渋沢敬三の著作

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『渋沢敬三著作集』未収録の著作・対談 - 対談・インタビュー
渋沢栄一翁を偲ぶ / 渋沢敬三, 山崎種二 (対談)

『渋沢敬三. 下』(渋沢敬三伝記編纂刊行会, 1981.08) p.80-100掲載
初出:『証券マンスリー』第50号(山崎証券調査部, 1954.09) p.6-22

渋沢敬三
対談者 山種証券(株)社長 山崎種二氏

渋沢家と社長との関係

本誌
きょうは「証券マンスリー」の丁度五十号記念といたしましてお二人の対談をお願いしたわけでございます。山崎社長が十六の時に田舎から東京へ出て、深川の山崎繁次郎のところへ参ったのです。丁度そのとき、明治四十一年十一月二十八日だそうでありますが、御尊父様の渋沢篤二さんが、山繁の家で義太夫をしておられて、非常に御気嫌が良くていらっしゃって、「田舎から出て来た小僧さんに一つすしを御馳走してやろう」というわけで、生れて初めて味ったというので、そのすしの味が一生忘れられないといっております。それから山繁さんは渋沢喜作さんに大変可愛がって頂いたのですから、これまたなかなか御関係がありますので、是非先生においでを願って話をして頂こうというわけなのであります。話の中心は渋沢栄一翁の人生観、処生観…、いろいろ実践されました跡を辿って頂きまして、それから敬三先生の何といいますか渋沢家伝来の実践躬行といいますか、色々お話しを承ってわれわれの範にさせて頂きたいと思います。一番初めに御祖父に当たられます渋沢栄一翁につきまして、極く簡明に先生の祖父観と申しますか、仰言って頂きたいと思います。
山崎
私からも一つお願いいたします。栄一翁は実業界の神様と崇められておられますが、これはわれわれ実業人は勿論のこと、これから実業界で活躍する若い人達のために是非お願いしたいものです。私もお蔭様で渋沢翁の教えを頂きまして、一つの商売に一番大事なのはソロバンと道徳だけだという先生の教えを今日まで守り通して四十年を大過なく過してきました。今日こうしてお目にかかれるということは非常に有難いと思っております。
渋沢
さあ……別にこれといって特にお話することもないと思いますが、私は孫ですから相当年を取ってからの祖父しか知らないのでして、元気時分の祖父のことは余り良く知らないのです。しかし祖父は良く飽きずに話をしていましたし、色々な折に触れて話は聞いておりますけれども本当に目で見たわけじゃないので…。

センチを排する

山崎
しかしお祖父様には一番可愛がられたのでございましょうな。
渋沢
いやその点は私の祖父は…、これは私自身が感心しているのですが、センチメンタルというものは全然なかった人ですね。孫だからどうだとか、やたらに溺愛するといったようなことは一つもない人でしてね。これは他でも余り話したことはないのですが、例えば祖父の死の直前のことですが、特別親交のあった佐々木勇之助さんにお逢せしようと思いましてね、もうその時は二人とも死ぬということは良く分っていたのですよ、意識がなくなってから逢っても意味ないですからね。特に佐々木さん一人をお招きしてゆっくり話をさせたことがあります。互いに口では言いませんけれども、これが最後だということは分っているのです。その時部屋には私と入沢博士と林さんの三人でしたが、二人でしきりと話しどういうものか手を握り合っておりました。決して涙が出るわけじゃなしにですね。にこにこして話をしていましたが、そのうちに佐々木さんが「敬三さんのことは心配するな」とかいわれたのですが、祖父はいきなり「それはいけん。私の関係だからどう、というようなことは言っちゃいけない、あれはあれで突放して勝手にしておいてくれ」といっていましたが、私はこの点はむしろ非常に嬉しかったのです。自分の身贔屓というようなことはなかった人でしてね。私はそれを気持よく傍でみておりました。一番根本に考えていたことはいわゆる道徳経済合一主義といってましたが、これを提唱したことは確かです。また論語とソロバンというようなことを言っておったのですが、も一つ奥に考えておったのは本当の意味での民主主義だと思います。あの封建時代に長い人生を通して一番闘ったのは官尊民卑の打破でしたね。
山崎
上野の戦争に参加されたというお話しは…。

