渋沢敬三の伝記

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父・渋沢敬三 〔3〕 / 渋沢雅英

渋沢雅英著『父・渋沢敬三』(実業之日本社, 1966.10) p.47-67掲載
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第三章 使命

 三田の家の車庫の二階に、小さい屋根裏があった。古ぼけた階段を上って行くとたくさんの陳列棚が並んでいて、民具収集室になっていた。西日を受けた屋根裏は暖かく、ぷんと埃の臭いが鼻をつく。おもちゃ、こま、凧の類からミノ、カンジキ、漁網など、農具、漁具などが雑然と並べてあった。荒削りのひなびたおもちゃには原色の彩色があざやかだった。子供心に興味と好奇心を引かれてよくのぼって行っては見学したものだが、何となく場違いで、自分とは違う人たちのものだという感じがして、あまり親しめずそのまま空しく帰ってきたことを覚えている。

 この車庫が建てられたのは昭和二年のことだった。その年私の弟の紀美《ノリヨシ》が生れた。この子は短命で、翌々年の四月九日に、流感をこじらせてほんの一歳と二ケ月ばかりでなくなった。

 日ごろ感情をあらわすことのない父が、お経をききながら急に涙がこみあげて鳴咽の声をもらすのをきいて、隣に坐っていた母は放心したような悲しみの中で急に父をなつかしく思ったといった。当時既に余りこまやかな心の交流のなかったらしい夫婦の間に、子を失った親としての共感がふと芽生えたものでもあったろう。桜の美しいころで、母はずっと後になってからも、桜の花を見るとこの子を思い出すと言っていた。

 この子が亡くなった直後、父は三田の家の改造に着手した。日本間の大半を壊して、西洋ふうの書斎、客間、食堂などをつくった。私は幼稚園に通っていたが、工事中の母屋を避けて、屋敷内にあった小さな家で一年近くもすごした。ある日、幼稚園に行く前、いつものように二階の父の寝室に上って行くと、父はもう起きていて、「妹が生れたよ。」と言った。「お兄さんになったんだからおとなしくしなくちゃね。」と言われたのを今でも覚えている。それが長女紀子で、昭和五年一月三十日のことであった。

 その年の四月、改造もあらかたできたころ、父は三河から花祭りの一行を招いた。父の肝煎りで、早川孝太郎氏が長年の間、刻苦して書かれた千七百ページの大著「花祭」がようやく出版されたのを記念するためであった。三河本郷三ッ瀬というところの人たちで、新築落成祝いの意味もこめて、庭に張られた大きい天幕の中で、「一力花」という舞を舞った。

 そのときの記録によると、沢山の人が見にきたが、その中には柳田国男、泉鏡花、前田青邨、小林古径、幸田成友、宮尾しげお、金田一京助、松平斉光、新村出、市河三喜氏などといういわゆる文化人の名前も多数みえている。泉鏡花氏のその後の小説の中に花祭が出て来るのがあったそうである。

 舞はすべて本場の花祭の抜粋で、三ッ舞、四ッ舞、劒の舞のほか湯噺子〔湯囃子〕などがあったという。赤や黒の大きい鬼の面をかぶった男が踊りを踊るのが、子供心に怖くて目をあけたりつぶったりしながら見ていたのを記憶している。小さい子供たちも十人ばかりきていて、小さい鬼の面をかぶって踊った。農村の子供たちのこととて、私とは何となく性格や物こしも違っていて空恐しかった。それでも怖いもの見たさに彼らが泊っている部屋に出かけて行って、おそるおそる友だちになったりした。

 三田の家の改造を機会に、アチック・ミュージアムも新しく建てられ、陳列品も車庫の二階からそちらに移された。今度はおもちゃよりも民具の方に重点がおかれ、陳列棚もしっかりしてきて、整理も行きとどき、一つ一つ明細を書いた白い紙がつけられた。車庫にあったころのような屑物的な感じはなくなってきたことを、子供心にも覚えている。日本間には田舎ふうに自在鉤などもついた囲炉裏があり、人が集まれるようになっていた。二階には、写真の現像のための暗室があり、よく遊びに行ったものである。

