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渋沢敬三記念国際シンポジウム
「もうひとつの民間学 - 知識人・文化人としての渋沢敬三」

掲載:2013年09月11日

開会のごあいさつ / 渋沢雅英

渋沢雅英

 渋沢敬三の50年忌を記念する大切なシンポジウムにお招き頂き、有り難く思っています。東大の佐藤健二先生にはここ数年「渋沢敬三記念事業実行委員会」のために、お忙しい中を親身なご尽力を頂き、心から感謝しております。また本日はこの企画のためにアラン・クリスティー先生、ノリコ・アソウ先生、ジョルダン・サンド先生にわざわざ米国からおいで頂いた事に、心からお礼を申し上げたいと思います。

 数日前、小出いずみさん(渋沢敬三記念事業実行委員会事務局)とお目にかかったとき、今日のご挨拶は単なる儀礼ではなく、息子から見た敬三の人間性についてお話しするようご提案を頂きました。現在の私より21年も若く、わずか67歳で亡くなった父親について、今更親子という枠組みで考えるには、多少の違和感があります。しかし父親はいつまでも父親ですし、その生き方について、最近になって見え始めた部分もありますので、その幾つかを簡単にお話したいと思います。

 人は父親の背中を見て育つと言われます。確かに父親の存在は、子供にとって、人生や社会との関係についての貴重なレファレンスとなる場合が多いと思います。父親のあり方に反抗し、自分の独自の道を探して成長する事もありますし、一方父親の生き方に同感し、それを見よう見まねで人生を作ってゆくケースもあると思います。私の場合はそのどちらでもなく、ある面では父の存在が大きすぎて、自分の人生のモデルと考える事が出来ませんでしたし、また反面で、戦争や戦後という時代の変化が大きく、父とは違う道を見つけなければ、自分の人生を組み立てる事が出来ないという状況に迫られても居ました。

 私が物心ついた中学生の頃、父は第一銀行という大きな銀行の常務取締役、業務部長として、経営の全責任を負っており、一種の重量感を、いつも身辺に漂わせていました。

 しかしそれと並行して、敬三の場合は、ようやく最盛期を迎えようとしているアチックミューゼアムというグループの先達として、懸命に働いてもおりました。週末には夜行で東京を離れ、地方での調査に参加し、日曜の夜行で帰京し、銀行に直行するというような離れ業を、平然と続けていました。それだけでも、私には及びもつかない生き方で、敬三の背中は遙か遠くにしか見えなかったものです。

 「怒る」という事が不思議なほど少ない人で、なぜ怒らないのかと私が聴くと、笑いながら、それは周りのみんなが僕を怒らせないようにしているからだと言ったのを今でも覚えています。とは言っても、銀行の業務と無関係な学問に余り没頭されては困るという批判めいた事を言われる事もあると、言っていました。しかし父がそうした批判を気にしないでいられるのは、銀行人としての昇進や栄達を望んでいない事の裏返しだと言う事は、幼い頃から私は気づいていました。その後戦争が進展し、思いがけず日銀副総裁にスカウトされたときには、得意そうな顔をするどころか、官の圧力に屈した事を、祖父栄一に申し訳なく思い、谷中の墓地を訪れて謝ってきたと、その夜家族に話してくれました。

 そうした世俗的な欲のなさは、私から見て敬三の背中を近寄りがたい物にしていました。日本農学賞を受賞した時には、素直に喜んでいましたが、だからといって、強いて野心的な研究を進めたり、アカデミアでの地位や名誉を求めて運動をするなどと言う発想は、全く持たなかったようです。

 物欲という面でも、いつも淡々としており、立派な別荘を買うとか、贅沢な旅行をするとかいう姿は見た事がありませんでした。それにひきかえ、中学や高校の頃の私は、高級な写真機やレコードプレイヤー、更にはモーターボートが欲しいなどと思い、そういう物を持つ事による、周囲の褒め言葉や評価に対する、思いがけないほどの執着があることを自覚していました。

