語られた渋沢敬三

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大谷明史著『渋沢敬三と竜門社』へのまえがき / 渋沢雅英

掲載:2015年02月28日


大谷明史著『渋沢敬三と竜門社』表紙

大谷明史著『渋沢敬三と竜門社』
(勉誠出版, 2015.03)表紙

はじめに、これほど緻密で、内容の濃い研究を完成されました大谷明史氏に心から感謝したいと思います。『渋沢栄一伝記資料』の編纂・刊行と、日本実業史博物館設立のための沢山の方々のご尽力の詳細が、このような形で記録・発表されましたことは、ほんとうに有り難いことです。

渋沢栄一の没後、時が経つにつれて世の中の感じ方、考え方も変わり、特に戦争が深刻化する中で、敬三はいつも慎重に、しかし時としては大胆な意志を表明して、竜門社をはじめ周辺の方々を説得し、この二つの事業の継続を可能にしてゆきました。私自身はまだ中学生で、詳しい内容は知りませんでしたが、父親はこういうことをやっているのだと、漠然と思っていました。そのすべてが、今回鮮明に記録され、数々の数値によってその経過を見せて頂いたことは、望外の幸せでした。

旧第一銀行の施設の一部をお借りして『伝記資料』の編集や、実業史博物館の準備を進めていたことは、栄一の跡取りだから可能になった面もあったと思いますが、それも無期限に許されることではなく、さらに昭和17年、敬三自身が日本銀行に移転し、第一銀行との縁が切れてゆくなかで、事態収拾につとめる敬三の努力は驚くべきものでした。

博物館の移転先となる阪谷家との折衝についても、たまたま北京から一時帰国された当主希一氏と敬三の間で、いわば「あうん」の呼吸で、きわめて短期間の間に、それぞれの家の運命を大きく変えるような決断が行われました。二人の間の、少年時代からの信頼関係もあったでしょうが、博物館の建設という目標に対して、ぶれることなく、てきぱきと決めてゆく敬三の生き方は大変印象的です。

敬三はこの二つの事業に対して、自分の資産のなかから可成りの金額を拠出しています。このことは渋沢家の跡取りという立場から、当時はそれほどの関心を呼ばなかったかも知れません。確かに同族会社の資産全体からみれば、この程度の寄付は可能だったと思います。しかし、故栄一の意向で、いわば共有財産的な位置づけがあり、同族一同や渋沢事務所の意向もあり、敬三の独断で進めることは必ずしも容易ではありませんでした。

加えて、敬三が自分の企画として進めていた常民文化の研究も、多くの研究者を擁し、全国的な調査旅行や、成果の出版も活発に展開されていましたので、当時の敬三は、いわゆる「お金持ち」とはかなり違う現実の中で生活していました。ある時は思いあまって妻の登喜子の貯蓄の一部を借用したいと申し出て、登喜子も敬三の仕事の広がりを理解して、その申し出に応じたという一幕もありました。

戦局の重大化に伴い、国民生活全体が多くの障害に見舞われる中で、日本常民文化研究所の方々のご助力を仰いで、何とか『伝記資料』の編纂や博物館の人手不足を補ってきた背景には、敬三の掲げる目的感への深い信頼と共有があったものと思われます。戦争という無惨な環境の中で苦労を強いられている人々に対し、敬三はいつも暖かく、その苦しみに寄り添って生きているように見えました。

終戦直前の春、前橋の予備士官学校にいた私に、三田の庭の各所に咲き始めている花の名前やその香りや色合いについて詳しく知らせる手紙をくれました。残念ながら本文は、終戦の騒ぎの中でなくしてしまいましたが、日銀総裁の仕事の合間に、陸軍という無味乾燥な世界の中で不如意な日を送っている息子の心を、少しでも癒そうとした敬三の思いやりを、今も心から感謝しています。

そのころの敬三は、日本銀行での激務をこなしながら、毎日朝6時半から8時半までの2時間をさいて、魚名の研究や、延喜式に見える水産物の流通など、多くのテーマについて画期的な研究を進めていました。

今にして思えば、67年という余りにも短い人生のなかで、多種多彩な仕事に取り組み、その一つ一つを、ほとんど奇跡と思われるような結果に導いていった敬三の力量は、尋常のものではありませんでした。そしてそれらのすべてが、没後50年を超えて、現在の渋沢栄一記念財団の活動の基盤となるなど、本来願っていたとおりの形で機能し、今の日本の文化的なニーズに立派に応えています。

大谷氏の御本からは、『渋沢栄一伝記資料』の編纂や、日本実業史博物館建設計画の詳細が、洩れなく伝えられるとともに、内外ともに緊迫した情勢の中で、遠い先の日本のあり方をいつも敏感に感知して、しかも悠揚迫らない心の姿勢を持ち続けた敬三の人生のありのままの姿が迫ってきます。本当に有り難うございました。

2015年1月

*大谷明史著『渋沢敬三と竜門社』は勉誠出版より2015年3月刊行予定です。

リンク

渋沢敬三と竜門社 : 「伝記資料編纂所」と「博物館準備室」の日々 / 大谷明史著
〔勉誠出版〕
http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&cPath=9_14_39&products_id=100451


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