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『祭魚洞雑録』解題 / 河岡武春
『渋沢敬三. 上』(渋沢敬三伝記編纂刊行会, 1979.09) p.203-212掲載
祭魚洞雑録 B6・四五二頁 郷土研究社 昭8・12刊
渋沢の最初の単行本で、祭魚洞はその号、昭和四年の自筆年譜に、此時分より祭魚洞なる号を用い始む。書物を購いて読まざるを獺徒に魚を捕り岸に棄置く様を諷笑せる支那古句月夜獺祭魚に拠る。尚釣を好み徒らに殺生するにも懸く。正岡子規前二字にて書斉を獺祭書屋と名付けしを後に知る、とある。
本書はつぎの八編より成っている。
アティックの生長 [成長]
南島見聞録(一)~(八) 竜門雑誌453~467号 大15・7~昭2・8
津軽の旅 同517号 昭6・10
井の頭学校生徒手記二三
祖父の後ろ姿 同530号 青淵先生一周忌記念号 昭7・11
伊太利旅行記
倫敦の動物園を見るの記
本邦工業史に関する一考察(一)~(四) 同446~449 大14・11~15・2
これによると四編が竜門雑誌に載り、他の四編が書下しということになる。ふつう処女作には著者のすべてがあると云われるが、敬三のみずみずしい感受性が素直に流露した好編になっている。なお本書を編む動機について「アティックの生長 [成長]」でつぎのように語っている。彼の生命であったアチックミューゼアム(天井裏博物館)の生長を昆虫にたとえ、幼虫時代の物置のアチックが、蛹時代には自働車小屋の屋根裏に移り、それが狭くなって蛹が繭を破って出るようになって、昭和八年に新築の階下ができ、文字通りではなくなった。この時点で「民具図彙」という写真集が編纂中(これは結局出ず『民具問答集』となった)で、蛹は成虫となって空に飛ばんとしていた。――この機に「自分としては何か記念でもして見たい衝動にかられた」という。そうして「全く只之だけの理由で、自分が曽て書いて置いたもの、又竜門雑誌に載せて戴いたつまらぬ雑録をまとめて、一つの本として見たのである。今読み返すと冷汗が出て皆書き直してしまい度いものばかりである。しかし、自分としては、それがどんなにつまらなくても、その当時の感激なり実感なりを、正直にそのままアルコール漬にして置き度いと思ふ故、手も何も入れずに置いた。何れも直接アチックには無関係ではあるが、読み返して見ると、現在のアティックへ一脈の血は通って居る様である。」とある。
本書の価値は、渋沢が縁あって財界に身をおいたけれども、自分の生命は学問であったという常民学が、どのような人間形成のなかでもたらされたものであるかを知り得りところにある。アチックの始めは大正七、八年の交で、大正七年は渋沢が仙台の旧制二高を卒業し、東大法科経済科に入学した年である。が、そもそもの初めは鈴木醇、宮本璋と渋沢が、東京高師附属中学の級友で、お互に中学時代からの蒐集癖から集めていた、植物の腊葉だの化石だの、その他の動物の標本を持ち寄って、一つの博物館を作ったのが元であった。鈴木は年少古生物学者として、満洲の三葉虫など驚くべき数量を集めていた。宮本と渋沢の標本は、明治四十五年の夏、上高地においてそれぞれ植物班、動物班の責任者として採集した採集品から成っていた。それからの道程は長いが、結局は、渋沢を理解するためには、ここからの道程の理解を必要とする。――
八つの作品のうち、最初の労作は「本邦工業史に関する一考察」で、大正九年五月、山崎覚次郎博士のゼミナールにおいて研究し、卒業論文として提出したものである。「この小論文を書きました頃は丁度労働問題が流行でゼミナールの人々も或はストライキ或は社会主義に就て各々勉強されましたが、私は先生のお勧めもあり又経済史に幾分興味を持って居りましたので、此様なものを選んだのであります。……先づビュッヘル氏の所論を考究し、次で之に基いて本邦に於ける有様をながめようとしたのであります。処が当時は本邦経済史に関する資料は今から見ると驚く程少かった為甚だ困難を感じ、却て他の方がやって居らるる翻訳の手取り早いのが羨ましく思はれた程でした」とある。