権力に屈従せず

渋沢
いや、あの時は参加しなかったのです。フランスへ行っていましたから。こっちに居てチャンバラでもやっておったらどっかで討死していたかも知れません。フランスから帰って来て何かいろいろ苦労したらしい。暫くしてから静岡の宝台院へ行ったらしいのです。そこで静岡藩の勘定組頭を一寸やり、あとやめて、それからいよいよ静岡市で商法会所をおこし、三井物産みたいなものをやり出した。そのうち大隈さんが呼びに来て自分の初の志を翻して明治政府へ一時入った。まだその当時は侍が幅をきかし町民を大変小馬鹿にするのです。その態度に対して非常に憤慨しておったらしい。ですから、そんなことがバック・ボーンになっているらしい。自分は官で終ろうという考えはない。それで租税の改正とか、廃藩置県の時などには本当に寝ずに働いたような人でした。そうしているうちに井上さんと一緒に明治六年に辞してしまったわけですね。その時大蔵省の次官くらいに行っていたのですが…。それから第一銀行を創立したわけです。その後はとにかく日本国民はもっと確りしなくちゃいけない。今までのように権力者に屈従的な態度を採ることは絶対にいかん。もっと自立しなくちゃいかんということを云い、そうなることが念願でしたね。
山崎
そうすると同時にソロバンの奥に一つ自立自存というやつがあったのですね。
渋沢
その方がむしろ本当じゃないですか。
山崎
本当に徹底した合理主義者でいらっしゃったのですね。
渋沢
そうですよ。さっきお話したようにセンチで動くということはなかったのですね。また物を見る場合も大きくみていた、理に適うか否かということを考えて、自分自身の利害で動くということはできるだけ避けるといった行き方をしていました。無論それが完全に行われたかどうか分りませんが、ですから八十八の米寿の祝賀会を丁度この東京会館で官民合同のお祝をして下すったことがありました。その時に総理大臣の田中義一さんが、祝辞を述べられました、それに対する答辞で「自分は総理大臣がみえて祝辞を述べて頂くということも大変有難いけれども、そこまでして頂いたということは、実業人それ自身が上へ出て来たことを意味するのであって、私はそれを喜ぶ」というようなことを言っていましたね。
山崎
官から野に下られて実業というものの向上といいますか、それに一生懸命に努力されたのですね。
渋沢
また封建的ということに対しては実に嫌がっていたことがありますから、私は見ていて封建的なことはなかったです。誰でも皆一人の人間として扱っていました。

渋沢同族会

山崎
御家庭でも非常に激昂されるというようなことはなかったのですね。
渋沢
そういうことはありませんでした。明治初年ごろでしたか、まず株式会社的な物の行き方…、私のところの親類で渋沢同族会というものが出来た、大正四年の税制改正の前に、私共のところの同族会社が出来ていたので、そのため特別な税法が出来てしまった。それがもとですよ。大したものではなかったのですが、それでも何と申しますか、自分の思う様にするというのではなしに、みんなでやって行くといった格好でした。これは単なる財産保全というようなことでなしに、ある一つの行き方をやってみるといった調子でしたね。
山崎
話の中心としまして、家訓の三則というようなものですが、その中で一寸伺いたいことが翁の伝記に書いてあるのです。「言忠信を主とし行篤敬を重じ事を処し人に接する必ず其意を誠にすべし」の中で行篤敬でございますが、篤という字は御親父様に篤二という名が出て来たのですが、敬という字は…。

懇切を極めた応待

渋沢
私の叔父に敬三郎というのがいた。すぐ死んじゃったのですがね、今でも墓へ行きますと下の郎が永い年月の間に消えてしまったので何だか私の墓のような気がしますがね。(笑)ですから敬の字がくっつけたかったらしいですね。それから祖父はつまらないことも真面目にやっていました、それだけは本当に不思議でした。例えば家には色々な人がおいでになられ、応接間で話をして、もう分ったと思うのですが、その方が帰る時には一緒について来て玄関でまたやり出す。帰る人がビックリしていました。そして戸口のところで又やる。これは誰でもそうですが例えば隣りの人にあいさつするのでも「きょうは良いお天気ですね」とか何とか言いますね、その都度同じ言葉が返ってくるものじゃありません。ですから軍隊などでやっておった復唱ですね、あれは間違いをなくするようにやるのです。色々くどく言っても、聞いている人は自分の好きな方を聞いて嫌いな事は聞いていない。そうすると食い違いが出てくる。これをまあ努めて避けるようにするためくどかったのです。本当に良く分ってもらうためには…、エネルギーも相当だったのでしょうが、お見えになった方は閉口されていましたね。
山崎
子弟教育の方向という第三則は先生御実践されていらしゃるのですか。あの中に満十三歳以上に至れば学校休校中には旅行すべし…。というのがありますが。
渋沢
その本は一応単純な観念的なことを書いただけでしてね。これを実際にやっているかどうかというようなことは別に一度も聞いたりしませんでした。