 昭和四年ごろから、父は「祭魚洞」という号を使うようになった。カワウソという獣が魚を捕えて、その一部だけを食べて後を河原にうめておくが、いつの間にか忘れてしまうという話から、自分が本をやたらに買込んで、読みもしないで積んでおくことを、もじってつけたものだということである。『柏葉拾遺』には、「書物を購いて読まざるを、獺いたずらに魚を捕えて岸に棄て置く様を諷笑せる支那古句『月夜獺祭魚』に拠る。尚釣を好み、いたずらに殺生するにも懸く。正岡子規前二字にて書斎を獺祭書屋と名づけしを後に知る。」とある。

 当時は第一銀行取締役として働くかたわら、しばしば旅行に出かけている。毎年正月には三河の花祭を見学に行く。昭和三年、四年、五年とつづけ、中二年おいてさらに八年、九年、十年とつづけて行っている。新任の役員として各地の第一銀行の支店視察旅行にも出かけているが、そのほか暇を見てはだんだん増えて行くアチック・ミュージアム同人との旅行が重なる。羽後の飛島や津軽の竜飛崎、十三などに行ったのはそのころである。『祭魚洞雑録』に「津軽の旅」という美しい文章がのっている。まだ若さにあふれた叙景、叙情の中に、後の父の学問を形づくって行く考え方、感じ方がにじみ出ていて面白い。

 そのころは釣にもだいぶ凝ったようである。大正十四年欧州から帰ってから、約十五年の間はかなり身を入れて海釣りをしたと父自身も言っている。昭和四年から八年にかけ本牧、三津などを中心として、何回も出かけている。後に『日本釣漁技術史小考』という本を書いたが、その巻末には、自分の釣場や獲った魚を列挙してある。父らしい詳細な記録である。

「自分の釣場の主たるものは、横浜本牧と駿河湾の三津浜から重須、久連、立保、江梨あたりと、江浦、重寺付近であったが、その外釣った経験のある所を列挙すると、北海道十勝ウリマク原野の河川、日光湯ノ湖、尾瀬沼、羽後飛島、舞鶴湾、宮津湾、関門海峡、田の浦沖、肥前唐津、対馬佐護湾、豆酸、天草富岡、薩摩坊ノ津、鹿児島湾、奄美十島沖、琉球嘉手納沖、四国宇和島九島沖、宇品港、家島周辺、高松沖、浜名湖、篠島、日間賀島周辺、清水港、狩野川長岡在、箱根芦ノ湖、沼津千本浜沖、静浦沖、牛臥沖、下田神子元島、伊東沖、川奈沖、伊豆大島周辺、熱海、江ノ島、逗子、葉山、三浦半島下浦、久里浜沖、鴨居、横浜港外、大森森ケ崎、品川沖、行徳、浦安沖、保田沖、船形沖、鏡浦、陸中大槌湾など、外国では、樺太真岡、朝鮮釜山牧ノ島沖、デンマーク・ユトランド半島、ヒルシュハール沖、スカーゲルラック海峡、ブラジル・カンピーナスなどである。

 魚種の主なものをあげると、ヤマメ、ヒメマス、ハヤ、ウグイ、ウナギ、コイ、フナ、ボラ、ブラックバス、ボヤ、タイ、スズキ、フッコ、セイゴ、ブリ、ワラサ、イナダ、カンパチ、シイラ、アマダイ、クロダイ、イトヨリダイ、サクラダイ、イシモチ、ヒラメ、カレイ、ヤガラ、グソクダイ、マトウダイ、ダツ、ハモ、ウツボ、ミシマオコゼ、カワハギ、アヤメカサゴ、カサゴ、イサキ、アジ、サバ、ハゼ、キス、アオギス、ヒイラギ、コチ、メゴチ、メバル、イナ、タラ、ホシザメ、セガツオ、ケサカケダイ、エソ、ウミヘビ、マハタ、コモンハタ、ルリハタ、ウズワ、シブワ、ヨコワ、イトヒキアジ、メジ、アオリイカ、スルメイカ、タコ、イイダコ、ムギイカなどである。

