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民族学の育ての親、渋沢敬三氏 / 中根千枝

『渋沢敬三著作集月報. 2 : 第2巻付録』(平凡社, 1992.06) p.IV-VIII掲載


 渋沢先生、と私たち民族学関係者は敬愛する対象として渋沢敬三氏をよんでいた。実際、終戦後間もない時代の渋沢敬三氏は民族学の仲間にとって、パトロンであり、父親のような存在でもあった。民族学はまだ大学の学科にもなく、財団法人日本民族学協会(現在の民族学振興会の前身)が全国の唯一の当該学界の組織であり活動の中心であり、その会長兼理事長が渋沢敬三氏であった。日銀総裁、大蔵大臣という大任を果されていながら、渋沢氏の民族学界への御尽力は並々ならぬものがあった。

 実は、この民族学協会の前身である日本民族学会は昭和九年十一月に設立されたのであるが、渋沢氏はその創立のときから理事をつとめられており、昭和十二年には同学会の付属研究所及び付属博物館の敷地として保谷に約四千坪を寄付された。昭和十三年に建物が完成し、アチック・ミューゼアムよりの民具、標本などが搬入された。そして、この研究所、博物館の運営一切の経費は、学会会計とは別に全額を渋沢理事の寄付によるものであった。当時の学会の「学報」VI(昭和十二年十月)には「この財界未曽有の非常時に際会し而も多大の犠牲を忍んでわが学会のために精神的に物質的に熱烈なる御支援を賜る渋沢子爵の御厚志に対してはまことに感激に耐えぬ次第である。」と記されている。

 以来、保谷(現在の民族学振興会の所在地)は、民族学者たちの活動の中心となり、戦時の困難をのりきり、戦後、渋沢会長を中心として再建が図られ「財団法人日本民族学協会」として活発な活動が展開されるようになったのである。渋沢氏は会長兼理事長として昭和二十年九月―二十四年八月、さらに昭和二十六年九月―三十八年、お亡くなりになるまで会長をつとめられた。

 この間、会長として民族学界をリードされ、また学会活動、民族学標本の収集、海外調査への援助を惜しまれなかった(財界からずい分寄付を集めて頂いた)ばかりでなく、年一回の日本人類学・民族学連合大会にもときどき御出席され、民族学者たちと親しく歓談された。今で思うと、あのお忙しい財界の活動、大きな責任のある地位にあって、どうして民族学界のために時間をおつくりになったのだろうと不思議な気がする。私たちと民族学のことを話されているときの先生はとても楽しそうで、私たちも、財界の重鎮でいられることをつい忘れて、お親しい頼り甲斐のある先生といった感じで接していた。

 たまたま、私がインドに調査に行くとき(昭和二十八年)、渋沢先生に御挨拶をということで、国際電信電話の社長室にお訪ねしたことがあった。社長室での先生は仕事を次々とこなしていられる精悍な財界人といった感じで、別人のようであった。そして、「これを調査費に」とポンとお札をテーブルの上に置かれた。たしか五万円だと思ったが、当時は一万円札がなかったのか、ずい分厚みがあったようにおぼえている。

 海外に御出張のときは当地にいる私にいつもお知らせ下さり、寸暇を惜しんでお食事を共にして下さったり、ドルで調査費を下さったりして、御芳情をかけて頂いた。中でもイタリヤ留学中には、先生は会議のあと、音楽と彫刻の勉強に来ていた二人の青年と私の三人を連れてナポリからアマルフィに二~三日の旅を楽しまれた。彫刻を学んでいる方が御自分の車で運転されたので、いつも四人で、景色のよい所や名勝などに来ると停って休みながら旅をつづけた。先生は例によって、少しも堅苦しくなく自然体でいられるので、こちらも少しも疲れることがなかった。先生は中食に一寸寄った小さなレストランの名前など必ずメモしていかれ、また廃墟を訪れたりすると、そこの草花を手帳にはさんで押花として記念にされていた。先生は「物」で語る方法を徹底してとられていたと思う。御自分の感情投入とか批判的な表現は殆んどなされない。対象に対する意見はされても、それはきわめて客観的なものであった。