親類の融和

山崎
同族会は毎月一回やったのですか。
渋沢
これは毎月やっていました。いいことだったと思っています。もう会社はなくなっちゃったのですが…。私常に考えるのですが、どこの家庭でも親類同志仲良くなるかどうかということは、良く顔を合せるかどうかです。例えばこれは一寸おかしいのですが、お通夜ですね、なかなか目的なしにあんなに長く皆が一緒にいるという時間は余りありません。結婚式の方はわあわあ騒いで別れてしまいますけれども。で、あれはおもしろいもので、その機会に不断 [普段] 余り逢わない親類とゆっくり話したりして、この人はこういう人だ。ということが分るものです。だから毎月一度ぐらい会合をしていますと感情の交流があって非常にいいです。
山崎
御尤ですな。今でもやっておられるのですか。
渋沢
二時間ぐらいですがね、来られる人には来てもらっています。話をして別れるだけのことですが…。
山崎
一つ真似したいものですな。
渋沢
そうすると何かで思い違いがあったり、誤解からおかしなことになるということが余程減りますね。前にはしかし私、同族を集めたりしておかしいじゃないか、兄弟なんかの時は良いのですよ、その子供になったり、従兄弟ですね、またその子供達になったら他人のようになるのですが、それをいつまでもやっていることはおかしいじゃないかと言ったことはありましたね。そうしますと、それはその通りだ、しかしそうかといってバラバラになってしまってあの人は画かき、あの人は金持ち、学者と皆勝手にしろということじゃ面白くないので、一つのトライアルだというのです。このままで秦の始皇帝のようにいつまでも続けようと思ったらダメになるのだけれども、一つの社会的な訓練をしてみるのもいいだろうというような軽い気持でやったので、固い考えじゃないのですね。
山崎
今では何人くらい集りますか。
渋沢
七、八人ですね。

長命の鍵は?

山崎
それから翁は非常に御長命でお亡なりになったのですが、特に健康法ということはやっておられたのですか。まあ、健康の素といえば労働、摂生、満足ですが。
渋沢
そういう意味で長生きしようというような考えを持ったことは一つもないようですね。一生懸命になってそういうことをしたということはないと思います。不摂生もしていたようですね。(笑)
山崎
もともとお身体が丈夫だったのですね。
渋沢
何故丈夫であったかというと芯がつよかったのですね、皆の意見を綜合すると、結局身体の内臓なり細胞なり一つ一つが丈夫でかつ調和が取れていたのだろうということで、だから強健だったのだろうということでした。ずい分大食いでしたが、酒は飲まなかったようです。若い時から飲めなかったらしい。食う方は食ったですね。
山崎
晩酌などもおやりにならなかったのですね。
渋沢
やりませんでしたね。
山崎
そこらに健康のもとがあったのですな。
渋沢
その代り食いました。あの日本橋にあった十天ですね、あすこの天ぷらなど取って一人前私が食うのですが、その間に一人前余計に食えるといったようなこともありましたね。八十過ぎてからはそれもなくなった、というより少くなりましたが。
山崎
浜町の“ときわ”はお気に入りのようでしたね。
渋沢
そうですね、祖父なんかは若い時にはいろんなことをしていたようですね。
山崎
あれが今の丸ノ内の“ときわ”ですか。
渋沢
そうですよ。“いちげ”なんかね、震災のときこっちに移ったのですよ。
山崎
喉頭癌になったのは五十五歳の時でしたか。
渋沢
六十(五十五)歳でしょう。皮膚癌をやったのです。明治二十七年ですか。あのエクボのように見えたやつが手術のあとです。あの時の医者は高木さん、橋本さん、執刀されたのはスクリッパーという人だったと思います。麻酔をかけて切ったのですね。で、それが良くなっちゃったので癌じゃなかったのだろうという話もありましたのですが、矢張り癌だったらしい。その標本が慈恵会にあったようですが、震災でなくなったでしょうね。そのため生きた標本として長い間癌研究会の副総裁をおつとめした原因です。亡くなってから長与又郎先生から私に次を頼まれたのですが、私は祖父が亡くなったからといって私がお受けすべき筋合ではない。というので ―― 何しろ祖父の関係したものがみなわあわあ言って来られたのでしょう。それはいかんと言ってね、お断りしたのですよ。それに関しては限定相続だ(笑)といってね。大学なんかからも来ましたね。相当のジジイになってやれるようになったらやりましょうと言ってね、みなお断りしました。
山崎
変ったお考えでございますね。名誉職の限定相続をなさったわけですね。
渋沢
私のおやじは六十一歳で肺癌で亡くなったのですよ。
山崎
子爵が亡くなったのは昭和六年ですね。