 そのうち、ブリは坊ノ津の飼付場で一貫余のを釣ったことがある。

 タイは一番大きいのは本牧で一貫四十匁を釣った。ついで川奈沖の六百六十匁、神島で五百匁三枚、三津で五、六百匁七枚、神子元島で六百匁五枚、釜山島で百匁内外三十枚、ホシザメは本牧で一貫四百匁が記録である。ヒラメも一貫余を何枚も釣った。

 スズキで一番大きいのは三津で九百七十匁を釣った。あと六百匁前後は数知れず釣っている。――アオリイカの最大は三津での六百五十匁であった。大正七年北海道十勝では約一ヵ月間、毎日ヤマメを七十尾くらいずつ釣った。」

 道楽としても相当のものである。

 昭和五年五月本牧にアオギスの脚立づりにでかけたが、同行の西条峯三郎さんが一貫余のスズキを釣り上げて大へん喜ばれ、巻物に書かせたうえ父に賛をしてほしいとたのまれた。父は山上憶良の歌をもじった次のような戯作を贈ったという。

   水の上のあぐら
 セイゴ釣れば スズキ思ほゆ
 タイ釣にましてしぬばゆ
 いみじくも たもにすくへば
 大太郎ぞ 稀にこそ見れ
 ただむきの高鳴りやまず
 本牧の空うち眺め
 安寝しなさぬ

   返歌
 朝まだき海の静けさ
 釣る人の稀にもの言う
 声きこえつつ

 祖父の篤二は戯作、狂歌の類がひじょうに得意であったが、父には、こういうものはどちらかというとめずらしい。ついでにもう一つあげると、昭和十年三月、三津で次のような漢詩をつくっている。

   豆州内浦釣魚
 仰視富岳海面鏡 独座漁舟浴春光
 不知遊魚笑釣人 全身緡托無心境

 上手、下手は私には全くわからないが、父らしい器用さを表わしていると思う。

 私は親に似ない不器用者で、釣などはぜんぜんできないが、それでもときどき海岸に行くと父を思い出すために、船を出してみたりすることもある。今年の二月中旬米国に行ったとき、友人がさそってくれたのでメキシコに釣に出かけた。ロスアンゼルスから小型の自家用機で三時間ほど南下したところで、カリフォルニア湾に面したサンカルロスという浜辺であった。

 船つき場の桟橋の下、緑色にすき透った水の中には、一尺五寸から二尺もあるサバやタイのような名も知れぬ魚が、誰れもとるものもなくゆう然と泳いでいた。沖合に出るとそこここにイルカが群をなして、跳ねているのが見えた。無人島の岩場には鵜の鳥が群がり、波打際ではアザラシが丸い頭をいくつも並べて、べつに逃げようともせず、物珍らしそうに私たちの船を眺めていた。日本などではとうてい考えられない、自然と生物の豊かさであった。ほとんど素人ばかりだったが、ほんの二、三時間の間に小さいので二貫目、大きいのは三貫目を越える大きなブリを六尾も釣り上げた。

 抜けるように天気のいい日で、青い空に沿岸の山脈が美しく、こんな日にはよく鯨も見かけるという。鯨はしかし危険な動物で、あの大きい尾で近くの水面をたたかれると、たいていの釣船はひっくり返ってしまうと船頭がいった。それを聞いていて私は、むかし、父に聞いた駿河湾の鯨のことを思い出した。

 明治の終りから大正にかけて、父は静浦で二回鯨を見たそうである。一度はかなり大きい鯨で、「午前十一時ごろ、突然瓜島沖二丁ほどのところに、巨軀を現わし潮を吹いて遊泳していた。」という。私がそれを父から聞いたのは、小学生のころ三津浜で父と一緒に釣をしたときであった。好奇心にかられていろいろ質問する私に、三津の漁師は「そういう鯨はあぶない。」と、メキシコの船頭と全く同じことを言った。私は今にも鯨が現われるのではないかと、空恐ろしく思ったのを覚えている。

 ほとんど未開に近いメキシコほどでなくとも、当時の駿河湾は現在と比べたらずっと生物が豊かであった。父自身の記憶でも、数尾のカジキマグロが夕方、浜の近くで海面を高く飛び上ったのを見たというし、海亀が卵を産むために海岸にのぼってきたこともあるという。