試みに目次をあげると、緒論と各章は(一)家内仕事 (二)賃仕事 (三)手工業 (四)家内工業 (五)工場制工業と家内工業との関係で、小節は第一章では、家内仕事の意義、本邦に於ける家内仕事とあり、以下これに準ずる。最初にビュッヘル氏の所論を整理し、つぎに本邦における当時少なかった資料を苦心して集め、足で稼いで聞とりもしている。第四章は小項は沿革、経営組織、家内工業の実例、家内工業の組織に基く長短となっている。
本稿はロンドン滞在中、正金銀行の友人間でつくった研究会で要旨を報告したことがある。渋沢はこれを発展させたいといいつつ、直接の発展はなかったが、アチックが近世社会経済史を先がけて手がけ、また漁業史、漁業経済史の開拓の少くとも遠因はなしている。また本文中、音の広告、声の広告にふれており、これは渋沢の「日本広告小史」に生かされ、職人の問題などは民具の製作者とも結びついて、それらの基礎になったことは認めることができる。
つぎに「井の頭学校生徒手記二三」は特異な作品といえるかもしれない。現在三鷹市域となった、かつての井之頭恩賜公園に東京市養育院の井の頭学校があった。生徒百余名、いづれも不良性ありと認められて特種の教育がここで行われていた。しかし敬三には「彼等子供達は一体どこが不良なのであろうか。之は自分が井の頭に行く毎に常に解き得ぬ疑ひ」であった。
敬三は大正十年、北海道に旅行し、十勝開墾会社の農場で一ケ月ほど過ごした。その少し以前に、右の井の頭学校から五人を選抜して同農場で使用していた。その中の一人が山崎恒造であった。渋沢は書いている。
当時十五であった。彼の父が母と共に彼を捨て去ったのは彼の七歳の時であった。この母も亦彼を捨てて姿を隠してしまった。七歳の彼は途方にくれ町を歩き廻った。腹が極度に空いた。焼いもやで芋をさらった。かくして『不良少年』として彼が井の頭に送られたのである。ヂャンバルヂャンの話にそっくりではないか。彼は十勝から何度となく目当なき母へ手紙を出した。皆符箋付で舞ひ戻って来たが彼は止めなかった。母恋し。彼の心はそれで一ぱいであった。自分が帰京する前夜彼は首尾よく脱走した。自分が帰京して間もなく彼は王子の家を訪れた。王子から廻されて自分が遇った時は彼は到頭八王子に母を探し当てて居た。自分は深く感動してしまったが、善後の処置は素人ではよくないと思って、当時養育院に勤務して居られた川口寛三氏に依頼して遂に母の所に落ちつかせて安心したことがある。実は自分を井の頭学校に親しくさせて呉れたのはこの山崎に外ならない。……
敬三が大正十四年ロンドンから帰って、初めて井の頭学校を訪れた時の第一印象は、大都会の子たる彼らに井の頭は都会の音が無さすぎるということであった。何とかして彼らに音を与えたいと思ひつつ、多忙にかまけて一日延ばしにしていた。翌十五年妻登喜子の母磯路が亡くなり、附属の親友であった木内良胤、信胤兄弟から母の御香典返しの相談をうけた。敬三はすぐこの話を持ち出すと、両君ほか一族はみなこの申出を非常に喜び、母の供養として、その一部を割いてバンド一組を購入、寄附をした。そして指揮者はこれも親友の音楽家矢田部勁吉の紹介で、元戸山学校音楽隊指揮官で、目下、日本少年団音楽隊を受けもつ春日嘉藤治が快諾した。