翁の性格

渋沢
直腸癌です。祖父はあれでなかなか面白い性格でした。物を変えることが嫌いでね、反面非常に進歩的なところがあって、自動車なんか早く買ってね、明治四十一年から自動車に乗っていたでしょう。有栖川宮が日本では一番初めてしたかね。ところが逆に、物を変えるというようなものといったら全く嫌いでしたね。例えば朝飯なんか十年一日の如くオートミール、ハム、目玉焼きといったもので食っていました。
山崎
あのころからオートミールを召上っていたのですかね。
渋沢
ほとんど一定でしたね。洋服なんかもボロボロになるまで同じ物を着ているのですよ。常にフロック・コートを着ていました。ダブルが流行してまた一時下火になりもう一度また流行して来たときなんか、初め着ていて皆が着なくなっても全然気にせず着ているうちにまた流行してきたのでおかしくなくなった(笑)というようなものでね。
山崎
やはりそういう御生活も民主主義でやっておられたのですな。
渋沢
或る時伊香保に行った時ですが、これは伊香保神社へ行ったのです。その時木暮武太夫が非常に感心しましてね、神社参拝にわざわざフロック・コートを着て来た(笑)と思ったのですね。本人はフロックしか持っていないのですよ。ロンドンで背広を着たほか内地では背広を着たことありません。

渋沢喜作氏のこと

山崎
実業界の第一線に立たれて御活躍頂きました関係から常に決断力があった、といえますな。喜作さんとも非常に気が合ったといいますか、喜作さんはああいう上野の戦争なんかにも参加したくらいで、ずい分度胸があったのでしょうが、この度胸も実業人に取って必要だということを教えられたのですが。
渋沢
喜作とは従兄弟ですよ。いつも一緒にどこかへ行ったりして、西郷隆盛なんかとも晩飯なんか喰っていたらしいですね。いよいよというときに民部公子についていろということで、そこで別れたのですね。その間に上野の戦争が始り、喜作さんは彰義隊なんかに加わり、榎本武揚にくっついて五陵郭なんかに行ったのです。なかなか太っ腹の人でしたが、相場にも手を出して大失敗したらしいのです。
山崎
あの時喜作さんが横浜で生糸の相場をやっていた時の相手が天下の糸平でしたな。
渋沢
そうです。祖父とは関係はないのですね。
山崎
井上さんの御令息の御面倒をみられたということですが…。
渋沢
それは私は余り良く知りません。大隈侯が良く言われたのですが、渋沢は不思議な人で頼まれると一生懸命になって世話をして、頼んだ人が忘れても何かと奔走しているといっていましたが、そんなことは確かにありましたね。

翁の書

山崎
実業界、銀行関係は勿論、取引所関係にも非常に御支援を頂き、御指導を賜りまして、有難いと思っていますが、翁の直筆の詩を頂いておったのですが、あれでずい分先生の書は全国に沢山行っており、崇拝者も沢山いると思うのですが、ずっと若い時から書くことはお好きだったのでしょうな。
渋沢
それは好きだったようですがね。習字などは大してしていなかったらしい、顔真卿なんか知っていたらしいです。それで死んだ時にはずい分その書きかけが溜っていました。頼まれてそのままになっていたのです。そいつを送り返すのに一汗かいたのですよ。中にはどこへ行ったか分らなくなった人もありましたがね。
山崎
大体論語が中心に…。
渋沢
矢張り文画の方は少いですね。
山崎
先生がよく感銘されているといいますが、眷眷服膺されている書といいますか、そういうものがありましたら……。
渋沢
良く書いた中で、かなり沢山あるのは「名を為すは多く窮苦の時に多し、事を破るは多く得意の時に多し」ですね。

