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渋沢敬三先生と日本の霊長類学 / 伊谷純一郎

『渋沢敬三著作集月報. 1 : 第1巻付録』(平凡社, 1992.03) p.I-V掲載


 渋沢敬三先生の御著書『犬歩当棒録―祭魚洞雑録第三―』の「旅譜と片影」(本著作集第四巻に収録)には、明治から昭和にかけての先生の足跡が丹念に記されている。昭和二七年一二月七日から二〇日の間は、九州の東南部を広く歩いておられる。まず椎葉を訪ねられ、都城、宮崎、青島を経て日南海岸を南下された。それは「パージ・ニコボツ時代」(昭和二一年五月―二八年三月)に属するのだが、つぎのように記されている。

青島=日南(講演、小村寿一銅像)CP船こしき丸四五〇トン****幸島沖****都井岬(泊)(清水旅館、ランプのみ電灯未設、灯台、馬)=福島志布志

そして、CP船こしき丸と、船上からの幸島と都井岬、清水旅館の庭に来た馬の写真が掲載されている。幸島の写真には「サルの研究所あり」、馬の写真には「朝食後都井馬(二歳)来り味噌汁等食う。よく馴れていた。その後惜くも死んだといわれる」と説明されている。

 その年の八月には、私たちがついに野生ニホンザルの餌づけに成功していた。島で調査を進めていた私たちのところに、渋沢先生が日南に来られるから出てくるようにとの知らせがあり、川村俊蔵さんと私はバスて日南に向かった。一二月一二日のことで、飫肥で先生にお目にかかった。小学校で、「他山の石」という先生の御講演を拝聴した。私の野帳には、校長の求めに応じられ、先生が「君子和而不同 小人同而不和」と揮毫されたことが記されている。

 CP船こしき丸というのは、いまでいう海上自衛隊の船だったと思う。油津港から先生のお伴をして乗船し、船は築島の沖を通り、幸島と鳥島の沖を南下した。私は東側から見た幸島について、「のっぺりして、とりとめのない島に見える」と記している。私たちはこの島のサルのことを先生に御説明した。先生の写真説明の「サルの研究所あり」というのは、将来研究所をつくりたいと申し上げたのを聞き違えられたのだと思う。

 幸島の南に都井岬が伸びており、私たちはこの岬で続けられてきた今西錦司先生の半野生馬の研究のことをお話しした。船は都井の沖で停泊し、艀《はしけ》で上陸し、御崎の清水旅館に着いた。ランプしかない宿は、先生には印象深いものであったに違いない。私はこの日の夕景が殊のほか美しかったことを記している。私たちはランプの光の下で、幸島での新しい発見の数々を意気込んでお話ししたのを思い出す。翌朝は、灯台と馬の御案内をし、鹿児島に向かわれる先生とお別れし、バスで市木に戻り、島に渡って調査を続けた。

 私たちが霊長類研究グループをつくったのは、この前年昭和二六年六月のことだった。宮地伝三郎先生に代表者になっていただき、今西先生、間直之助先生、川村氏、河合雅雄氏、徳田喜三郎氏、そして当時大学院生だった私が主要メンバーで、活発な野外活動を進め、京都では会合を開いてその成果を発表し、ガリ版刷りの報告書を出すといったことを始めていた。渋沢先生が京大理学部においでになり、私たち一同が先生にお目にかかったのがいつのことだったか、確たる記録は残っていない。

 しかし、「旅譜と片影」の昭和二七年五月二三、二四日には「京阪、貯蓄講演」とあり、夜行て京都に着かれ一泊しておられる。そして、「今西、今村、宮地、間直之助、理学部サル蓄養、いせや中食、浜口雄彦、貝塚茂樹博士、住友銅器」とある。どうもこのときに先生に最初にお目にかかったのではなかったかと思うのである。「今村」とは農学部の今村駿一郎先生であろう。「理学部サル蓄養」とは、当時教室の中庭で飼っていたタキとその息子のモンに違いない。間先生の『猿の愛情』(一九五四年)には、「種つけのため動物園にあずけていたタキを、五月二三日に教室に連れ戻した」とあり、先生はそれを御覧になったのだと思う。

 同じ年の九月二五日から三〇日には、高松、小豆島、京都の旅譜があり、「マルキ。コンクリン、太市、人文科学研究所、苔寺」とある。「太市」はおそらく誤記で、すっぽん料理の大市である。私たちがすっぽん鍋の御馳走にあずかったのは、このときにまず間違いない。

 私たちは宮地先生の部屋に集まっていた。最初は緊張していたのだが、渋沢先生の温顔と、猿への飽くことのない御関心にほぐされて話がはずんだ。先生は五黄《ごおう》の申《さる》のお生まれとうかがったが、民族学における猿は興の尽きない存在であったに違いない。柳田国男に『孤猿随筆』があり、河童駒引譚の背後には猿が見え隠れする。また先生が当時『南方熊楠全集』の宣伝に尽力しておられたことからすれば、『十二支考』中の猴《さる》も先生の脳裏を去来していたろう。

 しかしその一方で、先生は霊長類学の重要性についてはっきりとした認識をもっておられた。それは、昭和三二年に外務省顧問・大使として南米を旅された折の旅行記『南米通信』のリオデジャネイロにおける次の記載(本著作集第四巻に収録)を見ても明らかであろう。