渋沢はさらに書いている。「面白い楽隊を聞き乍ら喧嘩を続けられる人はあるまい。一度美の世界に目醒めた時、醜に対する感覚は一層明確な意識を以て人々に迫る。昔感化院と云った井の頭学校に淀んで居た重苦しい圧迫の空気は音楽の出現によって徐々に薄められ出した。この空気の変化はその影響を独り子供の上にのみ投げた丈ではなかった。事実井の頭学校の先生方が別の呼吸をし出した。音楽を伴う訓練と単純な叱責。笑ひつつ導く教育と苦虫を噛みつぶしたものの教へ振り。生徒の頭上から先生の鉄拳が遠くなって親身な訓誡に変って行った。不良性の少年を四六時中教育しつつ井の頭の森の中の官舎に之も生徒と等しくとざされて居た先生方の家庭にも、楽しい音調《メロデー》は文字通り訪れて先生方の家庭も何時の間にか明るくなって行った。一年後には井の頭学校生徒の脱走が激減した。」バンドの効果はこれにとどまらず、生徒に欠けていた社会性の発達をうながし、散漫な精神活動と飽きっぽい性質を矯正する力があった。音楽の第二次的効果が表われた。――ここには涙なくしては読めない生徒手記がおさめられている。
伊太利旅行記は敬三の美術にたいする情感が素直にあふれた力作である。「大正十一年から十四年にかけての自分が正金銀行倫敦支店勤務中、諸所へ旅行したり又何等か特殊の問題があった折節に手紙代りに故郷の祖父や父へ何かと書き送るのを例とした。本編はその一つで大正十二年第一回目に伊太利を旅した時の見聞録である。次の動物園の記も同様、手紙の中の一節を載せたものである」とあるが、これは明治三十二年から三十三年にかけて、穂積陳重が父篤二を伴っての外遊に、家信をまとめて「欧米紀行」とした方法を踏襲したものである。そして、伊太利への憧れの元は敬三が七、八歳時分、父の幻灯を見た記憶セント ピエトロ イン ヴィンコリという小さな教会にある、ミケランジェロの有名なモーゼをみた――にある。当時彼は電信掛りで、「毎日々々相も変らぬ電信の暗号を訳す仕事からまるで離れてしまふ事も嬉しい」と云っている。妻の兄木内良胤が外務省のパリ駐在で一部同行する。
渋沢のロンドン時代は彼の生涯では貴重な勉強の時期であるが、ここに見られるような美術の組織的な学習もその一つであった。ホルムス、ティース、サイモンス、ベレンソン等の書物を読んでは美術館に出かけた。「旅行前の数週間の土日の午後は、大部分ナショナル ギャラリー、ブリッチッシ ミュージァム、及びローヤル ヴィクトリア アンド アムバート ミュージアムで暮した。おそらく何事でもさうであるが、通り一ぺんの瞥見では、ほんたうのものは解らぬ。初めの中は漫然と見て居てさ程に思はなかったものでも、それ自体がいいものであれば、何度も見てる中に、にぶい我心を向うから押し開いて呉れる。写真のピントを合はすのにも似て居る。初めはボンヤリしているが、段々フォーカスが合って来ると、初めて見た時とはまるで別物であるかの様な相を呈して来ることがある。その時の嬉しさと云ったらない。審美的に特別な才能を有する人は別として、普通の人間にとって、美術を少くも正当に鑑賞する為には、かなりの苦痛と努力とを払はねばならぬと云ふ、解り切ったことを今更痛感する。そしてその苦痛と努力の払ひ方の少い為に、芸術を真実に観ることが出来る場合の少い自分をつくづく気の毒に思ふ」と純粋な美にたいする気持を書いている。
(一)十一月二十四日 (二)ローマ着 (三)ヴァティカノ (四)セントクレメンス (五)システィン チャペル (六)セントカリストのカタコム (七)ローマ雑記 (八)フィレンツェ (九)ミランからスウィスへ (一〇)パリー帰着の十節から成っている。フィレンツェの記述ではボッチシェリにふれた感激が記されている。ここに矢代幸雄のことがでてくる。「当地のべレンソンに師事された矢代幸雄氏は、今倫敦に居られるが、氏がフィレンツェで自身監督の上撮らした部分の写真が今迄にない程素敵なものださうで、目下倫敦のメヂチソサエティで出版計画中であると云ふ。自分は未だその写真に接しないがその中見たいと思ってる。蓋し線の画家とでも云うべきボッチシェリのセクションが、日本人によって新しい見地から研究され、西洋人を吃驚させたのは当然であるし、又ボッチシェリの性格そのものも日本人向であらうと思った」といっている。この矢代幸雄は、さきに述べた正金の友人仲間の研究会に招かれている。そのリーダーは後輩の敬三である。