翁の御者と山崎証券

山崎
私の方にも第一銀行をやめられて社に来て頂いた人で八木仙吉さんという人がありますが、翁から弾よけを頂いていましたが、死ぬまで私のところにおられました。
渋沢
ああ、八木君がお宅の方へ行ったのですか。あの人のお父さんが私の祖父の馬車の御者だったのです。
山崎
左様ですか。
渋沢
お父さんはなかなかいなせな良い人でしたよ。
山崎
自動車になってからは…。
渋沢
あとはブラブラしていました。
山崎
何か暴漢に襲われたとき…。
渋沢
刀で馬の尻を叩いた、それで馬が三越のところまで突走ったのです、それが良かったのですね。あの人は身体中ホリ物がありましたよ。それから渋沢事務所に井田善之助という人がおります。それが兄さんです。
山崎
この間仙吉さんのお葬式の日に来ておりました。
渋沢
ああそうですか。

民衆的な生活

山崎
御祖父様の千代子夫人は御立派な方だったそうですね。
渋沢
明治十五年に死んだのです。私も見たことがないので、全然知りませんけれど、割合に確りした人のようでした。
山崎
飛鳥山のお庭を開放されたのもやはり一番奥にお考えになっておられた民主主義ということからですかな。
渋沢
私の祖父は大きな家に住んでいましたけれども、私など横からみていると、まるで間借りしているような格好でしたね。(笑)自分の住んでいるのは極くわずかなところでして結局客のために造っていたようなものでしたね。やたらに隠したりしませんでした。そんなわけで非常に開放性の人でした。
山崎
民衆的だったのですね。ところで、政治というものに対してはいかがだったのでございましょうか。

渋沢翁と政友会

渋沢
これは面白いのですよ。政友会が出来る時には綱領を先に作って、こういうのができたからどうだ政党を創っては、といって伊藤さんに奨めたのは祖父なんです。それで伊藤さんもその気になったらしいのです。で、お前も一緒にやれといってこられたが断ったのです。その時こういうことを言っています。「芝居でも舞台に立つ人だけではダメだ。見る客が居なくては成立たない。またこの客も確りしていなくちゃ成立たないので、私は平土間の観客になるのだ」といってね。今は役者もそうだが、この平土間がダメですね。これは今の政治と同じですね。役者にばかり文句を言ってもダメだと思う。もっと国民がしっかりしなければね。ですから大正八年日銀総裁になれと高橋さんに言われたときも、明治三十四年井上さんが内閣を造ろうというときに大蔵大臣になれといわれたのも日下さんなどに言って方々手わけしてとうとう断っちゃったのですよ。ところが私が日銀総裁や大蔵大臣になっちゃったのだから向うへ行ったら叱られるでしょうね。何て馬鹿なヤツだと言ってね。(笑)あの時は終戦後で気が狂っていたのですよ。
山崎
結局根本的な青淵先生の御理想というものは道徳経済合一主義ということですか。

自己の確立がない日本人

渋沢
自己の確立ということですね、日本には本当の自己が確立されていない。ルネッサンスがなかったということも自己の確立がないということに関係があると思います。結局福沢先生などが個人主義を唱えられたのですが、日清戦争、北清事変、日露戦争などが相次ぎ、大正になって軍部が台頭して個人主義を叩きつぶしましたからね。日本人というやつは自我がはっきりしていませんね。日本人の特徴はルースベネディクトという向うの学者がうまいことを言っていますが、日本には世界が多すぎる。義理の世界とか人情の世界とかが多過ぎるというのです。
山崎
なるほどな。
渋沢
親分のためなら少しぐらい法律的に不当な事をやっても、却ってそれが感心されるのですね。その都度自分の道徳観念が薄くなる。いろいろ義理の世界でそれが何となく合理的になっちゃうのですね。
山崎
自己というものが弱くなるのですな。
渋沢
オレはこう思うということが言えないのです。日本人の欠点ですね。こういうことが言える人がもっと居ればこんなことにはならないと思いますが…。誰が権力があるとか、政府とかの権力にはすぐ屈してしまう、これはまずいですよ。
山崎
良いお話ですな。日本人はそういう世界が多過ぎる…。それと関連して翁は政治が道徳であり正義であるということを仰言っているのですが、今の政治というものは非正義的なというような感じがするが、青淵先生が生きていらっしゃったらどんな顔をされるか、この点いかがでございましょうかな。
渋沢
私の祖父は藩閥は嫌いでしたね。政党が幾つも出来ていましたがね。ああいうのはいかんというのでした。
山崎
高いところからなんでもお考えになるのですね。