 そしてそういう私に対して敬三は、世間話でもするように、「まあ、足を知る事だね」などと言ってやんわりと忠告するのですが、その背後には、敬三の特有の人生観が大きく根を張っている感じがありました。そして敬三がどうして「足るを知る」ことができたのかを、いつも疑問に思っていました。

 「いつそんな決心をしたんですか」と直接聞いてみた事もありました。「さあ、知らないね。どうしてそう考えるようになったんだか……」敬三は本当に分からないような、またあまり興味もないような顔をして、とくに答えてはくれませんでした。

 ところが最近になって、敬三をそういう人間にしたきっかけではなかったかと思われる光景が目に浮かぶようになりました。その時の敬三は中学の上級生で、その後の人生の進路の選択に迷っていました。自分としては動物学の道に進みたいと願っていましたが、一方祖父の栄一が実業界で活躍して欲しいと望んでいる事を知っていました。

 動物学への思いは昨日今日の事ではなく、明治43(1910)年、中学2年生の時には三崎の東大の実験所に通って雨宮育作先生の指導を受けたり、4年生になると、海浜学校に滞在中、同行の友人と一緒に猫鮫に寄生する海蛭・老幼十数匹を採集して丘浅次郎先生に贈り「初見として喜ばる」などということもありました。すなわち幼少の頃から、深川の家の庭にあった汐入の池と、そこに住む動物たちをひたすら眺めていた少年は、いつか成長し、動物学者としてのキャリアを見通す事の出来るまでに育っていたのです。

 そういう敬三の将来を巡って、偉大なる祖父と、優れて知的な孫との間で、いつ果てるとも知れない談判が行われました。祖父の説得は老巧で、「いかんとは言わない。いけないといえば無理にでも行くと言うことを知っている。だからいかんとは言わない。それもいいだろう。だけれども、実業というのはこうしたものだし、世の中のためになる。だから(学問の方は)趣味としてやるがよい」という論法だったようです。

 半年以上も持久戦が続き、敬三はその間親戚を回って「世論喚起」に勤めますが、もちろん成功するはずはありませんでした。やがて議論も煮詰まってきて、敬三が栄一と差し向かいで飯を食うという場面となりました。祖父は真面目な顔をして、「お頼みする」と言いました。「おまえの言うことは分かって居る。悪いとはいわんけれども、おまえも俺の言うことを聞いてくれと言われた。あれだけの人物から本気になって頼むと言われると、ホロリとなっちゃう。それではしょうがありません。承知しましたと言ってから、不意に涙が出て困ったのを覚えている。すると祖父もホロリと涙を出した。母も泣いてくれた。それで動物学というものは死んだ子みたいな気になっちゃった。」

 敬三の人生は、こうした経緯を経て作られてゆくのですが、おそらくはその時に、敬三は自分の人生は自分の物ではないと心に決めたのではないかと思います。そしてその代償として、敬三はもろもろの執着や、社会や組織の制約から解放され、自由で豊かな発想に導かれ、思いのままに生きる事が出来るようになったのではないかと思うのです。

 考えてみれば、栄一の懇願にほだされて、財界人への道を選んだ事は、敬三にとっても、また日本の国にとっても歓迎すべき選択だったのかも知れません。戦争や敗戦という激動の中で、敬三は日銀総裁や大蔵大臣などの役職を務めますが、他の財界人とはひと味違う心構えとスタイルで、与えられた義務を果たす事となりました。一方いったんは死んだ子と思って諦めた学問への道は、年とともに敬三の中で、形を変えて成長し、やがて華麗な花を咲かせる事となりました。そうした全体的な成り行きを、栄一が予知していたと考えるのは深読みにすぎると思いますが、失敗した企業すらも、いつの間にか生き返らせてしまうという、天才的な栄一だったからこそ可能となった、曲芸のような選択だったと考えるのも、必ずしも的はずれではないかも知れません。

 小出さんのお言葉に従って、ご挨拶の代わりに、思いついたばかりで、こなれてもいない、つまらないお話を申し上げましたが、なにかのご参考になれば幸いです。今日は本当に有り難うございました。

2013年9月7日

(公益財団法人渋沢栄一記念財団理事長、一般財団法人MRAハウス理事)


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