歴史の立会人として | 渋沢敬三について

日本実業史博物館とは (国文学研究資料館作成資料から)

更新:2015年04月01日/掲載:2013年12月10日


日本実業史博物館構想 | 集められた資史料 | ビデオ | リンク

日本実業史博物館構想

渋沢栄一が1931(昭和6)年11月11日に死去した後、遺言によって財団法人竜門社は渋沢栄一邸の寄贈を受けた。現在の東京都北区飛鳥山公園内にある約8,470坪ほどの敷地及び建物がそれである。1937(昭和12)年5月、(財)竜門社は旧渋沢栄一邸の利用に関する委員会を設置し、渋沢子爵家を栄一より継承した嫡孫の渋沢敬三ら9名に委員を委嘱する(当時、敬三は竜門社の評議員)。そして、この委員会は答申を提出し、同年7月15日に財団の理事会・評議員会において、「渋沢青淵翁記念実業博物館」の建設が決議される。このときに決議された計画案は、渋沢敬三が「一つの提案」としてまとめた構想をベースにしたものであった。

この博物館建設計画は(財)竜門社の事業として動き出し、1939(昭和14)年5月13日、渋沢栄一生誕百年記念祭に際し「渋沢青淵翁記念実業博物館」建設地鎮祭が挙行された。しかし、戦時経済統制の強まり等により竣工には至らなかった。その後も「日本実業史博物館」の名称により、その設立に向け資料の収集および展示・収蔵のための施設の設置場所の模索が続けられたが、ついに実現されることはなかった。

集められた資史料

敬三が思い描いていた博物館は「渋沢青淵翁記念室」「近世経済史展覧室」「肖像室」から構成され、特に栄一の生きた時代を扱う「近世経済史展覧室」が重視された。そうした意図の下で、江戸時代の文化・文政期から明治に至る日本の「経済史上最モ画期的変化ノアリシ」時代の経済変遷や発展過程を具体的に表す文書から絵画・写真・物品に至る幅広い資料の収集が行われていた。

日本実業史博物館のために集められた様々な資史料は、1951(昭和26)年、敬三が設立を推進した文部省史料館(旧・国文学研究資料館史料館)に一括寄託された。そして敬三が没する前年の1962(昭和37)年、正式に寄贈となり今日に至っている。

ビデオ『復活!日本実業史博物館 : 調査報告2006年』

ここに掲載した映像は、国文学研究資料館が『復活!日本実業史博物館 : 調査報告2006年』として2007年3月に作成したDVDで、「1. 平成18年度の調査状況」「2. 昭和15年経済文化展覧会の写真帖を見る」「3. 両替屋店頭展示の復元」の3部から成る。(12分)


YouTube: 復活! 日本実業史博物館 : 調査報告2006年
http://www.youtube.com/watch?v=4RPR5Wxip-k

● ビデオ企画・制作:
  人間文化研究機構総合推進事業 連携研究-文化資源の高度活用「『日本実業史博物館』資料の高度活用」
  研究代表 青木睦 (国文学研究資料館アーカイブズ研究系)

● 演出・撮影・編集:
  原田健一

● 関連ビデオ:
  復活! 日本実業史博物館 : 調査報告2007年 (幻の博物館の「紙」)

リンク

日本実業史博物館コレクションデータベース
〔国文学研究資料館〕
http://base1.nijl.ac.jp/~jituhaku/

渋沢敬三「一つの提案」による日本実業史博物館構想(1937)
〔情報資源センター|公益財団法人 渋沢栄一記念財団〕
http://www.shibusawa.or.jp/center/birth/index.html#02


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