第一の条件とする本漁業のような原始的漁法は、次第に衰退のやむなきにいたり、明治末から大正初期にかけてはわずかに余命を保つにすぎなくなった。

 以上が建切網漁業の史的変遷の大要である。次に、近世中後期をとり、この漁業の経営組織の概略を説明しておこう。この漁業は網度持・津元・網子の三者から構成されていた。網度持は、その漁業の収益の配当を受ける権利を有するもので、その数は一網組につき一名ないし数名。自らは直接漁撈や経営業務に従事せず、収益の配当のみを受ける点で、現代の株式会社の株主に似ているが、株主と異なり経営に対し責任をもち、大網再生産費の一部と定納浮役米を負担しなくてはならなかった。収益は彼らの持株数に応じて配分された。株数は全部で二帖で、その持分割合はたとえば天保三年長浜大網舟方組の場合を示すと次のとおりであった。

(細慶持名) (持株数)
四郎左衛門(津元) 一帖四分の一
三津 久左衛門 半帖
三津 治兵衛 四分の一

 津元は、網子の統率から漁獲物の販売、漁獲高の配分、分一税の上納、漁具漁船の管理、整備等にいたるまで、漁業経営全般の指揮にあたる、いわば漁業経営主であった。おおむねその網組の最大の網度持で、網度持としての配当を受けるほか、津元としての取分を得ていた。津元取分は、漁獲高から分一税、諸入費等を差引いた残高の四分の三ぐらいであった。津元はその村の名主、地主であることが多く、しかも世襲の場合が多かった。当該漁撈日に津元の役をなすものは一人であったが、津元株をもち津元となる資格をもつものは一名と限ったことはなく、一網組に二名のこともあった。

 網子は津元の指揮のもとに漁撈に従事するもので、一網組に六名ないし八名ぐらいであった。漁獲高から分一税・漁具再生産費・雑費等を差引いた残高の四分一が網子の配当金で、それを網子数で除したものが網子一人の取分であった。網子にはこの取分のほか、賞与とみられる網子費が与えられ、へら取には特別の手当も支給された。へら取は網子の頭格のもので、津元と網子との問に立って魚をとる指揮をしたり、魚を売る時商人と交渉したり、また網子の世話をしたりした。網子の取分は好漁の時はともかく、不漁の時などはきわめてわずかで、そうした時は津元から借金したり、農作その他で辛うじて生計を維持していたようである。津元と網子との関係は、いちおう毎年契約を改めていたが、津元の権力が強く、網子はなかば世襲的にその船に乗込んでいたようである。旧津元大川四郎左衛門は敬三に対し、津元と網子との関係などについて次のように述べている。

 「私の若い頃でも平漁師、即ち網子共は我々を旦那と云ひ被った手拭も必ず取って挨拶をし、それはそれは階級的な区別があったものです。

 お正月の七日には網子共は津元の家に集って飲み喰ひをしましたが、この時、津元は「首つり粥」と云ふ粥を出しました。之を喰べると、その一ヶ年は、その津元に忠誠を誓うことになるのでした。又津元の云ふ事を聞かなかったり、悪いことをしたりすると津元はその網子が船に乗ることを禁じました。これは網子にとって一番恐ろしいことでこの制裁は非常に効果があった様です。

 長浜では津元が幾人か居て、網子を指揮し、魚を獲って居りましたが、その組は六組あって、その名前をあげると、大網舟方・四郎次方・五郎左衛門方・三人衆方・法船方の五つであります。各々六人の網子が乗組み、その内二人はヘラトリと云って支配人の様な格で津元と網子との問に立って魚をとる指揮をしたり、魚を売る時商人と交渉をしたり、又網子の世話をしたりしました。つまり網子はヘラトリを含めて三十人居たわけで、之も世襲的にこの村に住んで居ました。尤も魚をとるには人数が余計いるから之等の本網子の外に手間としてその家族や又は網子の雇人まで大勢居たわけです。」

