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国文学研究資料館 企画展示
「渋沢敬三からのメッセージ 渋沢栄一「青淵翁記念室」の復元×渋沢敬三の夢みた世界」 展示詳細 3

掲載:2013年12月06日

【この企画展示は終了いたしました。】


展示概要 | 開催要項 | ごあいさつ | リンク || 展示詳細

展示詳細 目次

1. イントロダクション : 渋沢敬三からのメッセージ
2. 渋沢栄一「青淵翁記念室」の復元
3. 渋沢敬三の夢みた世界
 3-1. “昭和の正倉院” に託して - 文部省史料館と日本実業史博物館
 3-2. 祭魚洞の漁民資料への思い - 江戸城への鯛上納と武蔵野の人々
 3-3. 拾われたアーカイブズ - 公文書拾遺
 3-4. アチックミューゼアムから国立民族学博物館へ
4. 夢のスカンセンミュージアム回遊

3. 渋沢敬三の夢みた世界

渋沢敬三は、「資料を学界に紹介・提供すること、そのための努力をする研究者の仕事を援助する・実現する」ことを標榜し、「理論づける前にすべてのものの実態を掴むことが大切」として、日本実業史博物館(当館資料)、保谷(現:西東京市)に民族学協会附属博物館を開設し、「アチックミューゼアム」(国立民族学博物館資料)のコレクションにあたった。静岡県内浦で大川家文書(当館資料)を発見・整理し、のち『豆州内浦漁民史料』を刊行し、文部省史料館や水産資料館の設置を推進するなど、アーカイブズの保存にも尽力している。
 1947(昭和22)年、戦後、希少な史料の散逸・破壊に拍車がかかる状況を憂慮し、史料の収集と保存公開機関設置の準備も始められた。その文部省による「史料館」の性格は、ある資料には、散逸の激しい近世以降の史料収集に重点をおくものの、将来は「古代より現代にいたるあらゆる史料」「考古学的遺物や民俗学的資料」、さらには「各官庁の文書類その他で学術的価値あるもの」などを対象とする、という構想が記されている。この時期に「各官庁の文書類」の保存に注意が払われている点は注目に値する。この史料館設立に尽力した敬三の夢の一端が垣間見える。

「渋沢敬三の夢みた世界」展示風景


3-1. “昭和の正倉院” に託して - 文部省史料館と日本実業史博物館

史料保存に対する全国的な関心の高まりをうけ、国立の史料保存機関の設置を求める声は研究者の間でも一段と高くなり、1949(昭和24)年3月、96名の学者の賛同を得て「史料館設置に関する請願」が第五通常国会の衆参両院に提出された。この請願書は社会経済史学会(野村兼太郎会長)が起草したもので、署名者には渋沢敬三はじめ小野武夫・辻善之助・野村兼太郎・上原専禄・大塚久雄・柳田国男・岩生成一各氏など、当時の主だった学者が並んだ。
 請願は「日本の歴史資料は今正に空前の危機に臨んでいます」という言葉ではじまり、「文化国家の再建」のための「重要な礎石」として古文書記録等の民間史料を保存すべきこと、そのため「国立の史料保管機関(史料館)」を設けることを切々と訴えている。
 その年の5月31日、「文部省設置法」が成立。第九条「大学学術局の事務」の中に「史料の蒐集、保存、及び利用に関する事務を処理すること」(第十六号)の一項が入れられた。これによって、史料保存の事業は、正式にスタートすることになった。

「“昭和の正倉院” に託して」展示風景


史料館と敬三

1949(昭和24)年11月19日の施設披露の際の文部大臣挨拶において、「欧米の先進諸国におきましては、いずれも相当の規模を有する古文書館を経営し、そこに貴重な史料が安全に保管され、利用されているのに反しまして、わが国では私的の小規模な施設を除きまして、いままで(こ)のような施設がなかったということは、なんと申しても遣憾に堪えない」と述べ、「欧米諸国の古文書館に劣らない大規模な国立の史料館を建設してゆきたいと念願しております」と決意を語っている。
 敗戦後の実博資料は戦禍を免れたが、竜門社資産の凍結・保管場所であった旧阪谷邸の占領軍による接収という事態に至った。渋沢青淵記念財団竜門社は、1951(昭和26)年に正式に発足した文部省史料館に収集資料の寄託を決定した。
 文部省史料館の設立に奔走した敬三は、設立後の1952(昭和27)年から1963(昭和38)年の12年間、文部省史料館評議員を勤めた。敬三が没する前年の1962(昭和37)年9月、改めて寄贈の手続きがとられ、実博資料は、史料館の所蔵に帰した。
 まさにその当時の史料館収蔵庫は、アーカイブズ・ミュージアム・ライブラリー資料で埋め尽くされた"昭和の正倉院"であった。

