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国文学研究資料館 企画展示
「渋沢敬三からのメッセージ 渋沢栄一「青淵翁記念室」の復元×渋沢敬三の夢みた世界」 展示詳細 2

掲載:2013年12月06日

【この企画展示は終了いたしました。】


展示概要 | 開催要項 | ごあいさつ | リンク || 展示詳細

展示詳細 目次

1. イントロダクション : 渋沢敬三からのメッセージ
2. 渋沢栄一「青淵翁記念室」の復元
 2-1. “御所用品目録・御収蔵品目録” のすべて
 2-2. 「青淵」とは - 遺愛の品々 -
 2-3. 「竜門社」とは - 語り記録された栄一の思想 -
3. 渋沢敬三の夢みた世界
4. 夢のスカンセンミュージアム回遊

2. 渋沢栄一「青淵翁記念室」の復元

「青淵翁記念室」とは

渋沢栄一の死去後、現在の北区飛鳥山公園内にあった邸宅の敷地と建物が財団法人竜門社に寄贈され、「渋沢青淵翁記念実業博物館」(青淵は栄一の雅号)の建設を決議する。
 そこで渋沢敬三は、「折角お爺さんの為に財界の人達が御考え下さっていることは大変有難いことであるが、それならばそれを敷衍した経済史的な博物館を、渋沢家も御手伝してつくりたい」として、「渋沢青淵翁記念室」「近世経済史展観室」「肖像室」からなる「青淵翁記念日本実業博物館」(近世経済史博物館、のち実博)構想を提唱し、栄一の遺品を中心とした「渋沢青淵翁記念室」のための資料収集にあたった。祖父栄一の傍らにある時、その後ろ姿は、「しっかりとした偉人というよりは、むしろ侘びしい一個の郷土血洗島の農夫の姿」であったといい、その「農夫」の姿を、孫である自身に投影したのかも知れない。
 この展示では、
「一見つまらぬ様な事でも、ありのまゝに出来得る限り集めて置かねばならぬ」
として遺されたコレクションを通じて、敬三が描こうとした栄一の実像に少しでも迫っていただければと願う。

「渋沢栄一「青淵翁記念室」の復元」展示風景


2-1. “御所用品目録・御収蔵品目録” のすべて

日本実業史博物館で第一に衆目すべきは青淵翁記念室であり、渋沢栄一その人のすべてを表現する。1937(昭和12)年の展示室構想では次のようにまとめられている。
 「青淵翁の一代を遺品、写真、絵画、図表等を成可く効果的に応用して如実に一目是れを知る一つの記念室であります。従而此の室に関する限り青淵翁一生の序次にならひ、経済以外の事項即ち教育、国際親善、労働問題、社会事業等凡てを網羅することゝなるのであります。
 本室ニ於テハ青淵翁遺品写真其他ヲ用ヒ、模型絵図ヂオラマ図表等ヲ併用シ青淵翁ノ伝記ヲ可及的如実ニ且ツ簡易ニ展観シ一目ソノ一代ノ変化性多角性一貫性ヲ明瞭ナラシムルコト」との展示方針が示された。
 混迷の今、経営学「マネジメントの父」、P.F.ドラッカーは、日本資本主義の父といわれる渋沢栄一を、『論語』をより所にして「道徳と経済」の一致を唱えた『倫理家』と称した。その「渋沢栄一の生涯とその事績」は、現在、渋沢史料館での展示を通して詳しく知ることができる。
 ここでは、寄贈時の目録である『御所用品目録・御収蔵品目録』記載の品々をその順を示して展示し、ありのままの遺品とお手回りの数々をご覧いただいた。

青淵翁 御所用品目録 御収蔵品目録(中央見開き)ほか

- 青淵翁 御所用品目録 御収蔵品目録(中央見開き)ほか


渋沢栄一日記

現存する栄一の日記は31冊あり、そのすべてが『渋沢栄一伝記資料』別巻第1、第2として刊行されている。そのうち、渋沢栄一記念財団所蔵の日記(明治2年10月21日~11月19日)を除く30冊は、当館が所蔵している。

渋沢栄一日記


2-2. 「青淵」とは - 遺愛の品々 -

青淵とは、栄一の雅号である。後に栄一自身、その名の由来について、「青淵と云ふ私の号は、私が十八歳頃、藍香先生から附けて貰った。当時私の家の下に淵があって、その関係から私の家を淵上小屋と名附けていた。それから青淵と云ふ号が出来たのである」と語った。藍香先生とは、日本の実業家で富岡製糸場の初代場長も勤めた、栄一が学問の師として仰いだ義兄尾高惇忠であった。
 その青淵翁こと栄一の伝記資料編纂事業の発足にあたり、敬三は
「もし私に無遠慮に小さな望を云わさして下さるならば、それは啻出来上った、成功した多くの仕事の資料以外に、どんなに、不成功に終ったりまた無駄な努力がし続けられていたかということを、たといその例証が一つ一つ挙げられなくとも、そうしたものが極めて沢山あったであろうということを考に置いて、それらの事業を深く検討戴きたい」と言い置いている。
 モノづくりの「真の成功は失敗を率直にかつ科学的に究明した上で築かるべき」という視点も持ち合わせた人物であったからこその言葉である。

遺愛の品々


2-3. 「竜門社」とは - 語り記録された栄一の思想 -

竜門社とは、栄一を慕う者が集まり、各々が社会の中で実践を重ねながら、その意見交換を行い、互いに研鑽していく場として1886(明治19)年に発足した団体である。
 1907(明治40)年には、その社員数が789名となり、栄一の助言から1909(明治42)年には、組織変更を行い、栄一の唱導する経済道徳思想に基づき、商工業者の知識を開発するだけでなく、その道徳を進め、人格を高尚に資することを目指す組織となり、1924(大正13)年には財団法人化した。
 栄一の没後、記念事業を考えていた敬三は、1937(昭和12)年、青淵翁記念日本実業博物館を計画し、その計画案は竜門社によって正式に決定され、竜門社を通じても関係資料が積極的に収集された。2003(平成15)年には、渋沢栄一記念財団と名称変更し、さらに2010(平成22)年に公益財団法人となった。
 現在、1982(昭和57)年に開館した渋沢史料館、研究部、実業史研究情報センターの三部門で、栄一の精神や事績を広く伝える活動を続けている。

『渋沢栄一伝記資料』

『渋沢栄一伝記資料』は、渋沢栄一伝記資料刊行会により出版された資料集であり、全58巻、別巻全10巻にも及ぶ、栄一の伝記である。栄一の伝記は多くの人によって書かれているが、事績・人格・思想を観察し、叙述し、論評する伝記が数多く書かれても、それらが必ずしも正確さや詳細さにおいて十分でない、との認識から、伝記を書くための資料を収集し、編纂したものである。
 1932(昭和7)年から始まった編纂作業は、1936(昭和11)年に編纂主任に土屋喬雄を迎えることで本格的に動き出し、第1巻は1944(昭和19)年に岩波書店(竜門社編)から刊行されたが、時局の混乱から作業は一時中断を余儀なくされ、資料は第一銀行の金庫に保管され、終戦を迎えた。
 1954(昭和29)年2月、再度『渋沢栄一伝記資料』を編纂するため渋沢栄一伝記資料刊行会が組織され、1965(昭和40)年に全58巻の刊行を終了、続いて別巻10巻が渋沢青淵記念財団竜門社より刊行され、約40年の歳月を要し、1971(昭和46)年に全ての刊行が完了した。

『渋沢栄一伝記資料』(奥)ほか

- 『渋沢栄一伝記資料』(奥)ほか



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