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日本経済の激動の時代、その時渋沢敬三は・・・
渋沢敬三記念事業シンポジウム「戦時戦後史の立会人 渋沢敬三」

掲載:2012年10月04日

開会のご挨拶 / 渋沢雅英

渋沢雅英(撮影者:落田伸哉)

 ご紹介頂いた渋沢でございます。武田先生のご尽力により、故渋沢敬三の50年忌を記念する行事の一環として、このようなシンポジウムの開催が可能となりましたことを心から感謝しております。

 武田先生のお考えによる「戦中戦後史の立会人」という本日の標題は、非常に意味が深く、敬三の人生を考えるための貴重な鍵の一つを提供されたものとして、たいへん有り難く思っております。

 50年忌記念事業を計画したいと考えたのは今から4年ほど前のこと、財団法人「MRAハウス」より、公益法人制度の改正による組織替えに際して、生前の敬三が提供した物心両面の支援を記念するため、剰余金の一部を拠出したいというご親切なお申し出がありました。そしてそれに呼応する形で渋沢栄一記念財団が、財団の事業の一環として、その構想の具体化に取り組むことを決議されたことがこのプロジェクト発足の契機となりました。

 渋沢財団は本来は渋沢栄一の人生と業績を顕彰することを目的とする公益財団法人で、渋沢史料館での展示を始め、『渋沢栄一伝記資料』の電子化、各種国際的共同研究などを進め、多くの分野で成果を上げております。それに加えて今回渋沢敬三を取り上げましたのは、戦前戦後に亘って敬三が尽力した『渋沢栄一伝記資料』全68巻の編纂や刊行、実業史博物館の設立準備など、財団が現在進めている多くの事業の基盤となった広範な資料の整備に貢献したことが認められたことによるものでした。

 現在では渋沢財団、とくに井上潤渋沢史料館長、小出いずみ実業史研究情報センター長が事務局を主宰され、由井常彦先生を委員長として、国立民族学博物館、神奈川大学日本常民文化研究所、国文学研究資料館、宮本記念財団ほか多くの皆様のご協力をいただき、2013年10月に巡ってきます没後50年に向けて多彩な事業が計画され、準備が進められております。武田先生を中心とする本日のシンポジウムはそれらの先駆けとなるもので、ここ数年間の皆様のご努力がようやく本格的な形を取り始めましたことは非常な喜びで、感無量なものがございます。

 生前の渋沢敬三は「僕を理解する人は少ない。人は僕をなかなかわかってくれない」としばしば嘆いておりました。晦渋な性格でもなく、話し好きなうえ、よく整理された旅譜や映像、民具をはじめ常民生活資料の収集、多くの著書や随筆等、自らの業績を惜しみなく開示していたにもかかわらず、敬三の人生を全体として把握、理解した人は少なかったようです。

 明治・大正の日本を代表する超大型の指導者だった渋沢栄一の後継者に指名されたことで、敬三は複雑で、多面的で、通常の理解を超える存在として育つこととなりました。67才で死を迎えますが、その約2ヶ月前、父親である渋沢篤二の写真集『瞬間の累積』を出版しましたが、苦しい息の下でその「あとがき」を口述しました。そのなかで、「銀行 [の仕事] は大切だと思いましたが面白いと思ったことは余りありません。しかし真面目につとめておりました。が、人を押しのけてまで働こうという意志もありませんでした。」(『渋沢敬三著作集』第5巻 p.440)と述懐しております。

 若くして栄一の跡を継いだ敬三にとって、自分を主張しすぎれば世の中との間に不測の衝突や批判を招く可能性が大きく、それを避けるためには常に謙虚さと節度を要求されていました。敬三は自らを取り巻くそうした力関係を正確に理解し、無駄な抵抗はせず、終始適切なスタンスのもとに人生を組み立ててきたように思われます。

 そしてそれが可能となった背景の一つは、少年時代から学問や文化への関心が大きく、その分野での自己実現を進められたことがあったのではないかと思われます。そして祖父の意志に従って、表向きのキャリアとしては経済界に身を置いて活動を続ける一方で、祖父の業績を検証するための本格的な伝記資料の編纂をはじめ、2万点を超える民具の蒐集、のちに農学賞を与えられる「豆州内浦漁民史料」の翻刻と出版、さらには魚名や延喜式などの研究、絵引きの制作など、多くの独創的な業績を遺すこととなりました。

 経済界の仕事に関しては、敬三は武田先生の云われる通り「立会人」であったかもしれません。しかしそれは傍観者と云う意味ではなく、65才で不治の病に倒れるまでは、与えられた仕事にはいつも誠心誠意立ち向かっていました。50年忌を前にして進めてきた生前の手帳の解読の結果も、その経緯を如実に物語っております。しかし地位や業績という面で、自分を前面に出すことを意識的に避けていたこともあり、50年を過ぎて、仕事の内容やその意味がよくわからないままになってしまった部分も多かったようです。

 一方の学問の分野でも、「人を押しのけてまで働く」という態度はあまり見せなかったようですが、この面では立会人というよりも、むしろ仕掛け人ないしは推進者として、日本の将来にとってきっと必要になると考えた知的資産の構築に、短かすぎた人生のすべてを傾けて努力したようです。

 今日、記念事業の冒頭に、人生の深層に潜んでいた敬三の生き方について少しでも学ばせて頂ければ望外の幸せでございます。またいつまでもお暑い中を、このシンポジウムの計画や準備にご尽力を頂きましたすべての皆様に、心からのお礼を申し上げて、ご挨拶に代えたいと思います。

2012年9月15日

(公益財団法人渋沢栄一記念財団理事長、財団法人MRAハウス代表理事)


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