史料館と敬三


日本実業史博物館準備室アーカイブズ

「実博」事業は1937(昭和12)年から始動するが、準備室が設置されたのは1939(昭和14)年末のことである。設置当初の構成員は、敬三の旧友小林輝次と元帝室博物館の遠藤武の2名である。終戦を迎えた1945(昭和20)年11月まで、基本的に両名が業務を行った。
 準備室は設置当初、東京丸ノ内の第一銀行内に置かれていたが、1943(昭和18)年3月に小石川原町の旧阪谷邸(阪谷芳郎:元東京市長)に移転した。準備室の業務も移転を境に内容が変っている。移転前の主な業務は、準備室設置以前に購入されたものも含めたコレクションの整理と、「実博」事業の資金を管理している竜門社との間での会計処理であった。コレクション購入自体は敬三の判断で行われており、準備室は敬三が購入を決定したコレクションの整理等を行った。旧阪谷邸への移転以降には、コレクション購入業務とともに、博物館の開館準備業務が比重を占める。
 「準備室アーカイブズ」には、購入コレクションすべての整理・会計処理に関する文書、旧阪谷邸の維持管理に関する文書が多く含まれる点が、大きな特徴となっている。博物館資料整理学の戦前史としても興味深い資料である。

日本実業史博物館準備室アーカイブズ


3-2. 祭魚洞の漁民資料への思い - 江戸城への鯛上納と武蔵野の人々

渋沢敬三は、自らを「祭魚洞(さいぎょどう)」と号した。この雅号は、獺が捕らえた魚を川岸へ並べる習性を示す「獺祭魚」に因んだもので、食べもしない獲物を追い散らすその姿を、自身になぞらえたといわれる。
 敬三は、大の釣り道楽であった。29歳のときに横浜の本牧で釣りの醍醐味を味わって以来、たびたび伊豆の静浦や内浦を訪れては、釣り三昧の日々を過ごした。1932(昭和7)年2月、祖父栄一死後の心身の静養のため内浦三津浜に滞在した敬三は、隣村長浜村の津元大川四郎左衛門と出会った。大川家の蔵や長屋門の中から大量の古文書を発見した敬三は、漁民生活の記録を後世へと伝え、学術研究に役立てる必要性を痛感し、各地の漁村の史料(祭魚洞文庫の水産史料)を収集するとともに、9年の歳月をかけて『豆州内浦漁民史料』全4冊を刊行した。
 「原文書を整理して他日学者の用に供し得る形にすることが自分の目的」と記しているように、このときの敬三の視線は、アーカイブズを残し、活用するための土台を築くことに注がれていた。
 なお、同書を編纂した功績により、敬三は1941(昭和16)年、日本農学会から「農学賞」を贈られた。

祭魚洞の漁民資料への思い


3-3. 拾われたアーカイブズ - 公文書拾遺

「祭魚洞文庫旧蔵水産史料」には、廃棄された公文書が多く存在する。
 その収集について宮本常一は、「(敬三は)多くの人々が見落としているもの、見落としている社会に注目した。水産史や塩業史の調査に力をそそぎ、資料蒐集に全力をあげたのもそのためであり」「主として官庁などで廃棄される紙屑の中から拾いあげた資料がきわめて多かった。とくに水産関係の資料は、紙屑の中から見出したのが半ばをしめたといってもよかった。官庁で忘却の彼方へ押しやろうとしているものの中に、民衆の側から見れば忘れてはならないものが多数含まれており、しかもその中に将来を予見する価値のあるものが少なくなかった。」
 ここでは、拾い集められた全容を見ていただくため、簿冊をまとめて展示した。農商務省「(製塩井〆粕図解)」には、東日本大震災で甚大な被害をうけた三陸沿岸の製塩に関する記述があり、失われた過去を知る希少な資料となった。公文書が地域の人々の記録であることを如実に語っている。
〔参考文献: 加藤幸治『武蔵保谷村だより』第10号(2013年)、宮本常一『著作集50渋沢敬三』(未来社、2008年)〕