政府で出来ない事を

渋沢
一度貴族院議員になりましたがすぐよしてしまったのですが、人の気のつかないノン・ガバメント…、ガバメントでできないことを一生懸命やったという人です。官でやる方はどうでも良い。そうでない、それでは出来ないものをオレがやってやるといったような格好でしたね。いろいろ仕事をやりましたが東京市養育院長が一番長くやったですね。死ぬまで一度もやめなかった。
山崎
なるほどな。
渋沢
これは特に力を入れたのです。祖父は楽翁公を崇めていたのですが。この養育院ができたのは公が寛政の昔倹約を将励され、町々に積立金をさせられた。この金が残って東京市の共有金となり、これによって、あの明治元年の上野の戦争後、世の中が乱れて不穏の徒、窮民が街にあふれたのを救済することができた。五月十三日は公の命日にあたり、養育院では記念祭をやっていました。
山崎
今も見方によっては乱世かも知れませんけれどもな。

視野開眼 — 外遊のもたらしたもの

渋沢
ですからその意味では革命児ですよ。今で言ったら危険思想も相当持っていたと言えるでしょうな。一ぱい飲むと何かやり出すのですからね。阪谷芳郎のお父さんの朗廬先生に逢っていろいろ議論してみてその進歩的な考えを聞いて、非常に世界は広いと思い出した。それが朗廬先生と関係の出来た初めですよ。そのうちにたまたま仏国へ行くことになって、それまで全くアンテイ封建でしたが、向うへ行ってパリで取引所をみてビックリしたものです。
山崎
あちらではおやりになったのですか。
渋沢
少しやったらしい。で、こういう組織というものは大変なものだと思って感心したらしいのです。
山崎
それでなんでございましょうな、取引所関係にも……。
渋沢
保険という字を使わないで公正出資家財請負会社というように訳していますがね、そういう方面は一生懸命みてきたようです。もう一つ向うで驚いたのはベルギーへ行って王様が経済問題なんか話しているというのです。日本では経済なんて話したら馬鹿にされる時代ですからね。また誰との話も対等なのですね、それをみてまた驚いた。日本もこうならなければならないということを本気に考えたらしい。それまでは何といっても膝を屈していたのですから…、町民などは。
山崎
いわゆる士農工商時代ですからな。それから、翁の御趣味でございますね、義太夫なんか色々やられたようですが。

翁の趣味

渋沢
義太夫はやっていましたがね、私の親父みたいに好きじゃなかったですね。むしろ趣味はなかったといっても良いです。別荘、骨董は持ちも買いもしない。これは依怙地になって買わないのです。まあ頂いたもの以外にはないですね。
山崎
千代子夫人が大分美術が好きだったということですね。
渋沢
一つ位はありますが、そんなものだけで、私の祖父はそんなものも知ってはいたようですけれどもやりませんでしたね。実業家が金が出来るとそんなものをいじくるのを苦々しく思っていたらしい。自分で買ったものといえば茶器があります。これは伊藤さんと井上さんを慶喜公に会せるときに始めてお茶の会をやったので、王子で一度茶会をしたのです。これはまあ慶喜さんと逢うのにお茶の会のようなものでないといけないと思ったらしいですね。それも一度使っただけで売ってしまったですよ。

龍門社

山崎
竜門社ができたのはいつごろですか。
渋沢
明治十八、九年でしょう、尾高さんとか石井さんという当時の深川の書生さん達が作ったのですからね。尾高藍香先生が命名されたのです。それがだんだん変ってきたのです。
山崎
私は宇都宮に講演に行ったとき見ましたが、あれは大変なものですな。
渋沢
ヘタをすると老人のためのもの老人だけが喜んでいるというようなことになっちゃうのですね。
山崎
若い者をひきつけていくことが大切なんですな。翁の言葉の中に「元気は頭から出る」ということがあるんですが、これはどういうことですか、元気な頭を養成せよということなんですかね。
渋沢
頭の転換ということは、困っても屈託しないということですな。あまりくよくよしない、これは馬越さんの言葉なんですが、「心配してもいいが心労するな」心をくばるのはいいが心を労してはいけないということをいっている、これはいい言葉ですよ、心労があると自分自身の中に気がつかないで間違ってくることが多い。

