語られた渋沢敬三

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『式内水産物需給試考』解題 / 山口和雄

『渋沢敬三. 上』(渋沢敬三伝記編纂刊行会, 1979.09) p.216-226掲載

式内水産物需給試考
 第一輯 渋沢水産史研究室報告 昭和16・6刊
 第二輯 〃 昭和17・8刊

 敬三は、昭和十二年からわが国魚名の蒐集整理と研究を手がけ、その成果を『日本魚名集覧』として公刊した。このことは前記したところであるが、この魚名の研究にあたって敬三は、『延喜式』およびそれ以前の古文献に魚名を探し求めた。その時『延喜式』を通覧して、その中に出てくる水産物の豊富で多様なこと、およびその需要供給の状況などに大変興味をもった。そして、それが縁となって彼は、延喜式時代を中心とする水産物の需給状態その他を研究するようになったのである。この点について彼はこの論文の章で次のように述べている。

 「我国の魚名研究途上、平安朝以前の魚名にも一応触れる必要を感じ、延喜式其の他此の時代以前の文献に魚名を探し求めたことがある。その時、延喜式を通覧して、その記述の中に於ける水産物の豊富と多様性に一驚を喫すると共に、いたく興味を覚えたのであった。又これと同時に従来延喜式と云えば神名帳と祝詞の代名詞の如き感を持って居た物知らずの自分は今度通覧するに及んで、それ以外の記録、殊に民具の種類・用途、並にその製法、食料として各種の農作物、耕作法、施肥、繊維製品及染色の状況、医薬、鉄器文化の程度、人口、運輸、交易、法制上に表われた当時の社会心理等凡百の事項に亘り、斯る古い時代に、よくもこれだけ精緻に記録されたものとして真に敬服したのであった。就中当研究室に関係深き水産物に就いて注意して見ても、その需要量に於てアワビ・ワカメ・カツオ・アラメ等が断然多いこと、貢献物運輸や貯蔵の関係からか、乾燥物、塩蔵物、軽量物に主力をそそがれて居ること、塩の取扱が量的にも多いと同時に極めて慎重であること、同時代又はそれ以前の他の文献を通じて取り扱われて居る魚類約五十種の内、式に表われる魚類は一つには祭祀に関係ある為か、或る種の限定があること、今では東北地方以外にはあまり顧みられない海鞘類たるホヤの類迄此の当時相当珍重されて居たこと等は何れも興味深い問題であった。又延喜式に於ける水産物を斯く経済的方面から見ると、大体二つの方面から成立て居ることを知った。即ち需要の面と供給の面、之である。需要の面の第一は神祇祭祀の供御であり、第二は朝廷への貢納を初めとし百官の食料としての給与である。供給の面を見ると調、庸、中男作物としての貢租、御贄又は宮廷への月料等の貢献の形に於て表われる。式は是の両面に亘って当時としては驚くべき程の緻密さを以て記録して居る。即ち一見して式に於ける需給関係は或程度綜合明確に為し得るが如く思えた。又各種貢物の品目と、その産地とを併せ記録せることは式を物産誌としても有意義ならしむると思えた。其処で筆者は式に於ける水産物の此の種関係の調査を思い立ち」云々。

 その研究の成果は、「式内水産物需給試考」として昭和十六年五月刊行の『渋沢漁業史研究室報告』第一輯と同十七年八月刊行の『渋沢水産史研究室報告』第二輯に掲載され、のち昭和二十九年刊の渋沢敬三著『祭魚洞雑考』に収録された。ちなみに、『渋沢漁業史研究室報告』・『渋沢水産史研究室報告』は同研究室(祭魚洞文庫)の研究員の研究報告を収めたものであるが、戦争が激しくなったため、第二輯を刊行したのにとどまった。第二輯以後が刊行されたならば、敬三はこの論文の続きをさらに書いたかも知れない。