ヴァティカノでは、わが国の奈良朝美術との比較論がある。「東京に居る時分ローマに行ったら素敵なものを見られると思って居た。世にも稀なる彫刻の逸品は殆どローマに集ってると思って居た。それは大体に於てあやまりはなかった。それから大学を出た年の五月奈良へ行った。奈良を奈良として見たのは此の時が初めてであった。三月堂の不空羂索観音や梵天や日光、月光にも感心した。三月堂の建築そのものも好きになった。唐招提寺の古びた建築を見た時の印象はいまだにこびりついて離れない。薬師寺も嬉しかった。法隆寺の金堂も夢殿も随分感激した。しかしギリシャの美術はこんなものでなくもっともっと大したものだらうと考へて居た。そして此度ローマへ来て眼のあたり名作に接して、何だか宛外れの感に打たれた。それはギリシャの美術を低く見たのではなくて、奈良美術を低く見過ぎて居たことに気付いたことであった。勿論方向は全然異ってる。一つは宗教芸術である。一つは芸術そのものである。だからその意味から云って無論比較の出来る対象ではないのだ。然しギリシャ芸術が自分を感激させた時、同時に自分の心の中にもり上って来たのは、不思議にも奈良芸術に対する尊敬と憧憬とであった。……」以下が本論であるが、ここでは長い引用は許されない。
「倫敦の動物園を見るの記」は、生物学者としての敬三が如実に出ている。「ロンドンのズーは、公衆に対して完全に近い程整って居るか、その外に更に感心なのは、種類の多いことと、動物に対する設備のいいことである。動物学も今は生物化学、遺伝学、生物哲学等へ向って居る。動物学の分類学や生態学は聊か古い。しかし一方から見れば、之が基礎であり殊にダーウィンやワーレス、ハックスレー、スペンサーを産んだ英国としては、此方面は実に到れり尽せりである。実際的な英国人の最も得意の方面に違いないが、それにしてもこの動物園とケンジントンの生物博物館とを一巡すると、ダーウィン直系の進化論は一眼で瞭然だ。ダーウィンの進化論も亦かかる設備や採集の興味に対しての一大原動力であったことは否めまい。」
そして、敬三は日本にも一つ先づ之ならという「空想的計画」を語っている。これは今日でも実現していない「実際的計画」であるから、敬三の卓見に素直に驚く。「それは多摩川沿岸の双子か、或はその少し上あたりでよい。両岸にまたがる一大公園を東京市は持たねばいかぬ。あの辺に今の内に一ついい土地を残して置かぬと、今に多摩川は目茶目茶になるにきまってる。そしてその一隅に上野の動物園を移転せしめて、もっと大規模のものとする。公園内並に動物園内には多摩川の清流を少し上流から引いて流す。少くとも淡水水族館は此の清流の水を利用すれば水槽以外のものまで楽に出来る。海水産のものも海水を、東京湾から六郷川へ舟で運べば浅草よりはいいだらう。多摩川に一つ、狭山に一つ、井の頭に一つ、鴻之台辺に一つ、我孫子辺に一つ、志木か野火止辺に一つ、と大公園を今から設定して置く。何も今すぐ全部手を入れんでもよい。段々やる。そして多摩川に一大動物園を、鴻之台か松戸辺に一大植物園を作りたい」「ズーは美術館ほど人を高尚にはしない。しかし毎日工場の煙と、生活難と、市内の雑踏とにつかれ切った市民の神経を先づ安めるには、之に越したものはない。美術館や音楽堂はその次に来るべきものだ。思へばロンドン市民は幸福だ。顧みると東京の市民は同じ時代に生き永らへる人々と思はれぬ程、こんな点では不幸だと思った。」今日の首都圏の公害と過密を見こした先見の提言は誰の目にも明らかであろう。大正十二年五月二十五日の記である。