敬三氏の事業 — 国際電信電話株式会社の発展

山崎
先生のいまのお仕事、国際電信電話の社長及び専売事業審議会の理事長として何か…。
渋沢
これはただ頼まれてやっているだけなんでね…。
山崎
民族学の研究などされているということですが…。
渋沢
真似ではないけれども、学問の点で世間からあまり可愛がられていない学問を一生懸命お世話しているのですよ、電信電話、専売の方は私としてはあまり気も進まなかったが原さんそのほかの人たちからお前やれやれといわれて遂にお引受けしたわけです……。いまの日本の電信は戦争中に使い果してちっともよくなっていません。これを急速に直すには、独占事業として国家がやった方がほんとうかもしれないが、議論は別として急速にやるにはやはり私企業の方がいいですね。早い話が電波というものは世界でとりっこをしているが、周波数をとりっこするのにどこが空いているかをみるのに水晶のかけらがいるんです、ところがそれ一つ買うのでも政府でやれば三ヵ月くらいかかってしまう。ところが私企業ならあしたでも買えるわけですからね、そういう方面で周波数をずいぶん回復しましたよ、そんなことはいまのような形式の方が楽に出来ますね、そのかわりこれは山崎社長のおしかりを受けるかもしれませんけれど配当は八分にいたしました。株主に対しては可愛そうだと思うのですがね、けれども三十七億の再評価を三度ばかりしましたし、資本金が多くなれば配当は多くしなくともいいのじゃないかと思っているんです。それに独占事業でありますし公共性の非常に強いものなので、株主が非常に多い配当をとるということはどんなものかと考えたわけです。そのかわりうんとこさ償却しているんです、もうこの一年で七億以上しちゃいましたからね、インタレスティング・バリュウは出していますが…、少し乱暴ですがね、何年間か経って特配別当 [特別配当] をするのはかまわんと思っていますが、そうかといってうんともうかる会社じゃありません。
山崎
しかしよく社内留保をそれだけやったものですね。
渋沢
一生懸命ですよ。
山崎
従業員は何人くらいですか。
渋沢
全部で三千三百人です、これだけの人間が夜昼なく二十四時間ブッ通しで働いている会社は他にはないでしょう。これは地球が円くて、こっちが昼のときはあっちが夜という具合で、こっちが寝ていても向うは起きているし、四六時中休んでいられない会社ですからね、その間三交替でやっているんで人数が余計いるんですよ。夜間勤務のある会社はありますが、それらは割に時間が短いし人数もあまり多くはないでしょう、相当の人数が起きているところはあまりないでしょう。これは特別に労基法で許されているのです。何しろ朝三時から五時ごろに向う様が働き始めるので忙しくなってくるのですから…。

砂糖と専売制

山崎
専売事業審議会委員長として今度の経済企画庁あたりでやっている新経済政策、これは大分問題になっているようですが輸入原料に頼る砂糖とか石油とかを専売にするというのですが、これについて何か……、大分異論も出ているようですが……。
渋沢
これはむずかしい問題だと思いますね、専売ということは果してほんとうにいいのかわかりませんけれども、砂糖なんぞは、ぼくは輸入制限はあってしかるべきだと思う。あまり乱暴に入れるのはどうか、砂糖というやつは塩と違ってなめたいだけなめてしまうのでね。
山崎
消費税をうんととって消費を抑えるというようなことはいいのじゃありませんか。
渋沢
しかし専売ということはどんなものでしょうか。
山崎
さきほどお話の青淵先生のお主義も自立、自由ということですが、それから考えると専売は逆行ですね、砂糖にしても石油にしても国際的に過剰商品ですから、それを日本だけが自由に得られないということは民族の発達ということからみてどうでしょうか。
渋沢
砂糖の本質が問題だが、やはり砂糖をなめても文化だということはいえないと思うのですよ。
山崎
石油は石炭とのにらみ合いもありましょうが、鉱業資源として大事なわけですが…。
渋沢
この方はもう少し何とかしていただきたいと思ってますがね。しかしそうかといっていまの東京都にあるタクシーがあれだけあっていいかどうかということも問題です。
山崎
むずかしい問題ですな。