(八月)二十六日の午休《ひるやすみ》を利用、瀬川孝吉君を東道にしてコスモスなるドイツ系古本屋に入ったが中々大したもので感心した。フォン・ウエグス著一八三一年刊「新旧大陸の猿とマキ(マダカスカル辺のもの)」上下二冊及びリマという人の南米の猿譜を入手した。後者は不幸にして著者が亡くなったので第一巻しか出ないという。二冊買って一冊は前者と共にマンキーセンターに寄贈することにした。

それらはともに、日本モンキーセンター蔵書中の第一の稀覯書《きこうしょ》として大切に保存されているのである。前者は、Pietro Hugues 著の“Storia Naturale delle Scimmie [Scimie] e dei Maki”で、一八三一年に出版されている。後者は、Eladio da Cruz Lima 著の“Mammals of Amazonia”の第一巻で、一九四五年に刊行され、その内容は「総説と霊長類」となっている。

 さて件のすっぽん鍋であるが、私たちは渋沢先生に従って動物学教室の外に出てみて驚いた。そこには、第一銀行の黒塗りの乗用車何台かが並んでいたのである。汚い風体の私たちもそれに乗り込み、車を連ねて千本の大市に行った。黒光りする土鍋を囲んでの歓談とすっぽんの味は忘れられない。私たちは鍋のおかわりまでしたのだが、先生は若者どもの旺盛な食欲をにこにこしながら眺めておられた。それは、私たち自然人どもへの、先生からの豪華な贈物だったのである。

 五月の御上洛のときには、幸島のサルはまだ餌づいていなかった。幸島を最大の標的にしながら、ニホンザルの分布の南限である屋久島を訪れたいということを先生にお話しし、調査費の援助をお願いしたのだと思う。幸島の第四回目の調査は川村さんと私とで六月二二日に着手し、そのあと二人で最初の屋久島の調査を行っている。さらに八月五日から二六日までは徳田君と私で幸島におもむき、ついに餌づけの成功をなしとげたのである。

 九月の御上洛の折には、今度はニホンザルの分布の北限である下北半島と、東北地方の調査計画をお話しし、この御援助も受けている。この調査は、私が単身で、下北を振り出しに十和田、北小国、三面、朝日岳を歩いている。

 先生からいただいたお金はけっして多額ではなかった。川村さんは大阪市立大の助手になっておられたし、私は特別研究生の奨学金をいただいていた。ただ当時は、科学研究費などは得られず、とにかく遠隔地への旅費が問題だったのである。私は二度とも、上京して先生のお宅をお訪ねし、書斎に通された。そこで改めて、先生は私が御説明する調査の目的や、行く先々の地名などに耳を傾けられ、机の袖の引出しの中からお金を出して手渡して下さった。こうして私は、東京から九州に、そして青森に直行したのである。

 昭和三三年に、最初のアフリカ行の直前に、今西先生と二人で御挨拶にうかがったときのこともなつかしく思い出される。「なによりもドルが必要だ。少し持ってゆき給え」とおっしゃって、やはりあの引出しの中からドルの紙幣を取り出して餞別として下さったのである。

 昭和三一年一〇月に、財団法人日本モンキーセンターが設立され、渋沢先生に初代の会長になっていただいた。その翌年に、私たちは『プリマーテス』誌の発刊に漕ぎつけた。その第一巻第一号に、「発刊によせて」という会長のお言葉をいただいた。先生は「この雑誌が、価値の高い、楽しい、そして研究と反省と進歩をもたらす文化的な場になろう」と述べておられるのであるが、本誌は二年後には英文になり、今世紀後半の霊長類学の発展に多大の貢献を果たし、昨一九九一年第三二巻を刊行しているのである。

 財団設立の二年後には、アフリカ類人猿学術調査隊が派遣された。この調査隊こそは、日本がアフリカ大陸に送った最初の科学的な調査隊だったのである。そしてそれは、渋沢会長と、名古屋鉄道株式会社の土川元夫会長(当時副社長)の御理解と御援助なしには実現しなかったのである。私はこのことについて、『サル・ヒト・アフリカ―私の履歴書』(一九九一年)の中で述べている。

 「旅譜と片影」の昭和三三年七月二〇日、「犬山、モンキーセンター(泊)犬山(不老閣)」となっているのは、今西先生と私が七月一〇日に最初のアフリカ調査と欧米周遊を終えて帰国したあとの、報告を兼ねた理事会を指しているのだろう。当時の渋沢会長、田村剛理事長、土川、宮地、安東洪次各常務理事、いずれも木曽川の夕景と、その河辺の宿不老閣を愛でられた方々だったが、そのどなたもが故人となられ、そしてあの不老閣も消えてしまったのである。

 昭和三八年九月三〇日、私は四回目のアフリカ行に出発することになっていた。その前日に、虎の門病院に入院なさっていた渋沢先生をお見舞いした。私はそれが先生との最後の出あいになろうとは思いもせず、調査計画をお話しし、先生は静かにうなずいておられた。拙著『チンパンジーを追って』(一九七〇年)の冒頭の部分は、タンガニイカ湖畔から内陸に入ったマコロンゴの台地の上から、南方に広がる無人の原野カサカティを初めて遠望した一〇月二五日の記述になっている。

 その日に渋沢先生が亡くなられたなどとは、タンザニアの奥地で調査していた私には、翌年の三月中旬に帰国するまで知るよしもなかったのである。

 日本の霊長類学の誕生を憶うとき、また霊長類学の今日の発展を思うとき、渋沢先生から受けた御恩はけっして忘れることができないのである。

(いたに じゅんいちろう/京都大学名誉教授)

*原文では「泊」の丸囲み文字

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