 網度持のもつ収益権、すなわち網度は古くからかなりひんぱんに譲渡売買された。『内浦漁民史料』に収録された網度の譲渡売買証文は、慶安四年(一六五一)から明治十三年(一八八〇)まで全部で七五通に及んでいる。このうち永代売買証文は五通、しかも江戸期のものはそのうち二通にすぎず、大部分が期限を限っての売買証文でその数四二通、書入証文が一一通である。この地方では田畑に準じ、漁場も永代売買はできるだけ行なわぬ方針が採られたのであろう。期限は江戸初期には十年以上のものも多少はみられたが、中期以降はほとんどが十年以下で、この場合も土地の規定に準じたのではないかと思われる。売買量は半帖が最も多く、価格は初めは半帖十両内外、それが次第に騰貴して幕末から明治期には百数十両に達している。

 網度の売買がこのように多かったのは、内浦地方は年貢・浮役が金納だったので、その上納期に多額の金子を必要としたためと思われるが、それにしても、近世初期からかくもひんぱんに、しかも半帖、四分の一帖のような分割単位で、売買されていたことは注目に値する。

 漁獲物の売買は入札で行なわれた。その模様を大川翁は次のように語っている。

「此の内でもシビやメジが捕れると三津に居るナマシ(生師)が之を買って江戸へ送りました。それは大部分青竹を割ったもので魚を荷造りして大小に応じて馬の背につけます。馬は魚がとれると三津の荷宰料や馬頼みが駈足で裏山の奥の長瀬小坂即ち今の長岡温泉あたりの百姓に触れ歩いて集めるのです。荷が出来ると馬の列が続いて三津坂を越し今の長岡から湯ヶ島を通って天城を越えて網代へ出て、そこから押し送り船で相模灘を乗切り三浦岬を廻って江戸へ入りました。私の記憶では一晩にメジが四千七百本、百七十頭の馬に積んで出たのを覚えてゐます。なんでも夕方の七時頃三津を立って、その時分は、まだ狼が出るとか云って荷宰料は沢山松明を照らして居ましたが、網代へは午前の三時か四時頃着いたと云ひます。

 また或る部分はスキミと云ひ鮪を大きな切身にして、塩に漬け樽に入れて沼津へ出し、それから富士川筋を遡って身延を通り中馬の脊を借りて甲州にも入ったようです。又或る部分はこの辺の漁師の家族が所謂ボテフリとして近郷へ売り歩いた様です。

 生師が魚を買ふ時は皆海岸に集まり、石コロを手拭ひに包んでそれで入札したものでした。」

 近世中後期からはわが国の重要漁業に対しては、魚問屋を中心とする商人資本が侵入し、漁獲物を独占的に買占める例が多かったが、この地方の大網漁業の場合はそうしたことはほとんどみられなかった。これは、右にもあるように、漁獲物の販売が生師による入札の法で行なわれたがためと思われる。

 以上が内浦地方の主要漁業である大網漁業の大あらましである。この史料集に収録された史料は、この大網漁業に関係するものが最も多く、その中核をなしているのであるが、そのほかにも、税制・土地制度・農業・林業・商品流通・貨幣・金融・物価・村落・人口・家族構成などの史料も少なくないし、災害・宗教・民俗行事などの関係文書も収められている。したがって、この史料集を仔細に分析することによって、大網漁業だけでなく、戦国期から江戸時代を通じ、明治前半にいたる駿河湾内の半農半漁村の移り変りとその中における半農半漁民の生活を史実にそくしかなり具体的に知ることができよう。また、本書は漁業史・漁村史の研究だけでなく、土地制度史・財政史・貨幣金融史などの研究に対しても有用な史料を提供するものでもある。かかる点において、本書は今後も末永く各方面から利用される第一級の史料集といえよう。なお、敬三は本書の編纂により昭和十六 [十五] 年日本農学会から日本農学賞を授与された。 (山口和雄)

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