拾われたアーカイブズ


廃棄された台湾水産資料

台湾に二度、思い出深い場所として敬三は訪れている。国内の水産資料調査ばかりでなく、アジアへも熱いまなざしを注いでいた。
 台湾における食塩専売制を築いていくため、その実態調査を台湾総督府が全島の塩田の調査を実施した内容の復命書が残されている。民政部殖産課高田平蔵技手の「嘉義・台南・鳳山三県塩田調査復命書」と題した文書がある。1898(明治31)年1月6日に塩田調査の命令を受け、三県の塩田を調査して4月10日に帰府し、調査事項を纏めて6月5日に後藤新平民政局長へ提出した。
 この復命書は食塩専売制度導入の政策決定過程の一端を記した史料であり、行政行為の立揚からも重要な文書と考えることができるが、台湾総督府公文類纂永久保存文書のなかには残していなかった。
 保存公文書だけでは明らかにできない過去の事実がある。この資料が残されていたことにより、一つの歴史を証左することができた事例といえよう。
〔参考文献: 檜山幸夫『台湾総督府文書の史料学的研究-日本近代公文書学研究序説-』(ゆまに書房、2003年)〕

廃棄された台湾水産資料


3-4. アチックミューゼアムから国立民族学博物館へ

アチックミューゼアムは、渋沢敬三が主宰した博物館兼研究所である。大正初年頃、渋沢が友人らと東京・三田にあった自邸の一隅の屋根裏部屋に玩具などを収集したことに端を発する。昭和初年には、邸内の独立した建物に民具を収集し、若い同人を集め、民具や民俗学・民族学の研究を行い、1935(昭和10)年前後から日本水産史の史料収集と研究も行うようになった。
 1935(昭和10)年、敬三は白鳥庫吉らと日本民族学会を設立し、国立民族博物館構想を政府に陳情するも戦局の悪化からこれが叶わず、1937(昭和12)年、高橋文太郎とともに建設した日本民族学会附属研究所・附属民族学博物館に、アチックミューゼアムに収蔵されていた二万点を超える民具標本類を移転させて日本民族学会にそれらを寄贈した。しかし、運営・維持することは難しく、また、自らの死期を悟った敬三は、1962(昭和37)年、その資料を文部省史料館へと寄贈し、将来に国立民族学博物館が設立された時には、これらの資料を移管することを言いおいた。
 1962(昭和37)年から1975(昭和50)年の13年間、大阪の国立民族学博物館が設立されるまで、品川区戸越の文部省史料館の北館に収蔵された。

アチックミューゼアムから国立民族学博物館へ

1975(昭和50)年1月4日、深夜の東名高速道路を一路西にむかう一群のトラックがあった。名神高速道路を経て万博公園の外周道路に入ったトラックは、公園の一角にあった倉庫で積み荷をおろした。
 文部省史料館に保管されていたアチックミューゼアム資料が、当館から大阪の国立民族学博物館におくられてきたのである。以後16日までに4回にわけて運はれた資料は、トラック延べ20台分にのぼった。
 半世紀以上の紆余曲折を経て、ようやく民博に安住のすみかを得たこれらの資料は、1977(昭和52)年に公開された民博東アジア展示の「日本の文化」の過半数を占めたという。実博資料もアチック資料も、そのコレクション保存・公開施設の設立に向けた模索が続けられたが、最終的には渋沢敬三自身が設立に尽力した文部省史料館と国立民族学博物館の収蔵と帰し、人間文化研究機構にまとまることになったのである。
 ここでは、本来なら民博に移管されるべきところであるが、当館にある資料を紹介しておきたい。豪華な染付の大漁着物(「万祝着」)がある。漁師たちの晴着で、大漁祝などに着るもので保存状態もよく貴重である。タグにアチック資料であることが記されている。

大漁着物

- 大漁着物(アチックミューゼアムのタグ付き)



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