 「式内水産物需給試考」は菊判二段組八二頁に及ぶ長論文であるが、その中で敬三は、『延喜式』に現われる淡水魚として鯉・鮒・鮭・鮎・阿米魚《アメノウオ》・鱒・伊具比《イグヒ》・鱸《スズキ》・鱉《イシブシ》の九種をとりあげ、それぞれの名称・産地・加工物および式内における需要供給につき『延喜式』をはじめ記紀・『万葉集』・各種の『風土記』・『和名抄』・『新撰字鏡』その他各種の古文献を広く渉猟して考察を加え、さらに進んで、これら淡水魚の漁法および禁漁についても検討している。以下、それぞれにつき簡単な要約をしておく。

≪第一 鯉≫
 名実 『新撰字鏡』、『類聚名義抄』、『和名抄』等の古辞典類はいずれも漢字に鯉を掲げ、和名として古比、コヒと訓んでいる。当時わが国各地に生棲していたが、古文献における記載は比較的少ない。
 用途 延喜式において鯉が祭祀の料物などに供せられる記述は二回ほどで比較的少ない。この点は、中世以後武家の儀礼その他にさかんに用いられたのにくらべると意外である。また鯉は生また煮食を主とし、塩乾蔵に適しない点も他の魚と異るところで、かかる点から、古代においても貢租の対象としては不便不適であったようである。
 需要 延喜式内において鯉の需要されるのは、祭祀用として二つの場合があるのみで、その量も多くても一年にわずか百隻以内であった。
 供給 美濃のほか山城・大和・河内・和泉・摂津・近江の六ヵ国から鯉が中男作物その他として献上されているが、その供給量を数量的に明らかにすることはできない。しかし、もともと鯉は需要が少ないので、十分賄いできたであろう。

≪第二 鮒≫
 名実 『新撰字鏡』は不奈、『類聚名義抄』はフナ、『和名抄』は布奈として和訓を示している。常陸・出雲・播磨各『風土記』や『万葉集』、『源氏物語』などにも現われ、鯉にくらべると鮒の方が古文献に出る度数が多いが、それでも比較的僅かと言わざるえない。ことに、記紀にはほとんど現われて来ない。ただ、『延喜式』では鮒は単に鮮魚としてのみならず、鮒の鮨や醤として多く現われてくる。この点、鯉と異るところである。
 用途 延喜式における鮒の用途は鮮魚と製造品との二通りあった。鮮魚の場合は鯉と同様、ほとんどすべてが大学式に出る釈奠の三牲(大鹿・小鹿・猪各一頭)の代用として用いられた。製造品としては醤鮒、鮨鮒、味塩鮒の三種があった。延喜式時代の醤は、比之保《ヒシホ》と呼ばれ、大豆に糯米、小麦、酒、塩等を和して製した精進物であるが、醤にはこのほか、魚類を基としたものもあった。醤鰒、醤鮒、醤鰯などがそれである。その実体は必ずしも判然としないが、おそらく魚類と塩とを和え、ねかせてできたものおよびその汁をいうのであろう。
 鮨鮒は鮒の鮨である。鮨は、当時は一般に飯と塩で魚介類を蔵し、味熟して酸味を生ずるにいたったものをいうが、飯を用いず酢を用いて製した場合もある。延喜式に現われる各種の鮨は、その分量や運搬などから推量すると、飯を伴わないものが多かったと思われる。味塩鮒の実体も判然としないが、あまり強く塩をきかさない鮒の塩漬の一種とみられる。
 需要 延喜式における鮒の需要もそう大量ではない。鮮鮒が用いられるのは、鯉の場合と同様二月八日の釈奠における三牲の代用として用いられる場合と随時の食料としてであった。醤鮒や鮨鮒の需要もかなりあったと思われるが、祭祀関係では醤鮒のみが出てくる。鮨鮒はもっぱら食料に供せられた。
 供給 諸国からどのくらいの鮒および鮒製品が中央に貢献されたか、正丁の人数や中男の員数等が判明しないので明らかにすることができないが、鮮鮒は比較的少なく、大部分は醤鮒、鮒鮨等の製品であった。すなわち、祭祀関係よりも食料調味料としての供給が重要だったのである。鮒の供出地をみると、近江・山城・河内・摂津・美濃、九州としては太宰府を中心とした筑前・筑後で、このうち近江からの供出量が最も多量であった。

