語られた渋沢敬三

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『瞬間の累積』解題 / 河岡武春

『渋沢敬三. 下』(渋沢敬三伝記編纂刊行会, 1981.08) p.224-229掲載

瞬間の累積 A4・二七八頁 慶友社 昭38・10刊

 まず書名の由来であるが、本書のあとがきにつぎのようにある。「明治二十六年ともなれば早撮り写真という言葉も廃たれて、写真機は蛇腹のある暗函で三脚をつけてゴムのシヤッターでうつした時分です。ガラス製の乾板はイルフォード、印画紙はピーオーピーと決まっていたように思います。その頃から明治四十三年にかけて、五百五十枚のこの写真集は、当時の写真機のシャッターで、平均五十分の一秒でうつしたこの写真の全体をあわしてもわずか十一秒間のもので、題して『瞬間の累積』としたのであります」

 敬三の父篤二は芸術的素質のあった人でまずその現われが写真に出て、明治二十六年の始まりは大磯は鴫立沢の西行堂と西行坐像となっている。この年篤二は熊本の第五高等中学を在学一年余にして中退したばかりであった。篤二は母の血を多くうけてか、蒲柳の質で、しかも少年の折に母を失っており、穂積陳重に嫁いだ長姉歌子に育てられていた。そして、その頃から穂積の一家とよく大磯へ転地していた。写真に凝りだしたのはその時分からであると敬三はいっている。

 篤二の写真の先生は中島待乳園であったかも知れない。というのは明治三十二年に穂積に同行して欧米旅行をするが、ロンドン、リゼント街にあるステレオスコピック社でも技術習得を心がけたにちがいない。同社は英国王室御用写真師であった。「之レハ倫敦一、二ノ大写真屋ニシテ余等写真ハ即チ此ノ店ニテ写セルモノナリ。余ハ自身ニテ写セル写真ハ即チ終始此ノ店ニテ写セルモノナリ。余ハ自身ニテ写セル写真ハ即チ此ノ店ノ暗室ヲ借リ現像セルモノナリ。日本ノ中島待乳園トモ申スベク、余ノ写真ノ先生ナリ」と妻敦子に書き送っているからである。

 また篤二はロンドン着後二週間目に右のステレオスコピック社で「写真器械」を買った。そうして陳重は家信に「篤二君は先日求めたる双眼鏡形写真器を肩に掛け、仕立おろしのジャケットを着し倫敦には七、八年も居りますと言う様なる風にて諸所の風景に対し得意の腕を振われたり」と書いた。本書所収のロンドン、パリ、ローマなどで撮った写真はこの双銀鏡型写真器械であった。それ以後でも、明治四十年ごろ、はじめてイーストマンコダックのロールフイルムの手提げ機が現われると、すぐそれに移るなど、つねに先端を進もうとしていた。

 敬三はやはり「あとがき」で「父のうつした写真を通覧すると、たんなる家族だけを写したのではなく、一種の、今でいえばルポルタージュ写真の先駆者というくらいに各方面のことを被写体にしています。したがって、この写真集によく当時の面影をしのんでおると思います」とあるように後世に遺りうるものである。たしかに当時の社会史、風俗史の資料として、この中から「明治」という時代を十分実感することができる。

 本書上梓の直後、東京写真大学の鎌田弥寿学長は「当時、ここに見られるようなスナップ写真は、実に意表をつく新しい試みだった。篤二氏の人となりは知りませんが、その時代相から考えると、まことにすばらしいカメラ・アイの持主であり、日本でのルポルタージュ写真の先駆者といえるでしょう」と高い評価を与えている。なお、この仕事は篤二の二十二歳から三十九歳までの労作である。

 本書は出版社がかかわっているが、渋沢家の私家版というに近く、そして父篤二の三十三回忌を前に、敬三が死に至る病にあって企画したもので、キャプションはイタリヤの部をのぞいてすべて敬三の附したものである。

 父には、穂積、阪谷、尾高などの重要な親類がありましたが、なかなかこの間に、今の言葉でいうと、父の争奪戦が、ごく明らさまでなしに行われておったらしいので、父はそれを厭ってついに逃避をしてしまいました。明治四十一、二年からは、前からやっておった義太夫にも凝っておりました。写真の方は四十三年まででプッツリ切れて、それ以後のアルバムはありません。そんなわけで、余り実業界で働くことも大してしないで閑居の生活にうつってしまいました。

 私が中学二、三年の時分、私の母はそういう風になった状態を大へん申訳なくおもい、かつ大きな家に住むのを済まぬとして、東京都内の諸所方々を転々と移りながら、一意、私たち兄弟三人の成人を見守っておりました。私は中学三年の時に病気をして落第をしたのですが、これは母にとって一つのショックだったと思います。しかしそれがまた逆にいい結果を生んだのかも知れません。

