語られた渋沢敬三

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『塩俗問答集』解題 / 河岡武春

『渋沢敬三. 上』(渋沢敬三伝記編纂刊行会, 1979.09) p.226-228掲載

塩俗問答集 アチック・ミューゼアム 昭和14・2刊

 本書は序によると、昭和七年初春、本研究所に於て左記の塩についての質問票を作製し、広く各地の諸賢に之を送り御教示を仰いだ事がある。本書はこの質問票に基いて回答せられた諸賢の御報告を整理編輯したものである。渋沢の年譜によると、栄一の看病過労にて急性糖尿病を患い、前年歳末より呉内科に入院。此間塩に関するアンケート発送とあるのがそれである。質問要項は、(1)塩の貯蔵方法と容器・名称、(2)塩の取扱に就ての慣習など二十一項目で、その回答者は朝鮮をふくめて一五六人に及んでいる。しかし、村上清文の回顧によると、昭和六年から村上、早川孝太郎、高橋文太郎などの諸氏とともに、アチックの民具「蒐集物目安」の作成がなされており、大体時期的にはこれと併行して検討されていた。

 渋沢の塩についての関心は早い。大正三年・武州大岳、氷川、日原と旅行しているが、日原辰見屋にて、夜塩を所望したところ、宿の老婆に「浪の花」と訂正され、それが夜間の忌言葉であることを知った。また昭和六年六月、秘境越後三面村に入っているが、その時の記述が「中馬制の記録」(長野県教育委員会 昭34)の跋文に見える。「上野駅を夜行で立ち、早朝米沢で乗り換え、手ノ子(当時は汽車がここまでしか通じていなかった)から、自動車で小国に入り、折戸で車を捨てて峠を越し、朝日岳麓三面川ぞいの三面村は高橋源蔵さん方にたどりついたのが昭和六年六月中旬。かつて砂金で多少は栄えたものの今はうらぶれた村であるが、目下梨の花盛り「新緑につつまれて明るかった。朝方高橋さんの老母がはげちょろけたうるし塗りの小椀に清浄な水を入れ、それにわざわざ薄汚い塩をつまんで入れて塩水にし、ミゴ箒で神棚その他にかけて他に祈っているのを見て、隠岐島前三度《みたべ》村や出雲大社で老婆が海水を小さな竹筒に汲み海草で神前にふりかけているのと合せ考え、この民俗の地底に、こんな山奥に居ながら、無意識かつ潜在的ではあっても、深く大きく「海」を見ているなと感じ入ったことであった。」

 私たちが旅をして、車窓からながめる風景がゆたかに思われたことの一つに、稼動している塩田が少くなかったことがある。塩田ということばは、明治になって、新政府の役人が使いはじめた新しい用語で、それ以前は塩浜といった。産地で直接塩を買うことを「浜買い」といい、塩をはこぶ駄賃づけの馬を「浜馬」というなど、ゆかしい言葉も失われてしまった。

 一おう機械装置とみられる枝条架製塩法さえ今はすたれ、現在はイオン交換樹脂膜によるまったくの装置工業が、製塩工場の中で行われている。このように塩をめぐる客観情勢はめまぐるしく変って来た。塩を消費する人の心持が変ってくることもまた止むを得ない。

 日本は周囲を海にかこまれ、海塩のみに依存してきたが、「誤って塩をこぼすと、その塩は泣き泣き三年かかってもとの海へもどる」という俗信などは、海に培われた国民性をよくあらわしている。塩(海水)に汚れをさり、身を清める属性を信ずるなど、塩は物心両面にわたって、われわれの生活に深いかかわりあいをもってきた。「親の恩はおくっても塩の恩は送られぬ」(親の恩より大切の意)というほど、先人は塩を貴重品として大事にしたのである。

 塩の用途ももとは調味料のみでなく、民間療法として胃腸薬や外傷の消毒があった。歯をみがくことは今もごく一部には行われているかも知れないが、もとは虫歯にもつめた。このほか塩のつかい方は、無数に本書には語られているが、それらの中には見捨られるには惜しい、庶民の生活の知恵のうみ出したものが少くないのである。

 室町時代にわが国にきたキリスト教宣教師が、ヨーロッパ人は一日二日塩気がなくても平気でいられるのに、日本人は一日二日塩気を断っただけで、目にみえて身体がまいってしまうことを観察しているが、これなどは外国人の眼に映った、塩と日本人の異常なまでの結びつきを物語るものである。

 本書は前にのべたごとく昭和七年の調査で、ここに収められている塩の民俗は大方ほろび、今では類書のない古典となった。その意味で本書は、塩にたいする日本人の心のかよいをいつまでも記念してくれる。 (河岡武春)

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