≪第三 鮭≫
 名実 『新撰字鏡』は鮭佐介、『類聚名義抄』は鮭サケ年魚サケ、『和名抄』は鮭佐介、其子似苺と記している。
 鮭は『常陸風土記』、『出雲風土記』に現われてくる。太平洋側の南限は利根川あたり、日本海斜面の南限は出雲で、とくに有名な産地は越後であった。
 用途 延喜式を通じてみると、鮭は当時の祭祀に欠くべからざるもので、相当量の鮭が祭料、供料として使用されたことが知られる。祭祀用よりももっと重要だったのは、大臣以下の官吏に給与される食料としての鮭(塩鮭)で、その量は相当なものであった。もっとも、官位が下ると鮭の代りに鯖が与えられたようである。
 鮭は鮮魚のほか塩乾蔵された。その主なものをあげると次のとおりである。
 生鮭 鮮魚としての鮭の場合は、多く生と断ってある。
 鮭 臓腑を抜いて塩蔵したもの、塩引の如きものであろう。
 干鮭(カラザケ) 魚全部を乾し堅めたもの。
 鮭の内子(コゴモリ) 卵を腹に入れたままの塩鮭か。
 鮭の子 いわゆる筋子で、『和名抄』に苺に似たりとあるのはこれである。
 鮭楚割(スハヤリ) 実体はよくわからないが、一般に鮭の肉を長く劈いて乾したものとされている。
 鮭鮨 前述した鮨鮒と製法は同様であったと思われる。
 氷頭(ヒヅ) 鮭の頭部軟骨。薄く切ったものは半透明で一見氷片のようにみえる。
 脊腸(セワタ)『和名抄』はミノワタとも訓み、鮭の腸の塩辛の如きものと説いている。現在のメフン(鮭の副腎の塩辛)のようなものであろう。
 需要 前記したように、延喜式内において鮭は祭祀用、給与用に多量必要とされたのでこの論文の筆者は、延喜式に現われる鮭の総需要量を推算して「恐らく式内鮭需要量は少くとも年額一万隻は下らなかったと見るが寧ろ至当と云えるであろう。皇室の御人数が少し多ければ直ちに三万隻は入用となった筈である」と述べている。その鮭の大部分は塩鮭であった。
 供給 鮭およびその製品の供給数量は文献的には全く不明確であって、需要数をみたしていたと想像する以外にない。

≪第四 鮎≫
 名実 『和名抄』には鮎魚とあり、安由と訓み、『類聚名義抄』には年魚と記され、アユおよびサケと訓み、鮎、細鱗魚・銀口魚等皆アユと訓んでいる。晩秋産卵し、河中で孵化し、稚魚は海に下り来春遡河する。体長二寸ぐらいまでは色素細胞発達せず透明である。昔からこの時代のアユを氷魚(ヒオ)と言い、また所によりシラスアユ等と言った。ここでは氷魚をも一括して記すこととする。
 鮎(年魚)の文献上の初見は古事記であるが、その他『日本書紀』、常陸・出雲・播磨・肥前・豊後・豊前の各『風土記』、『万葉集』等の各種の古文献にその名が現われている。
 用途 延喜式における鮎は、やはり祭祀用および給与用に供せられているが、その例は僅少である。『万葉集』その他によって鮎はわが国上下の人々にとり親しみ深く愛好されていたことは明らかであるが、それにも拘らず式の各祭祀にもまた各給与にも鮎が多くみられないのは意外であり、一考を要することである。鮎(年魚)の製品には次のごときものがあった。
塩蔵……押年魚・塩漬年魚・塩塗年魚
酢蔵……鮨年魚・内子鮨年魚(コゴモリノスシアユ)
乾蔵……火干年魚・煮乾年魚
 需要 式内における鮎(年魚)の需要は、祭祀用、給与用ともあまり多くなかったことは前述のとおりである。一ヵ年分の所要量がどのくらいであったか、判然としない。
 供給 鮎の進貢地としては、太平洋斜面では北は駿河から南は土佐にいたる諸国、日本海斜面では丹波・但馬・因幡の各国、九州では中部以北にわたっており、全体としては相当広範囲である。しかし、古風土記等に見える鮎の産地たる常陸・出雲・肥前等からの進貢はなく、飛騨・陸奥・出羽・壱岐・対島等の諸国は「不輸」と断っている。
 要するに、延喜式に見える鮎の供給はその地域広く、数量も相当多量であったが、式内における需要は祭祀関係、給与関係とも意想外に僅少である。超過分をどう処置したか、今のところ明らかでない。