「当時淡島の自然界も今から見るとずっと賑やかであった。小舟でゆらゆら岸に近付くと蟬が降るように鳴き、鷹が小鳥を追うのも見た。狢が夕方海岸に出る話も聞いた。カサゴでも釣ると、よくあのへんでジャウナギというウツボがかかった。少し沖でこのウツボのウケを引き上げる船をちょいちょい見かけた。手繰網がそこここで悠長に網を曳いていた。イトヒキアジやアマダイやキスなどが網を揚げる度に光って見えた。」

 これは昭和十二年六月、父の編著にかかる『豆州内浦漁民史料』の序文の一節である。

 父らしい克明な動物の描写がさらにつづく。清澄な海水の底にムラサキウニやウミウシが見えたり、ボンケイやウミキンギョ、スズメダイなどが泳いでいたりする様をくわしく描写している。ところが時が経つにつれて、こういった魚も数が少なくなり、錦蔦が這って美しかった淡島の扇岩も人手に壊されてしまったという。

「思いなしか淡島の松の色も昔ほどの冴えがなく、海水こそ満々としているがおよそ、その内容は貧弱になってしまった。たしかに昔の方が海が生々していたと思う。」(同)


 昭和六年十一月十一日、渋沢栄一は九十二歳で亡くなった。革命的な経歴の人にしては珍らしく、晩年は静かで実り多い日日であった。八十八の年には、全国の主要実業家の主催で盛大な祝賀会が催されている。場所は帝国劇場、田中義一総理の祝詞などもあり、式の後はバレェや歌舞伎の特別上演なども行なわれた。来賓には貴衆両院議長、大公使、閣僚、枢密院議長および顧問官、東郷元帥、高橋是清、犬養毅、浜口雄幸、尾崎行雄など当時の最高の指導者が顔をそろえていて、「民間人」としての栄一の人格と、その仕事に対する日本の国の評価の高さを物語っていた。

 昭和四年十二月には、単独ご陪食ということで天皇に招かれた。父が付添って皇居に出かけて行くときの写真が残っている。席上栄一は長い身の上話をして、フランスのナポレオン三世を始めヨーロッパの各国の君主の盛衰の話をし、帝王の位、国の運命が必ずしも不動のものでないこと、したがって日本の国も自重しなければならないことを、申し上げたということである。

 栄一はもちろんご陪食の光栄に感激したことと思う。しかし、自分だけでそれを喜んでいるには、彼はあまりにも国を愛し、世を憂いていた。この得がたい機会をとらえて、若い君主に自分のもっているすべてを与えつくそうと努力する、そこに栄一の真面目があった。前述の米寿祝賀会の席上でも彼は、「『感きわまって申し上げる言葉もほとんど失うと申さざるを得ません。』と前置きして、一身の経歴や官尊民卑に憤慨した昔を物語ってから、実業界で働いたあらましに言及し、こんな老いぼれの祝宴に総理大臣が臨席して懇篤な祝詞を述べたことは、官民密着の実証だと説き、実業界の向上、発達を念願した一事は誤りではなかったと述べ、

『我身を祝って下さる有難さよりは、国家のため誠に慶賀に堪えない次第でございます。』と結んだ。」(渋沢秀雄著『父渋沢栄一』より)

 栄一の葬式は個人の葬儀としては未曽有の盛儀であった。霊柩車の後に喪主である父の車を先頭に、何十台もの自動車がつづいて葬列を作った。五台目ぐらい後に小学生の私も母と一緒に乗っていたが、飛鳥山から青山斎場まで長い道筋の両側に、たくさんの学校や団体の方がたがびっしりと並んで見送って下さるのを見てすっかり驚いてしまった。

 斎場では、私はたくさん並んでいる親類の列の後で、退屈しながら長いお経を聞いていたが、急に場内が異様に静かになるのを感じた。勅使が到着されたのである。こつこつと靴の音がして黒いモーニングの紳士が入ってこられるのを、私は人垣の間から顔を出して見ていた。勅使が帰られると、前列の最右翼に立っていた父が、つかつかと出ていって勅使が置いていかれた巻物を開き、音吐朗朗と読み始めた。