 したがって、私には先生は聖人君子のような方にみえ、先生の前では自分のいたらなさが恥しいように感じられた。そして、もう少し感情をお出しになったり、我侭に振舞われたら面白いのに、などと思った程であった。これは先生の生れつきの御性格か、また、若い頃からお祖父様をお継ぎになって重要なお仕事につかれ、多くの人々の為にお尽しになったという立場からくるものか、あるいは、思うところがあって、御自分をコントロールされて修養をおつみになった結果なのか、私には今もって謎である。

 しかし、酒席を好まれたことも確かである。私など借りてきた猫のようになる新橋の料亭では先生はとても楽しそうでいらしたし、ナポリの夜、海に面したレストランで、楽師の奏でるバイオリンや歌をききながら、おいしいワインとお料理で心ゆくまで楽しまれていた先生のお姿を昨日のことのように思い出す。

 こうした時の先生や、民族学関係のお仕事をされている時の先生は、激務である本職に対して趣味とかレジャーなどというものではなく、本当に打ちこんだ時間であったようにみえる。義務でなく好きなことに没頭できた時間で、先生はそれを完全に楽しまれていたと思う。そして周囲の者たちをも楽しませて下さる大らかさをもたれていた。

 あらゆる分野で先生のお世話になった人々の数は限りない程多いことと思う。そのなかでも私たち民族学界への先生の貢献ははかりがたいものがある。日本の大学に民族学関係の学科が出来はじめたのは昭和二十五年前後てあり、それまで民族学協会の果した役割は大きく、一に渋沢先生の御尽力にかかっていたのである。渋沢先生が保谷の土地を提供されたのは、単なる民族学の標本を展示した博物館だけでなく、野外博物館としての構想がおありになったときいている。渋沢先生をはじめ民族学界の長い間の念願であった民族博物館は、遂に昭和四十九年六月に大阪千里の万博記念公園内に「国立民族学博物館」(館長梅棹忠夫)として創設され現在にいたっている。保谷にあった三万数千点にのぼる標本類はすべてそちらに移管された。

 保谷の土地、博物館の建物などがあった三千坪余の敷地は三五〇坪を残して清水建設に売却され、それによって得られた一億三千万円のうち三千万円を建物の改築にあて、一億円を基金として財団を運営することになった。当時既に病床につかれていた渋沢敬三氏の意志を受けて、古野清人理事長他九名が理事として任命され、昭和三十九年「財団法人民族学振興会」が発足した。昭和五十二年から古野理事長を白鳥芳郎氏がつぎ、昭和六十一年から私が理事長として今日にいたっている。

 渋沢先生の御生存中には、よもや私が先生の残されたお仕事の責任者になろうとは夢にも思ったことがなかったが、考えてみると、民族学研究者の中でも世代が代り、渋沢先生を直接存じ上げている方々も大変少くなり、その中でも私など一番お親しくしていた一人であったことを思うと、先生の御意志を何とかしてついで行き、時代にふさわしい民族学の一つの拠点としていきたいと思っている。標本類は前に述べたように大阪の国立民族学博物館にうつったが、戦前からの民族学関係の貴重な蔵書を擁しており、また、日本全国の民族学者の情報も整っている。現在行っている事業として特色あるものは、渋沢賞の授賞ならびに若い研究者達に対する研究助成(これらは渋沢敬三記念基金の助成によっている)。この他、外国の民族学関係機関との交流、などである。民族学協会から民族学振興会に移行した際、分離した日本民族学会と協力関係にあることはいうまでもない。

 民族学振興会は、諸大学に民族学関係の学科(文化人類学、社会人類学など)ができるまでの長い期間民族学界の中枢機関として、また国立民族学博物館設立まで生みの親として、大きな役割を果してきて、今日、保谷にひっそりと構えているが、世界の大きな変動期にあって、民族学の重要性はますます認識されてきており、大学ではできない、国内外のネットワークのセンターとして、また、学界のみでなく一般社会に向けても民族学の情報を提供できる機関として脱皮したいと考えている。そのためには、保谷でなく、内外の訪問者が来やすい都心にサロンのある研究機関ができたらと希っている。こうしたことこそ、新しい時代にあって渋沢先生の御意志をつぎ発展させ、御功績を顕彰する道であると私は信じている。因みに民族学振興会の英文名は Shibusawa Foundation for Ethnological Studies である。

(なかね ちえ/東京大学名誉教授・財団法人民族学振興会理事長)

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