≪第五 阿米魚≫
 名実 『倭名類聚抄』には鯇、和名阿米とある。その実体は適確には明らかにしがたいが、普通考えられるところによりアメノウオをこれにあてることとする。アメノウオは、東北・北海道方面でヤマベ、東京附近、上野、美濃・信州等でヤマメ、琵琶湖・四国・紀州方面でアメノウオ又はアメ、松本平・富山・岐阜等でアメマス、九州でエノハなどと呼ばれているが、延喜式の阿米魚はすべて近江から出ているので、琵琶湖のアメノウオと等しいものとみて差支えないであろう。同魚に関する古文献はあまり見当らない。
 需給と用途 阿米魚が式の上で何に用いられたかは明らかでない。神饌として供えられたことはなかったようで、恐らく宮中の供御として食料に供せられたのであろう。数量も判然としないが、そう多くなかったとみられる。

≪第六 鱒≫
 名実 『和名抄』は鱒と記し、和名万須と訓んでいる。『常陸風土記』には各河川にいたことが示され、その他『江家次第』などの古文献にも現われてくる。
 需要と供給 鱒も阿米魚と同じように、延喜式の上では御贄と年料として貢進されたことしか出で来ず、数量も示されていない。式宴等の供御に供されただけであろう。

≪第七 伊具比(イグイ)≫
 名実 イグイは現今のウグイである。『和名抄』にも『新撰字鏡』にもさらに記紀にもその名は現われない。古いところでは延喜式と風土記にのみ魚名として現われておる。
 供給 延喜式にはわずか一ヵ所しか出てこないし、数量も不明である。

≪第八 鱸(スズキ)≫
 名実 『和名抄』には鱸の和名須々木とある。延喜式に出てくるスズキは山城の産であるが、大阪湾から遠く遡行したのであろう。本来は海魚とすべきであるが、ここでは鮭鱒と同様淡水魚として取扱うことにした。
 供給 延喜式には鱸はあまり出て来ない。御贄および年料として山城から進貢されている記事が二回ほど出るだけで、数量も明示されていない。

≪第九 鱉(イシブシ)≫
 名実 『延喜式』に見える鱉は大和国の産で乾製と記されているが、その実体は明らかでない。鱉は後世普通ハゼと訓んでいる。淡水産のハゼの類にはドンコ・イシブシ・カジカ・ゴリなどがあるが、琵琶湖のイサザ(ウキゴリの一種)、金沢や京都で有名なゴリ・イシブシ(カシジ)などがこれにあたるものと思われる。
 供給 『延喜式には』大和国「子鱉」或は「乾鱉四担」とある。供御の料に用いられたのであろう。