「南島見聞録」は本書の四五二ページ中、一二八ページを占める長編で、年譜に、大正十五年五月、石黒忠篤(当時農務局長)、井野碩哉(課長)等台湾米穀大会へ出張に随伴。後石黒と沖縄先島及び本島を巡り鹿児島に帰着とある紀行である。旅譜によって行程を記すと、四月十八日神戸を扶桑丸で発ち、台湾基隆着。汽車で台北へ泊。後藤文夫民政長官々邸、伊沢多喜男総督官邸。大稲埕、市場、茶商、家鴨卵人工艀化場、農家大中小三軒、板橋林本源邸等とあり、これらは経済調査の内容を簡略に示している。ついで嘉義へ、軽便にて竹橋、独立山、梨園寮(竹紙)、噴起湖、十字路と進み、ここで生蕃の頭目一群に面接とあり、沼の平泊。生蕃の踊りを見る。そこから嘉義へ返り泊。番子田をへて鳥山頭ダム(嘉南大圳)を見る。そこから番子田をへ台南へ泊。大成殿、媽祖宮、農民の豊年踊などを見学。さらに安平へ養魚池、鄭成功のゼーランヂャ城を見る。台南から高雄へ泊。港湾施設をみ、汽車にて九曲堂(パインアップル工場)から高雄へ返り泊。北へ台中(製糖工場)さらに台北、泊。樟脳阿片専売局、中央研究所、植物園、博物館などを見る。草山の官邸泊。北投(ホクトライト産地)から台北に帰り泊。汽車で基隆(港湾、珊瑚工場等)を見る。台湾は五月二日まで。
一行と分れ石黒忠篤と五月二日基隆を久吉丸千トンに乗船、西表島祖納湾へ着。ここで生ける地獄、琉球炭坑を視察、坑内へ入る。ついで石垣島四箇着、丸屋泊。ここで測候所長で民俗学者岩崎卓爾に会う。名蔵湾では糸満のタターチャ漁を視察。実はこの糸満漁民は渋沢が民俗学に入るキッカケとなった重要事項である。渋沢の談話によると、柳田国男との交渉は大正二年ごろからで早い。高師附属中四年(三年で落第)の時で、「柳田さんは学問として会ったのじゃない。あの親類に矢田部というのがある。私の親友に矢田部勁吉という音楽家がいます。これが柳田さんの奥さんの甥なんです。そんな関係で柳田さんの所へ行っておった。だから僕は柳田先生と云った記憶がない。師弟の関係じゃない。親友の関係で入っちゃった。そのうちに民俗学のことがちょっと面白いと思い出して、そんなものを携えて行ったのが大正四年、石黒さんと上ったことがある。その時分に柳田さんが中心で甲寅叢書が出たが大変面白く思ったりして、そういう意味で学問の点で最初に接触した。その時に糸満の船が金華山まで来ておることをちょっと話されたのに、非常に興味を持った。それからだんだんそっちの方に注意が行くようになった」とあるのがそれである。沖縄に入ると民俗学的記述が多くなるが、もちろんそればかりではない。旅譜にみられるごとく、地域にある大切なものはすべて見るという態度である。
旅譜にかえって、宮古島平良(独逸帝大理石碑、井戸)それから本島那覇着。泊。田村浩県殖産課長、仲吉朝助に会う。首里は旧政庁、円覚寺、尚順男爵、石敢当、赤木の森などを見る。さらに糸満喜屋武から麻武仁(黒糖製造など)をへて那覇にかえり泊。ズリ見物。船で鹿児島着。磯御殿に行き、県知事に会う。そうして帰京。あわせて二十五日間の収獲の多い旅であった。なお、昭和二十九年に沖縄戦災校舎復興期成後援会会長となったのは、会長は沖縄を体験しているひとが条件で、この「南島見聞録」の記述がとりもった縁であった。年譜によると、民俗学者金城朝永、比嘉春潮らの懇請とあり、屋良朝苗会長必死の努力にて内地小学校児童を主とし九百二十五万人にて六千五百万円寄附達成。この基金にて教材購入。校舎は米軍にて新築とある。――本稿は紹介すべき記事が多くあるが割愛する。 (河岡武春)