「高ク志シテ朝ニ立チ、遠ク慮リテ野ニ下リ、経済ニハ規画最モ先ンシ、社会ニハ施設極メテ多ク、教化ノ振興ニ資シ、国際ノ親善ニ務ム。畢生公ニ奉シ、一貫誠ヲ推ス。洵ニ経済界ノ泰斗ニシテ、朝野ノ重望ヲ負ヒ、実ニ社会人ノ儀型ニシテ、内外ノ具瞻《グセン》ニ膺レリ。遽ニ溘亡ヲ聞ク、曷ソ軫悼ニ勝ヘン。宜ク使ヲ遣ハシ賻ヲ賜ヒ、似テ弔慰スヘシ。右御沙汰アラセラル。」

 何が書いてあるのか事前にはまったくわからず、父はじつに困りきったが思いきって、ぶっつけ本番朗読したという。グセンというところをグタンと読み違えたが、それでも列席の人は感泣したという。

 栄一の遺体はその日、谷中の墓地に埋葬された。

 跡取りとして、また喪主として、十月から一ヵ月間、ほとんど不眠不休で働きつづけた父は、昭和六年十二月に糖尿病にかかって、東大の呉内科に入院した。当時は糖尿病の治療はもっぱら食事療法だったらしい。いっさいの糖分、デンプンなどを避けて肉や玉子ばかり食べるのだと聞いて、私はむしろ羨しく思ったことを覚えている。

 昭和七年一月にはしばらく静養することとなり、銀行その他すべての仕事を休んで、東大の柴豪雄博士に付添っていただいて、三津浜の松濤館に行くこととなった。五月まで数ヵ月ここに滞在していたので、私も春休みを利用して見舞がてら釣に行ったりした。父は釣り上げた魚を解剖したり、ナマコやイソギンチャクを水槽で飼育したり、久しぶりで青年時代に帰ったように楽しんでいた。

 ところがこの時の三津浜滞在は単なる静養に終らず、ここには思いがけない運命が父を待っていた。ふとしたことから、三津浜の隣り部落である長浜の旧家、大川家の当主、大川四郎左衛門翁と知り合った父は、同家に伝わる戦国時代以来、明治に至る二千数百点におよぶ莫大な古文書を発見することになったのである。

 今年の春、私は三津浜を訪ねて松濤館に一泊した。近ごろでは修学旅行の学生でいっぱいになるらしく、建物はこれをさばくために大きく改造され、昔の面影はなくなってしまっていたが、部室の窓から見る淡島や富士山の景色は三十年前と同じように静かで美しかった。当時、父がいつも釣に出るときに船頭として頼んでいた菊地伝次郎氏も健在で、夕方わざわざ宿屋に私を訪ねてくれた。暮れて行く鏡のような海面を眺めながら、昔話に花が咲いた。

 はじめ大川四郎左衛門翁は、この菊地氏を通じて数通の古文書を持って父のところを訪ねられたということである。翁が無雑作にひろげられた文書の中に天正十八年(一五九〇)の秀吉の朱印状を見て驚いた父は、翌日さっそく翁の家を訪ねた。そこには北条氏の虎印を捺した書類が三、四通もあり、慶長(一五九六~一六一五)、元和(一六一五~二四)、寛永(一六二四~四四)ごろのものも数多くあった。さらに案内されて土蔵の長持の中や長屋の押入などを拝見すると、これまた古文書、帳面、古証文などでいっぱいになっていた。当時の父はまだ古文書に対する知識は少なかったが、それでもこれは「容易ならぬ史料」であることを直覚したという。

 そうなると父の向学心はじっとしていられない。少しずつ風呂敷につつんで宿屋に持ち帰り、「ただ目を通すだけではいけないと思って片端から写し始めた。」父自身はもとよりのこと一緒にきておられる柴先生にもお願いし、また東京から見舞いにくる人たちまでつかまえて筆写を頼んだという。釣などはそっちのけになり、午前七時半ごろから夜十時ごろまで夢中になって書写したことが約二ヵ月間もつづいた。」

 大川翁は、父のこのような熱心さに驚きもし、また感動もされたと見えて、やがて祖先伝来の文書のいっさいをあげて、その処置を父に任せようと申し出られた。父はひじょうに喜んでこれをお引受けするとともに、全部の文書の徹底的な整理、編集、出版を決意した。