≪第十 淡水魚の漁法≫
 当時淡水魚の漁法としては、釣漁、さご網、四手網、小曳網などの網漁、梁漁、筌漁・鵜飼などが行なわれた。
  『日本書紀』中の神功皇后が玉島河で年魚を釣った時の記述によると、釣具六物のうち、浮子と沈子を除き鉤・緡糸・餌・竿の四者がそろっており、すでに竿釣の基本形体が整っていたことが知られる。
  淡水用の網としてはさで網・四手網のほか小さな曳網の如きものもすでに使用されていたとみられる。さで網については『和名抄』に纚の字をあて、佐天と訓んでいる。『万葉集』などにもその名が見え、当時さで網が人口に膾炙した漁網であったことが知られる。小曳網の存在を示すものとして敬三は正倉院御物中の麻布山水図に見える網曳きの絵を紹介し、これは「網の絵画上の記録として石器時代を除いて、我国最古のものということが出来るのでばあるまいか」と述べている。また『中尊寺経巻扉絵』には四手網使用の図が示されている。
 (ヤナ) 『和名抄』には「魚梁和名夜奈」と出ている。そのほか、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』などにも現われ、『延喜式』には梁作なる言葉も出てくる。この時代の梁がどんな構造であったか、確たる資料がないので明らかでないが、木杭を左右に立ち並べ、中間に竹簀を張ったごく簡単なものであったと思われる。漁獲物は鮎・氷魚(ヒオ)を主としたが、他の淡水魚ももろん漁獲された。氷魚梁は小規模で竹簀の目の細かいものか、布などが使われたのであろう。
 (ウケ) 筌は竹製筍型の小漁具で、入口に逆舌を設け内部に誘導された魚が再び戻れないような仕懸となっている。この漁具を湖沼河川の特定の場所に設置し、一定時間後に揚げて、コイ・フナ・ウナギ等を漁獲する。『和名抄』には、「和名宇倍、捕魚竹筍也、筍取魚竹器也」とあり、古くはウヘと呼ばれた。『出雲風土記』や『播磨風土記』、さらに万葉集などにもその筌(ウヘ)が現われており、当時広く使われた淡水漁具であったことが知られる。
 鵜飼 鵜飼漁もわが国では古代から行なわれた。記紀、『和名抄』、『万葉集』、『令集解』など、各種の古文献に出てくる。これらの記述から云えることは、「我国に於ては非常に古くから鵜を利用して捕魚して居りしこと、その令布が相当広範囲且つその箇所も数多かったこと、鵜飼する漁民には特殊の家筋があったらしいこと、尊貴な方々又は中央の人々が鵜飼漁民と親しみ深い接触があり、その漁法や状態を知悉して居ること等である。」

≪第十一 禁漁≫
 次に古典に現われる禁漁についてみると、その内容目的は必ずしも一つでなく、数種の問題を含んでいる。
 殺生禁断 これは仏教の教を基とした禁漁であるが、これには天皇御不予または諒闇に際して禁漁を命ぜられる場合と、単純に仏教思想に基き禁漁される場合とがあった。いずれにせよ、その多くは日限が定まっており、且つ漁民に対してその被害者たる地位に思いを致し、その間の給糧に心を配っていることが多い。
 魚族保護を目的とした禁漁 その二、三を示すと、天武天皇四年には四月以降九月まで密梁の設置を、弘仁五年には四月以前におけ小年魚の漁獲を、同十年にはカイボリを、天長十年には藻巻漁を、延暦十九年には再びカイボリを、元慶六年には毒流しを、それぞれ禁止している。

 以上が「式内水産物需給試考」の内容のあらましである。そこで採りあげられたのは淡水魚であるが、その後昭和十八年に敬三は「延喜式内水産神饌に関する考察若干」を書き、その中でアワビ・カツオ・キタイ・ワカメなどの海水魚介類を採りあげて考察している。それについての紹介は下巻に譲ることにするが、この二つの論文は古代日本水産史の研究にとって、注目すべき貴重且つ異色の研究であるといってよいかと思う。 (山口和雄)

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