 大正四年に第二高等学校を受けてみたら幸い入学しました。母はとても喜んでくれました。それからのち大学を出て、普通ならば、第一銀行にでも就職をする段取りだったのですが、私は他人の飯がくってみたく、祖父にたのんで正金銀行に入れてもらいました。そして三年のロンドン生活を終えて帰国しました。それから第一銀行の重役として迎えられましたが、私は実業を志していなかったので、銀行は大切だと思いましたが面白いと思ったことは余りありません。しかし真面目につとめておりました。が、人を押のけてまで働こうという意志もありませんでした。

 昭和六年に祖父が亡くなり、その翌年私の父が亡くなりました。そのうちに世の中が変って戦争に突入するようになったのですが、昭和十六年の暮、太平洋戦争の勃発直前に、第一銀行の副頭取に就任しました。そして翌年の十七年三月に、とつぜん賀屋大蔵大臣から日本銀行副総裁になるようにというお話がありました。私はもちろんその任でないからお断りをしました。当時の第一銀行の頭取はじめ皆は「これは跡取りだから養子にくれというのはひどい」と言って断わったのですが、賀屋さんはなかなか承知しないで、とうとう相談役の佐々木さんと石井さんを訪れてくどき落としてしまいました。そこで万止むをえなくなって、第一銀行をよして日本銀行にいくことになりました。

 このことは私の母にとっては非常な驚きであったようです。しかも大変喜んだらしいのですが、そのことについてはつい素振りにも見せず、私も忙しかったのでノンキに構えておりました。そうして翌十八年の三月六日に母は亡くなりました。それから暫くたって、母についていた、幾という忠実な女中さんから洩聞いたのですが、私が副総裁になった時に、母は、幾《いく》にたいして本当に声を出して泣いて喜んだそうです。「第一銀行の頭取になるのは親の七光りであるけれども、祖父が死んで十年以上たって、とつぜん日銀に迎えられたことはたんなる親の光りだけではない。これで自分も冥土へ行って、父や祖父にあわす顔がある」と言って泣いていたそうであります。私も思わぬところで――私は自ら日銀に行きたいと思ったのでもなく、またそれを得意にも感じておらなかったのですが、後になって、そう言われてみると、知らぬうちに一つだけは孝行をしたと思っております。しかし考えてみると、戦争中であったとはいえ、今はもう少し何か孝養をつくしておけばよかったと思って居ります。

 父は昭和七年に死ぬまで、私ともしょっちゅう交渉が深かったのですが、なかなかいろいろな点で面白い趣味を沢山もっておりました。写真集からもうかがわれるように、狩猟も好きであったし、狂歌もよくしておられました。また義太夫も相当に上手だったし、犬などもなかなかくわしく、愛犬家としても一かどの人でありました。

 来年は、父が死んでから三十三回忌になります。何か父を記念したいと思っていましたけれど、これという案もおもいつかなかったのですが、結局、古いアルバムの中から、父自身の撮影になる『瞬間の累積』をまとめてみました。残っていたアルバムは都合十二冊でしたが、むろん全部ではありません。移転を重ねたので散佚したのも少くありませんが、その中から選び出したのがこの写真集であります。これが一つの当時の社会史、風俗史をあらわすものとすれば、何らかの資料としてお役に立てるかと想いこれを印刷に付して、生前いろいろ御世話になった方々にさしあげて、三十三回忌の供養にしたいと思立った次第であります。

 私の父の戒名は、寛永寺の長沢僧正が篤信院閑林自照大居士とつけました。私は戒名はあまり好きではありませんが、この閑林自照、まばらな林を自ら照らしているという文句は、何だか父の気持を出しているようで、この戒名だけは気に入っています。

 以上は本書のあとがきの大方であるが、本書の発刊は、渋沢の生前やっと間にあって、死の三日前、十月二十二日(昭和三十八年)に出来上った。この書物は故人が世話になった方々に記念に遺族から贈られた。その礼状の一通につぎのような文面(葉書)があった。

 実に好個の記念を残されたものと敬服に堪えません。あとがきは録音ということですが、大へんな名文と拝読いたしました。たった三頁ですが千頁の長編になりうるものを蔵しているからであります。

 この指摘をしたのは、当時、文芸春秋社社長であった佐々木茂索氏である。そして佐々木の作家的直観を与えた『瞬間の累積』が、単なる明治後期の風俗資料にとどまらず、視覚的に、渋沢同族ほかの栄一をめぐるドラマを秘めており、見る者の眼によって、創造力を刺戟して止まぬものをもっていたからであろう。 (河岡武春)

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