 これが後に、『豆州内浦漁民史料』全四巻となって出版され、その功績により父は東京大学にあった日本農学会から第一回農学賞を贈られることになるのである。しかし何ぶんにも二、二七〇点という莫大な史料を整理編集するということになれば、それ相当の準備もいるし、人員も必要となり、父の学問上の仕事はこれを契機に急激に発展することとなった。

 三田の家の西隣りに、アチック・ミュージアムとは別に、「祭魚洞文庫」というものが建てられ、家の者はこれを「文庫」と呼んだ。前のアチックが簡素で天井板も張っていないひなびた建物だったのに対して、今度はやや豪華版でチーク材で建てられていた。

 家の反対の東側の方には、四階建ての「書庫」が建てられた。本棚ばかりの家で、天井が低かったから高さはそれほどでもなかったが、階段がなく垂直の梯子で昇り降りした。本を上げ下げするための滑車の付いた手動巻上げ機があり、子供心にも面白く、また少し年を取ってからは、よくそこでいろいろな本に読みふけったものである。

「論文を書くのではない、資料を学界に提供するのである。山から鉱石を掘り出し、これを選鉱して品位を高め焼いて鍰を取り去って粗銅とするのが本書の目的である。これをさらにコンバーターに入れ純銅を採り、また圧延して電気銅を取り、或は棒に或は板に、或は線にすることは我我の仕事ではない。原文書を整理して他日学者の用に供し得る形にすることが自分の目的なのである。」

『漁民史料』の序文のこの言葉は、それ以後の父の学問の基本的パターンを宣言したようなもので、この方針に従って漁業史研究室が設けられ、研究する同人の数もどんどん増え、系統的意欲的な研究が進められることとなった。

 父はいつも、夜、銀行から帰ってくると、真直ぐにアチックや「文庫」に出かけて行き、遅くまで同人と話し込むのが常となった。母屋に帰ってくるのは十二時すぎ、時には二時、三時になることも珍らしくなかった。小学生の私が、何かのかげんでふと夜中に目を覚ますと、内玄関の方角から長い廊下を渡って、私の寝ている部屋の前を折れて二階の寝室に上って行く父のスリッパの足音が、真夜中の静けさの中に、はっきりと高く響いて通ったのを覚えている。

 思うに三津浜での漁民史料の発見は、父にとって人生の転期ともいうべき意味をもっていたようである。発見の時期も、祖父栄一の死後数ヵ月のころであった。栄一の在世中は、父は表面的には第一銀行の重役だったが、実質的には栄一の側近での仕事がきわめて多かった。元気とはいっても九十歳の老齢であるから、何かと話し相手になったり、家事一般を取り仕切ったり、仕事の手伝いをしたり、必要とあらば代理を勤めたり、いわば陰の役と表の役を交互に勤めなければならなかった。三十代もまだ半ばの父にとって、それはずいぶん気骨の折れる仕事だっただろうと思う。

 こういった日常を通して世の中を知り、処世の技術と知恵を身につけていったことが想像される。その意味で、それは貴重な成長の時期であったかもしれない。しかし、まだ父本来の使命は発見されていなかった。仕事がひまな時など三田の家に帰ってきて、田島さんという執事や書生さんたちと一緒に遅くまで碁を打っている父の姿には、かなり深い「退屈」の影がさしていたのを、幼な心に私は記憶している。

 栄一の死はそういう父を解放した。栄一の代理者としてでなく、独立した人格として、自分できり拓いて行くべき運命が前途に展開していた。そして内浦史料の発見は、それからの父の人生にはっきりとした方向と使命を与えることになった。この史料は、四百年にわたる一つの村の生態史として学問上ユニークな価値を持っていただけでなく、ごく若いころから父の心の中で生長しつつあった学問の方法についてのアイディアに具体的な形と基盤をもたらした。動物学者を志した中学校時代いらい長い模索をつづけ、玩具、民具の収集、花祭の研究など、幾多の予備的作業を通してようやく形を整え始めていた父の学問は、これを契機として一挙にその花を開くことになったのである。


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