他山の石 — アメリカの鰯漁業会社の話

渋沢
どうも個人の自由をそのままに放置するということは行き過ぎが多いですね、無駄が出てきますよ、アメリカ当りにはこういうおもしろい話があるんですよ、北太平洋のシアトルーサンフランシスコの間には鰯漁業会社が二十四ある。この漁業会社では、鰯がきたとなるとすぐ各社へ無電で知らせるんです。それでみんなで仲よく獲る、この船は三割の漁のときもあるし五割のときもある。それでも仲よく獲っているんです。それで獲ってしまうとみんな帰ってきてまた出て行く、これはなぜかというとまあ資本主義的にそれが成立つのです。一パイの船が沈むほど獲っても年間にならしますと大したことはないんです、やたらにあの広い海の中を捜し回るよりは、大きく捜してみんなで獲る方が油代がずいぶん節約になる、それともう一つは、これは非常に感心な事ですが、漁獲高が一つの会社が一回漁に行けば四千ドルぐらい貯金できるんです。これで天然資源をこれ以上獲っていいか、あるいはしばらく放置しておいた方がいいか、それを学者に研究させているのです。ここに至ると大分人間の叡智が出てきているわけです。ところがいまの日本ではたった一隻が沈没するくらい獲ってきて決してほかの船なんかに電報しようとはしない。しばらく経ってからようやく、だれにも判らないところから打つというような具合で“やらずぶったぐり”という格好です。そういう意味でもっと叡智を働かせて自己統制ということをもう少しやらなければいけないので、俺だけよければ他はつぶれてしまってもよい、という考えではいけないんです。

[以下欠落のため、『証券マンスリー』より補足]

山崎
それは共同利益という観念が日本人にはないということですね。
渋沢
今日輸出が不振だといわれているが自転車にしてもミシンにしても、これはみんなで輸出できないようにしているのじゃないかな。

人口問題の解決には

山崎
そういう面をもっと十分に勉強して行く必要があるんですね、それから海外から帰ってきた人たちの言葉をきくと、八千五百万の日本人は一体どういう考えでいるんだということなんだが…。
渋沢
私は賠償とか何とかいうけれども金を出して土地が買えないかと思うんですがね、そうして本気になって独立しなくちゃいけないと思っているんですよ。まるで生けすにうごめいている鰯のようなもんですからね。
山崎
だいいち質が落ちますよ、味も悪くなりますし。
渋沢
思想問題を別にして、そこまでダルになっちゃった大きな原因は人口問題の重圧です。ドイツにいってみますと青年の眼はキラキラしてますよ、いくら負けても平チャラで、またやるぞといった格好なんですからね、それからいくと日本はとんでもありませんね、みんなが考えているのは人口重圧です。何とかどこかに突破口をつくってもらわなくっちゃならないですね、南米なんかはちょっと遠いようだし。

中小工業の「おしゃか」をなくせ

山崎
何か最近おもしろい御研究がありましたら…。
渋沢
中小工業の問題を特に調べているんですが、ああいうところでは非常におしゃかが多いんです。日本の工業生産の中に占める中小工業の比率は大したものですから、これがおしゃかをつくらないようになったら日本は相当楽になるんです、三割以上もおしゃかをつくったんじゃ、どんな商売でも成立ちっこありませんよ、国民経済的に時間と金と労力を考えてみると、これははかるべからざるものがありますからね、これに対して金融機関がもう少しいいアドバイスをしたらいいんじゃないかと思うんですが。
山崎
やはり科学のおくれですかね。
渋沢
もっとそういう気持が盛上らなくちゃだめですよ、真面目に働いている人には気の毒だし…損をしている人が相当いるのじゃないですか。
山崎
それがみんなコストにかかるんだから競争力もなくなってくるわけですな、ちょっとこういうことは気がつきませんがね。
渋沢
最後に加納友之助さんの…。
山崎
あの人は山繁の財政顧問だったんです。

金を貸す前に智恵を貸せ

渋沢
私はあの人に可愛がられて大へんお世話になったんですが、石井定七事件であの人がひとりで責任を負っちゃったりしましてね、それを東海銀行に拾われて頭取になった。昭和の初めの恐慌の直前、第一銀行に合併を申込んで、ほかの銀行はあの恐慌でほとんどつぶれたんですが東海だけが残った、これだけでも加納さんは東海銀行から銅像をたててもらっていい人じゃないかなあ。佐々木雄之助 [佐々木勇之助] さんの何かの会のとき、この方はこういうことをいわれた、つまり第一銀行は自分がみていてとてもいい面がある、金を貸す前に智恵を貸す、ただ金を貸して利子をとるのでは金貸しと何ら変るところがない、銀行はそれだけじゃいけないというのですがね。
山崎
なるほどいいお話ですな。
渋沢
これは加納さんのいい話の一つだと思っていますよ。
山崎
どうもきょうは大変に結構なお話しをして頂いてありがとうございました。

([昭和二十九年] 八月十九日丸の内東京会館にて)

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